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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『光を仰ぐ人々 』
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『無難な贈り物』

クラリス家には、勤めて数十年になる従者がいる。

屋敷では誰もが彼女を『ばあや』と呼んでいた。

穏やかで、真面目で、出しゃばらない。

先代当主の頃からこの家に仕え、現当主である旦那様の幼少期も知っている。

今は、その娘――エレーヌ・クラリスの世話係だった。

その日も、ばあやはいつも通り、決まった時間に扉を叩いた。


「失礼いたします」

「ええ、どうぞ?」


返ってきた声は、以前より少しだけ明るかった。

ばあやはその変化に気づきながら、顔には出さずに部屋へ入る。


「お嬢様、また絵を描いていらっしゃるのですか?」

「ふふ、どうかしら?」


エレーヌが振り返る。

机の上にはキャンバスが立てられていた。

黒い髪。

紫の瞳。

静かな微笑み。

11歳にしては、驚くほど上手い。

線は迷いがなく、何より、熱の籠った作品だと一目でわかる。


(……お嬢様の絵の才能は、本当に惜しいわ)


クラリス家では、絵画は『無難な趣味』に過ぎない。

教養としては許されるが、それ以上の価値は与えられない。

余分を認めない家風なのだから。


「お茶をお持ちしました」

「ありがとう、ばあや」


休憩のためにエレーヌは筆を置き、名残惜しそうにキャンバスへ手を伸ばす。

触れるか触れないかのところで、指を止め、そのまま席を立った。

ばあやはその仕草を、何度目かの既視感として受け止める。


「だいぶ進みましたね」

「ええ! そうなの!」


声が弾む。

それだけで、ばあやは少し驚いた。


「でもね、あの方の笑顔が、どうしても上手くできなくて。それで――」

(……この絵、もう何度見るでしょうか)


景色。

果物。

建物。

植物。

これまでエレーヌが描いてきたのは、無機物ばかりだった。

人物画など、知る限り一度もない。

その“初めて”が、ばあやの知らない少女。

そして。何度も何度も描き直し、新しいキャンバスを張り。

ここまで一つのモチーフに没頭していたことも、一度もない。


「この角度だと、少し違う気がして……あ、でも、こっちだと優しすぎるかしら」


誰に問うでもなく、言葉が続く。

ばあやは、黙ってお茶を注ぎながら聞いていた。

聞いてもいない話を、エレーヌは語り続ける。


「声もね、とても穏やかで……特別なことを言うわけじゃないの。でも、聞いていると……」


言葉を探す仕草。

少し照れたような笑い。


「不思議なの。安心するというか」


ばあやは、ほんの一瞬だけ、ポットを持つ手を止めた。


(……ずいぶん、熱がこもっていらっしゃる)


そう思いながらも、ばあやは表情を崩さない。

友人らしい友人がいなかったこと。

いつも自分を律し、期待に応えようとしてきたこと。

甘え下手で、真面目で、弱音を吐かなかったこと。

それを、産まれた時からずっと見てきたから。


(……良いこと、なのでしょう。きっと)


そう、心の中で言い聞かせる。

誰かを語る時間が増えた。

表情が柔らいだ。

笑うことが増えた。

それなら、悪いはずがない。

――そう、思おうとした。




その後、廊下で現当主に呼び止められた。


「エレーヌはどうだった?」


それは父親としての配慮というよりも、跡継ぎであるエレーヌに何か問題は生じていないかという貴族としての確認。その在り方に思うところがないわけではない。

しかし、立場上、何も語るべきではない。聞かれることに答えるほかないのだから。


「はい。以前より明るくなられたご様子です。最近は、よく絵を描いていらっしゃいます」

「ほう」


ばあやは、慎重に言葉を選ぶ。


「人物を描いておられます。黒い髪で、紫の瞳の……」


その瞬間、現当主は小さく頷いた。


「ああ、ヴァロワの娘か」


それだけで、理解した様子だった。


「贈り物だろうな。商人に高価なものは意味がないし、我が家の格も落としかねん。その点、絵画なら無難だ」


貴族として、筋の通った判断だった。


「我が娘ながら、よく考えている」

「……さようでございますか」


ばあやは、それ以上、何も言わなかった。

言えなかった、と言うべきかもしれない。

その夜。

ばあやは、部屋の明かりが消える前、もう一度だけエレーヌの部屋を見た。

部屋の隅には、布をかけられたキャンバス。

その下に、何度描き直したのかわからないほど、情熱が込められた絵が隠されている。


(……本当に、無難な贈り物なのでしょうか)


答えは出ない。

出せる立場でもない。

ばあやは静かに扉を閉めた。

誰も気づかない。

少女の心に灯った火が、

すでに“絵”という形を持ち始めていることを。

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