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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『光を仰ぐ人々 』
20/23

『楽しい時間は、あっという間』

エレーヌ・クラリスは、自分が緊張していることを悟られないように、背筋を伸ばして座っていた。

父の目がある以上、自分に怠惰は許されない。

いや、父の目がなくても――“クラリス家”に生まれた以上、自己規律は常に念頭に置かねばならない。

衝性石が地面の振動を柔らかく受け止め、馬車の中では揺れはほとんど感じない。

初めての街。

しかし、どの街の学園を訪ねても王都くらいの規模でないと景色も変わらず、見慣れたものだ。

それでも、胸の奥だけが落ち着かない。


(……大丈夫。いつも通りでいい)


クラリス家は、学びと教育を生業とする中流貴族だ。

王都も含め各地の学舎と繋がりを持ち、教師を育て、書物を流し、人を送り出す。

人という無くてはならない材を引き受けるその家柄は、派手ではないが、確かな信用がある。

――それが、エレーヌの誇りであり、同時に重荷でもあった。


「エレーヌ」


向かいに座る父が、穏やかで、しかし生来の厳格さを帯びた声で呼びかける。


「ヴァロワ家については、覚えているな?」

「はい。魔石流通の要。貴族であっても、不可侵の例外です」


言葉にした瞬間、父は小さく笑った。


「よく覚えている。だが今日は、勉強ではない」

「……はい」


そう言われても、胸のざわめきは収まらない。

役割を果たさなければならないという重責だけではない。

エレーヌは、一つ年下の少女のことを思い浮かべていた。もっとも、会ったことはないので情報だけだが。

ヴァロワ家の長女。

商人の娘。

それなのに、噂はどれも奇妙だった。

礼儀正しい。

穏やかで優しい。

誰にでも分け隔てなく接する。

――そして、なぜか人が集まる。

今日はその、人を惹きつけるという、教会の”認定”を受けた少女と会う日。

同時に、コネを作ることが求められる日。偶然にも歳も近く、これはクラリス家にとっては絶好のタイミングでもあった。


(人を惹きつける……それって、どういうことなの?)


エレーヌ自身も、人に嫌われる性格ではない。

努力してきた。

学んできた。

期待に応えてきた。

優しいとよく言ってもらえる。

それでも、『集まる』という感覚だけは、よく分からない。

そして、『惹きつける』というものもわからない。人は、必死に繋ぎとめるものではないのか?

馬車が減速する。

御者の声がして、扉が開いた。


「着いたぞ」


父に促され、エレーヌは外へ降り立つ。

目の前にあるのは、派手ではないが手入れの行き届いた屋敷。


(……思ったより、静か)


貴族の屋敷のような威圧感はない。

けれど、どこか落ち着かない。

“整いすぎている”という印象。


「本日はわざわざご訪問いただき」


迎えに出てきたのは、穏やかな雰囲気の男性だった。

年齢は父より少し上だろうか。

その立ち居振る舞いは、商人というより――


(……あ)


気づく。

この人は、人を読む人だ。

人の中身を見定められる人だ。


「なに。近くに別件があってね。せっかくだ。気にしないでくれ」


父の言葉に、男性――フランソワ・ヴァロワは柔らかく笑った。


「それは光栄です。どうぞ、中へ」


そして。

エレーヌは、その人を見た。

扉の奥から、一歩遅れて現れた少女。

年下のはずなのに、不思議と幼さを感じさせない。

黒く艶やかな髪。

紫の静かな眼差し。

控えめで、けれど迷いのない立ち方。


「ようこそ。クラリス家の皆さま」


声は高くも低くもない。

感情を押しつけない、やわらかな調子。

なのに。


(……なに、これ)


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

理由は分からない。

怖くもない。

不快でもない。

ただ――

目を離せない。


「初めまして。ルミエと申します」


少女が微笑む。

それは、完璧だった。

エレーヌはその瞬間、

自分が何かを言い忘れたことに気づいた。

――挨拶。

――礼儀。

――いつもの、親が自分に求める正しい反応。

けれど、言葉は出てこなかった。

ただ、思ってしまった。


(……この人に、嫌われたくない)


それが、

自覚なく、エレーヌの心に火の点いた瞬間だった。


※※※


「ルミエ」


朝食の場。レオンがはしゃぎ、フランソワが少したしなめ、ルミエが微笑む。

そんな穏やかな時間。フランソワは食後のお茶を飲んでから口を開いた。


「今日、話しておいたクラリス家の方々がいらっしゃる」

(ああ、例の)


以前、聞かされた名前を思い出す。そして、自分がなんと回答したかも。

学問と教育で名を成した中流貴族。学園との繋がりが多く、各地に伝手がある家。


(貴族のお客さま、か……)


この世界に生まれてから商人や一般市民、聖職者とは会ってきたが”これが貴族です”といった人たちとの、交流らしい交流はずっと少ない。会ったとしても割と商家寄りの価値観と良識を持ったタイプが多かったが今回はどうだろうか。

ただ、貴族だろうと商人だろうと、応対の基本は変わらない――はずだ。

なにより、応対はこの身体が”勝手に”やってくれるわけであり、ルミエが必要なのは心の覚悟だけ。


「向こうは、礼儀と形式を重んじる家だ。失礼のないように。君ならば大丈夫だろうけどね」

「はい」


勝手に背筋が伸びる。


「ちなみに、娘さんもいらっしゃる。ルミエの一つ年上だそうだ」

「そうなのですね」

(……年上、かぁ)


年上の女の子。日常で接するのは同年代か、年下であったルミエにとって、思い出すのは王都の孤児院。

日に透ける淡銀の髪と、静かな青灰の瞳。今、彼女は何をしているのだろうか。

思考が逸れかかったがフランソワの声で現実に呼び戻される。


「私がクラリス家の当主と話している間は、ルミエは娘さんのお相手を頼みたい。いいかな?」

「ええ、もちろんです。仲良くなれたら嬉しいですね」


まだ見ぬ出会いを期待するかのような微笑みを浮かべるルミエ。

――政治的なことではなく、求めるのは友人か。

ルミエらしいと苦笑したフランソワは立ち上がり、侍女たちにもてなしの指示を行い始めた。


※※※


玄関ホール。

フランソワの一歩後ろに立ち、ルミエは静かに来客を迎える。

先に視界に入ったのは、落ち着いた佇まいの男性。黙っていても身体から発される硬質な気配と、瞳に映る厳格さ。

姿勢、歩幅、視線の配り方――

一目で『場を読む人』だと分かる。


(あ、たぶんこの人、ちょっと、いや結構怖い人だ。高校の時の校長先生に似てる)


そして、その少し後ろ。


(……ん?)


少女がいた。

金色の髪をしっかりと結っている、緑色の瞳をした少女。

背筋は伸びているのに、視線の置き場も定まっていない。どこかぼうっとしているような気もする。


(貴族の子ってこんな感じなのかな? ちょっと浮世離れしてるというか)


”貴族”という、言ってしまえば別世界の人種のことはルミエにはよくわかっていない。


「本日はわざわざご訪問いただき」


フランソワが穏やかに挨拶をする。


「なに。近くに別件があってね。せっかくだ。気にしないでくれ」


形式ばったやりとり。

でも空気は重くない。

そして、フランソワの視線が、さりげなくこちらに向く。


「ルミエ」


一拍。


「我々大人の話は、エレーヌお嬢様には少々退屈だろう。

 ヴァロワ家として、もてなしを」

(あ、なるほど。打合せ通りに、か)


商談前の雑談。

子ども同士を切り離す、いつもの流れ。


「はい」


ルミエは一歩前に出て、少女のほうへ向き直る。


「それでは、こちらへ」


声は柔らかく、低すぎず高すぎず。

距離は一歩分。近づきすぎない。

手を差し出すことはしない。

けれど、進む方向だけははっきりと示す。

“ついてくればいい”ではなく、

“一緒に行きましょう”という形。

もちろん、考えてやっているわけではない。ルミエとしては言動はお任せ。単に歩いているだけに近い。


(お茶の用意、もう出来てるかな?)


二つ目の応接室――普段、親しい客や軽い茶会に使う少し小さめの部屋。

歩調を合わせると、少女の呼吸がほんの少し整うのが分かった。


(……あれ? 歩くの遅い?)

「足元、大丈夫ですか?」

「っ……いえ。お気遣い、ありがとうございます」


何気ない一言。

確認するだけの言葉。

でも、それ以上は踏み込まない。


(貴族のお嬢様って、こういう気遣い、され慣れてるよね)


――実際には、まったく逆だったのだが。

ルミエは気づかない。

少女の胸の奥で、ルミエの今の距離感は、経験がないこと。

”気を使われすぎない”。貴族令嬢として、常に過剰な配慮を受けてきた。

”距離は感じられない”。クラリス家として、常に埋まらない距離を感じてきた。

何故か、ルミエからの単なる確認の言葉が胸に響く。

そのくすぐったいような、戸惑うような、不思議な感覚が、静かに、しかし確実に少女の心に広がっていることに。

扉を開ける。


「どうぞ。こちらです」


振り返って微笑む。

特別な意味はない。

いつも通りの、完璧な笑顔。


(よし。あとは、お話ししながら時間を潰せばいいかな)


年頃の少女の会話も、たぶん似たようなものだろう。

いつも通りでいいはずだ。

その一歩が、

エレーヌにとって、戻れない場所への入口だとも知らずに。


※※※


応接室は、陽の入り方が柔らかい部屋だった。

大きすぎない窓、落ち着いた色の調度、甘さ控えめの焼き菓子。


「どうぞ。お掛けになって」


ルミエは椅子を引き、自然な流れでエレーヌを促す。

向かい合う配置ではなく、少し斜め。視線がぶつかりすぎない角度。

――気づけば、そうなっていた。


「……ありがとうございます」


エレーヌは一瞬だけ戸惑ってから、座る。

その動きが、ほんの少しだけぎこちない。内心首をかしげるが、貴族の、しかも年頃の令嬢の思考なんて元成人男性のルミエにはそこまでピンと来ない。


(やっぱり普段貴族同士でお茶会とかしてるだろうから、商人の娘相手だと勝手が違うのかな?)


ルミエは侍女に視線を送り、茶の準備を任せる。

紅茶の香りが立ち上り、部屋の空気がゆるむ。


「今日は、お時間をいただいてありがとうございます」

「いえ……こちらこそ」


声が少し小さい。

けれど、逃げ腰ではない。むしろ、必死に“きちんとしよう”としている。


(……真面目な子だな)


それが、ルミエの率直な感想だった。


「学園のお話、お好きだと聞きました」


口が、勝手にそう切り出していた。

無難で、相手が話しやすい話題。


「……はい。好き、です」

「よかった。学ぶのって楽しいですよね」

「……はい」


一拍遅れて、エレーヌが頷く。

その頷きが、なぜか少し深い。


(あれ? 今の返し、そんなに考えるところあったかな)


ルミエは首を傾げかけて、やめる。

考えるほどのことではない。


「クラリス家は、先生を育てるって聞きました」

「……ええ。父も、母も。勉学こそ人の基礎。それが、クラリスの家訓です」

「素敵ですね。教える人がいてこそ、学びは続くものですから。それを担うなんて、本当に素敵」


それは、ルミエにとってはただの事実だった。

褒めているつもりも、特別な意味もない。

けれど。

エレーヌの手が、膝の上でぎゅっと握られた。


「……そんなふうに言われたの、初めてです」

「そうなんですか?」

(珍しいな。誇っていい家なのに)

「はい。責任だとか、期待だとか……そういう言葉は、よく」

「……ああ」


そこで、ルミエは一つ理解したつもりになる。


(評価と役割の話ばかり、か。あれ、きついんだよね)


ルミエもヴァロワの令嬢、教会での”認定”、光の子とかいう未だによくわからない評価。

そして、前世でのこと。色々と考えるとげんなりする。


「でも、誇っていいと思います」


声は、いつも通り。

強くもなく、弱くもなく。


「エレーヌ様がこうしてお話してをくれるから、私は今、楽しいです」


――それが、決定打だった。

エレーヌの呼吸が、一瞬、止まる。

止まってから、ゆっくり戻る。


「……楽しい、ですか」

「ええ」

(雑談、成立してる、よね? よかった)


ルミエは内心でそう安堵していた。今はとにかく、貴族様の不興を買わずに無事にこの場を終えることが大切だ。ルミエとしても終わった後で『アイツ無礼でしたわ!!』等と言われてはたまらない。

だが、エレーヌにとっては違った。


「……私も」


声が震えたことに、エレーヌ自身が驚いたようだった。


「私も……楽しい、です」


言葉を選んでいる。

慎重に、壊れ物を扱うように。

ルミエは、ほんの少しだけ身を乗り出す。

興味を示す仕草――らしい。


「それなら、よかった」


それだけでいい。

それ以上、踏み込む必要はない。

なのに。

エレーヌの視線が、逃げ場を失ったみたいにルミエに絡みつく。


「……ルミエ様は」

「はい?」

「どうして……そんなふうに、話せるんですか」

(どうして?)


ルミエは、一瞬だけ考える。

考えて――答えが出ない。

話しているのは、自分の口だ。

でも、理由を問われると、困る。なにせ勝手に喋っているのだから。


「……普通、だと思いますけど」


正直な回答だった。


「そう……ですか」


エレーヌは、笑おうとして、失敗した。


(あれ? 今の、まずかったかな)


ルミエは内心で首を傾げる。

けれど、取り繕う必要は感じなかった。口が勝手に話したことの責任を問われても困る。

沈黙が落ちる。

重くはないが、張りつめている。

侍女が菓子を差し出すことで、空気が動いた。


「こちら、よろしければ」

「ありがとうございます」


ルミエが先に一口食べる。ただの癖。


「美味しいですよ」

「はい……」


エレーヌも口に運ぶ。

甘さに、ほっとしたように肩が落ちる。


(よし。大丈夫そう)


ルミエは、それで納得した。

このお茶会は、うまくいっている。いっているはずだ。

相手も落ち着いてきたし、会話も途切れていない。

――それ以上のことは、考えない。必要もない。


「もっとエレーヌ様のこと聞きたいです」

「ええ。私共、クラリス家は――」

「いえ、違います。”エレーヌ様のこと”をお話しいただけませんか?

 あなたのことをもっと知りたくて」


エレーヌは、一瞬だけ言葉を失ってから、深く頷いた。


「……はい。ルミエ様がそう、望まれるなら」


その声は、もう揺れていなかった。

代わりに、何かが決まった音がした。

ルミエは気づかない。

この短いお茶会で、

エレーヌの中に『戻る前の自分』が、もう存在しなくなったことに。


(貴族のお嬢様との雑談、思ったより楽だな)


それが、ルミエの感想だった。

完璧で、何の問題もない結論。


※※※


そんな会話を続けること、しばらく。

お茶は二杯目に差し替えられ、焼き菓子の皿もいつの間にか空になっていた。

時間を意識することもなく、話題が途切れることもないまま、穏やかな空気だけが流れている。

扉をノックする音がした。


「失礼いたします。フランソワ様より、会談が終わったとのことです」


従者のその一言で、現実がゆっくりと戻ってくる。

ルミエは小さく瞬きをしてから、自然な動きでカップを置いた。


「ふふ……楽しい時間は、あっという間でしたね」


名残惜しさを含んだ、やわらかな声音。

別れを惜しむには十分で、引き止めるには一歩手前。

エレーヌは、反射的に頷きかけて、言葉を失った。


(……あっという間)


その言葉が、胸の奥に落ちる。

本当に短かったのか、それとも――。

そこへ、扉が再び開く。

フランソワと、クラリス家の当主が並んで入ってきた。

大人同士の会談を終えた後の、どこか緩んだ空気。


「待たせたね、ルミエ」

「いえ。こちらこそ」


フランソワは、娘とエレーヌを一度見渡してから、穏やかに尋ねる。


「エレーヌお嬢様とのお茶会は、どうだった?」


その問いは、父としての確認であり、当主としての最終確認でもあった。


「はい」


ルミエは即座に答える。

少しも迷いのない、明るい声で。


「とっても、仲良くなれました」


エレーヌに、はっきりと聞こえる距離で。

その一言で、フランソワは満足したように微笑んだ。

――娘ならば、問題はない。

そう判断した顔だった。

クラリス家の当主も、わずかに目を細める。

エレーヌは賢い故心配はしていなかったが、世代を越えた関係が、無事に芽吹いた。

貴族として、それ以上望むことはない成果。

だが。

エレーヌは、何も言えなかった。

『楽しい時間』

『仲良くなれました』

さっき聞いた言葉。

今、改めて聞いた言葉。

同じはずなのに、胸の中で何度も反芻され、形を変えていく。


(……仲良く、なれた)


それは確認なのか、宣言なのか。

それとも――。





帰りの馬車。

衝性石が振動を抑え、静かな揺れの中で、クラリス家の当主が口を開いた。


「ヴァロワ家。初めての会談だったが……なるほどな」


一拍置いて、評価を下す。


「商人らしく強かではあった。

 だが、自分たちの立場に伴う義務も、きちんと理解している」


それは褒め言葉だった。

軽くもなく、過大でもない、貴族としての正当な評価。


「中々の傑物だ」


エレーヌは、父の言葉を聞きながら、窓の外を見ていた。

流れていく景色。

昼から夕方へ切り替わる頃合いの光。

遠ざかるヴァロワ家の屋敷。


(……ルミエ、様)


名前を、心の中でなぞる。

声。

微笑み。

視線。

『楽しい時間はあっという間でしたね』

『とっても、仲良くなれました』

どれも、特別な言葉ではない。

誰にでも言える、優しい言葉。

それなのに。


(……どうして、こんなに)


胸の奥が、熱を持ったまま、冷めない。

それが何なのか。

どう扱えばいいのか。

エレーヌには、まだ分からなかった。

ただ一つ、確かなことだけがある。

――あの時間は、確かに楽しかった。

――そして、自分は、その時間を手放したくないと思っている。

馬車は、静かに走り続ける。

誰も気づかないまま、

一人の少女の中で、火は、確かに燃え始めていた。

それが、祈りになるのか。

あるいは――。

答えは、まだ先だ。

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