『思い出してくれたら』
ルミエは今年で10歳になる。つまり学校に通うようになってから3年が経った。
そして、この学校は3年で卒業。
(なんだかんだで早かったな)
小学校の頃も中学校の頃も、いや、卒業するたびに抱いていた感慨を再び胸に抱いて自分のクラスに入っていく。
「おはようございます」
ルミエの声を聞いた途端、その姿を見た途端、クラスメイトは一斉に立ち上がる。
「おはようございます、ルミエ様!」
「おはよう!」
「今日も綺麗です!」
「朝ルミエ様に会えると元気が出ますね!」
取り囲まれたルミエは、当たり前だが内心の戸惑いを全く感じさせない、笑顔を浮かべて手を広げる。
「私も会えて嬉しいです」
蕩けるような声色、慈愛に満ちた微笑み、くすぐられるような仕草。
クラスメイト達の視界には、瞳には、もうルミエしか映っていない。
(1メートルの聖域はなくなったけどさぁ……)
今のルミエとクラスメイト達の距離は30センチ。
少し近寄ればくっついてしまう距離だ。しかし、絶対にこの境界を超える者はいない。
(まあ、でも。仲良くなれたみたいで良かった)
ルミエが居心地の悪さや距離感をあまり感じなくなって、比較的穏やかに日々を過ごし、今日、卒業を迎える。
教室の空気は、どこか浮ついていた。
卒業式――と呼ぶほど大げさなものではない。
担任の教師が簡単な言葉を述べ、証書を配り終えたあと、
『では、最後に皆さんで少しお話をしましょう』といった、それだけの、
小さな“お別れの会”。
人数は少ない。
十人にも満たない、三年間を共に過ごした顔ぶれ。
そして――
全員が、無意識のうちに視線を向けていた。
ルミエのほうへ。
誰かが言い出したわけではない。
相談したわけでもない。
ただ、そうするのが当然だと思っただけだった。
「……ルミエ様から、お言葉をいただけますか?」
担任の教師が、穏やかに促す。
それを聞いた瞬間、教室の空気がふわりと華やいだ。
(やっぱり)
(そうだよね)
(最後だし)
そんな気持ちが、波紋のように広がる。
(こういうの苦手だけど、まあ、私なら勝手にしゃべれるだろうし……)
己の特性とある程度折り合いをつけられていたルミエとしては気楽な要請だった。
ルミエは一瞬だけ瞬きをしてから、静かに立ち上がった。
その所作に、誰かが息を呑み、
誰かが無意識に背筋を伸ばし、
誰かが『今日も綺麗だな』と心の中で呟いた。
彼女は教壇の前に立ち、
いつもと変わらない、やわらかな微笑みを浮かべる。
そして――
あまりにも自然に、言葉を紡いだ。
「皆さんと過ごせたこの3年間は、
私にとって素敵な贈り物でした。
かけがえのない友人たちとの、大切な宝物です」
その声は、静かで、優しくて、
なぜかよく通った。
誰かが、うなずいた。
誰かが、胸の奥をぎゅっと掴まれた気がした。
「ここでのお別れは、少し寂しく思っています」
寂しい――
そう言われただけで、
胸のどこかが温かくなった。
「だから、もしよろしかったら……」
一拍。
「時折でもいいので、
私や、皆で過ごした時間を思い出してくれたら……嬉しいです」
それだけだった。
特別な言葉は、何一つない。
誓いも、約束も、命令もない。
それなのに。
(忘れちゃ、いけない気がした)
(覚えていたい)
(ずっと、そう、ずっと)
そんな思いが、誰の中にも自然と芽生えていた。
拍手が起きる。
控えめで、けれど心のこもった拍手。
誰かの目が潤み、
誰かが「ありがとう」と呟き、
誰かは「また会えるよね」と、何の根拠もなく思った。
ルミエは、最後にもう一度だけ微笑んだ。
慈愛に満ちた、
完璧で、非の打ちどころのない笑顔。
(ああ、よかった)
(やっぱり、ルミエ様だ)
(この3年間、幸せだったな)
そうして、
誰も疑問を抱かないまま、
小さな卒業の会は終わった。
※※※
教室を出るとき。
「卒業しても、きっと忘れないよね」
「うん。だって……ねえ」
「思い出してくれたら嬉しい、って言ってたし」
そんな会話が、軽やかに交わされる。
笑顔で。
冗談めかして。
未来のことなど、深く考えもせずに。
ただひとつ確かなのは――
この日、この言葉が、
彼らの中に静かに沈んでいったということ。
それが、
どれほど長く、
どれほど深く残るものなのか。
この時点では、
まだ誰も、知らなかった。
そして友人、という言葉に誰も違和感を覚えなかった。
――それがどういう意味なのか、考えた者もいなかった。
(よし、無事に終わった! やっぱりこれって便利な部分はあるなぁ……)
もちろんルミエも。
校舎の外に出ると、春先の風がやわらかく頬を撫でた。
三年間通い慣れた道。
もう通ることのない、いつもの帰り道。といっても馬車に乗り込むまでのわずかな道だが、それでも流石に思い出くらいは残っている。
「……卒業、かぁ」
誰も聞いていないからこそ、ルミエが小さく息を吐いた、そのときだった。
「姉さまああああああああ!!!!!」
――聞き慣れすぎた声が、全力で突っ込んできた。
(おっと)
反射的に身構えたルミエの胸に、
直前に勢いを殺しつつも、そのままに飛び込んでくる小さな塊。
「そつぎょう!? そつぎょうしたの!?」
「したわよ。レオン、迎えに来てくれたの?」
5歳になったレオンは、以前よりも背が伸び、
以前よりも声が大きく、
そして以前にも増して姉への執着が加速していた。
「じゃあ! これからずっと姉さまと一緒!?」
「学校には行かないけど、ずっと一緒ではないわね?」
「えっ……」
目に見えてショックを受ける弟。
「だってお仕事もあるし、用事もあるし。それにレオンもあと少ししたら学校に行くのだし」
「やだ!! ぜんぶ一緒がいい!!」
ぎゅう、と力いっぱいしがみつく。
(あ、これは引きはがすと泣くやつ)
ルミエは即座に判断し、
そっと頭を撫でた。
「大丈夫。今日くらいは一緒にいましょう?」
「……ほんと?」
「ええ。卒業記念、ということで」
「やったあ!!」
瞬時に機嫌が直る。
このあたり、相変わらずである。
少し離れた場所で、フランソワが苦笑していた。
「レオンもどうしても来ると言って聞かなくてね。しかし、まったく……学校を卒業した途端に、これか」
「お父さま、すみません」
「いや、いい。むしろ――」
フランソワは、ルミエを一度だけじっと見てから、
いつもの穏やかな声に戻った。
「無事に終わって、何よりだ」
それ以上は言わない。
今日の出来事を、重くも軽くも扱わない。
それが、この家の流儀だった。
馬車に乗り込むと、
レオンは当然のようにルミエの隣を占拠する。
「ねえ姉さま、明日はなにする?」
「そうね……まずはゆっくりしましょうか」
「ほんと!?」
「ええ。本当に。いっぱいおしゃべりしましょう?」
それを聞いたレオンは、満足そうに頷き、
そのままルミエの腕に頭を預けた。
(……平和だなぁ)
馬車が走り出す。
揺れは穏やかで、空は明るい。
卒業。
別れ。
言葉。
そういったものは、
この一瞬の中では、すっかり影を潜めていた。
(ま、なるようになるか)
ルミエは、いつものように微笑む。
完璧で、優しくて、
何も変わらない笑顔。
――ヴァロワ家の日常は、今日も平常運転だった。




