**第9話 『森母の真名 ― 目覚める古き支配者 ―』**
森が震えていた。
木々の葉がざわめき、地面を走る黒い根が生き物のように脈打ち、森全体がひとつの巨大な心臓のように脈動している。
ミナトの咆哮——“境界の力”が解放された瞬間、森の底に眠っていた何かが完全に目を覚ましたのだ。
シロガネが低く唸り、周囲を鋭い目で見渡す。
「……兄さん。森母、ただの指導者じゃない。あれは……もっと深いものに繋がってる」
クロガネも表情を強張らせた。
「わかっている。だが、オレたち熊でさえ触れてはならぬ“禁域”だ。森母は……最初から、森の意思そのものなんだ」
その横で、ユリーがミナトの腕を静かに握った。
震えているのは、森か、ミナトか、あるいは彼女自身か。
「ミナト……あなたの力が、森母を完全に覚醒させてしまったの。
でも……あなたが恐れる必要はない。だって、あなたは“境界の子”だから」
「境界の……子?」
ミナトが呟くと、森の奥から重い音が響いた。
地面が揺れ、木々が一斉に傾き、まるで何か巨大な生き物が地中を這い回っているかのようだった。
そして——。
■森の奥で“それ”は現れた
根の束が裂け、地面がゆっくりと開く。
黒い霧のようなものが溢れ、古い石碑がせり上がるように姿を現した。
その中心には、
巨大な熊の形をした“影”が立っていた。
だが、熊ではない。
骨格も毛並みも曖昧で、黒い根と闇が絡み合って形作られたような存在。
目だけが深紅に光り、森全体を睥睨している。
「……まさか」
クロガネが息を呑む。
「“森母の真名”が……目覚めた?」
ユリーがミナトを背に庇いながら囁いた。
「森母は本来、“巫女”にすぎないの。
この存在こそ、森の本当の支配者——“原初熊”だと言われているわ」
ミナトは一歩だけ前へ出た。
自分の右腕に宿る“森の印”が、脈打つように疼いている。
(……呼ばれている? オレを……?)
原初熊の影が、低く響く声のような咆哮を放った。
森の奥深くへ重く沈むような、聞くだけで膝が折れそうな存在感。
シロガネが叫ぶ。
「ミナト! 下がって! 森母の真名は、熊さえ平伏す存在だよ!」
「……でも、あいつはオレを見ている」
森のざわめきが強くなり、ミナトの右腕の印が光り出す。
黒い根の影がミナトの足元へ伸びてくる。
クロガネが咆哮し、ミナトの前に飛び出した。
「ミナトを連れていかせるか!」
しかし次の瞬間——
原初熊の影がクロガネへ視線を向けただけで、兄熊は地面に叩きつけられた。
何の接触もない。ただ“見られた”。
それだけで、巨体の熊が吹き飛ぶ。
「兄さん!」
シロガネが駆け寄るが、クロガネは立ち上がれない。
「……ミナト……た……逃げ……ろ……」
その声は、森に飲まれそうなほど弱々しかった。
■森母が語り始める
漆黒の影の後方。
森の根から生まれた巫女の姿——森母が、ゆっくりと立ち現れた。
白い毛並み。長い尻尾。
しかしその眼だけは、人でも熊でもない、毒のような緑に染まっていた。
「——境界の子よ」
森母の声は、森全体から響くような多重の音を持っていた。
「汝は選ばれた。
人か熊か……そのどちらにも属さぬ“第三の器”。
森と人間界を繋ぎ、いずれは原初熊に代わる新しい核となる存在」
「核……?」
ミナトは息を呑んだ。
「なぜオレなんだ。オレはただの人間だ。森を救うつもりなんて——」
「救う? 違う。
この森は今もなお、人間に喰われ続けている。
だから、森は“新たな主”を欲している。
それが……汝だ」
シロガネが叫ぶ。
「ミナトを森の器にするつもりなの!? そんなの許さない!」
「許す、許さぬの問題ではない」
森母は薄く笑った。
「この森に選ばれた時点で、彼の運命は決まっている」
ミナトの右腕が激しく光り、
原初熊の影がミナトに向かってゆっくりと手を伸ばした。
大地が揺れ、空が暗くなり、
森全体が“歓喜の咆哮”を上げる。
(……逃げられない。これは……オレだけの問題じゃない)
ミナトは拳を握りしめ、前へ一歩踏み出した。
「森母。原初熊。森の真名……全部知る必要がある。
オレは境界の子なら……境界としての選択をする」
ユリーが震える声で呼びかける。
「ミナト、戻ってきて……! 人間でも熊でもどっちでもいい……あなたは、あなたでしょ……!」
ミナトは振り返らない。
森母の緑の瞳を正面から見据える。
「——森がオレを選んだなら、
オレも森を“選ぶかどうか”を決める権利があるはずだ」
その瞬間、原初熊の影が咆哮し、
森の奥へとミナトを誘うように道が開かれた。
そしてミナトは、その闇へ踏み込んだ——
森母の真名を暴くため。
原初熊の本質を知るため。
そして、自分自身の“境界の答え”を手に入れるため。




