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折り紙に包まれている  作者: 浦瀬凪
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わたしを知りたい

 鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで廊下を進む。廊下にある大きな窓から、木の葉が風に煽られ、揺れているのが見える。一枚、二枚と木から落ちた青い葉が風にのり飛んでいる。

 今年の夏は暑すぎた。外に出ると一瞬で熱気が体を纏い、数歩歩いただけで頭から首から、背中から、汗が吹き出した。風なんて一ミリも吹いていなかったのではと思う。

 それに比べたら少しはマシになった。相変わらず、日差しは強いが、風が吹き抜けるようになり、日陰にいれば発狂しそうな暑さではなくなった。

 秋の訪れが近い。早く秋になれ。

数年前までは、私の中で春と秋は特別だった。だって、春と秋は夏と冬が一緒に過ごすことでできる季節だと思っていたから。冬さんと夏さんが挨拶している時期だと思っていたから。でも最近になって秋は秋、春は春とそれぞれ独立した季節なのだと気づき始めた。そうなると夏さんは、春さん秋さんには出会えるけど、冬さんには出会うことはできない。冬さんは春さん秋さんには出会えるけど夏さんには挨拶できない。どうしてだか、そういう風に考えるようになった。

 だって、出会えない二人がいた方がロマンチックだし。

往々にして小学六年生というのはたくさんの事象を妄想し、うっとりする時期である。

 一階、二階、三階と上り、上りきったところで一息つく。三階まであがるとやはり心臓の鼓動が速くなる。大きく深呼吸し、その先に続く廊下へと歩みを進める。長く長く続いていく廊下には特別教室が並んでいる。音楽室、準備室、コンピューター室、放送室、空き教室、そしてその一角に目指している場所があった。

 図書室だ。図書室の前には図書室に入りきらなかった本棚が二つ肩身狭そうに並んでいる。他に何もないような広々した廊下の中でそこだけが目立つ。そのことがさらに本棚たちの肩身を狭くしているに違いなかった。扉の前に立つと、他の教室にはない独特の香りが流れてくる。古ぼけた紙の鼻をつく匂い。お日様を含んだ温かい匂い。新しい本のインクの匂い。それらが一緒に漂うこの匂い。

 さっきよりもずっと深く深呼吸をし、全身で空気を感じる。なんて落ち着くのだろう。これだけでもここに来た意味はあったといつも感じるのだった。

 扉を開ける、ガラガラっと気持ちいい音がした後、一層増した本の匂いが私を歓迎してくれた。もう一度深呼吸する。この優しい空気が全身を満たしてくれたらいいのにと、またうっとりしたところで声をかえられた。

「こんにちは。あやちゃん。また、匂いを吸い込んでいたのね」

話しかけてきたのは、カウンターで受付作業をしているりんちゃんのお母さんだった。私は深呼吸するところ(匂いを吸い込むところ)を見られていたのが笑いながら下を向いてしまう。頬っぺたが熱くなっていくのを感じる。

「今日は何か読みたい本があって?」

「まあ、はい。そんなところです」

“そんなところです”なんてやけに大人っぽい言葉を使ってしまってさらに恥ずかしくなる。

 はあ、なんで人と話すのってこんなに上手くいかないんだろう。

りんちゃんのお母さんはふふふと穏やかに笑っている。その笑顔を見て少し気持ちが和む。りんちゃんのお母さんはりんちゃんが一年生の時から学校行事にボランティアとしてよく参加していた。だから、私たちの学年でりんちゃんママの顔を知らない人はいなかった。いつも来るから恥ずかしいのだと、りんちゃん自身は言っていたが、私は羨ましかった。私のお母さんはいつも忙しいからそんなことしてくれるお母さんが羨ましかった。

ボランティアとしてしょっちゅう来られたらきっと恥ずかしいのだろうというりんちゃんの気持ちも理解できなくはない。

 けれど、それよりも、こんな風に図書室にお母さんがいてくれたらと思うとやっぱり羨ましかった。そう思うほどに私にとってお母さんは安全地帯そのものだった。

 りんちゃんママに軽く頭を下げ、本棚の方へと進んでいく。この学校の図書室は入って右側すぐにカウンターがあり、その向かい側に本棚が並んでいる。本棚はどれも一、二年生くらいの高さでそれぞれ黄緑色や桃色、黄色など色とりどりな装飾をしている。カウンターと垂直になるように並べられた本棚には絵本を始め、読む気が失せるような分厚い本まできれいに整理されて収まっていた。

 今日、図書室に来たのは、読みたい本があったからだ。

その本は一年生の時から四年生の時まで、学校でも家でも頻繁に読んでいた。シリーズものの本で何冊も出版されている。図書室にシリーズの全てがあったわけではないけど、自分が持っていないものも置いてあったので重宝していた。

けれど、高学年になってからめっきり読まなくなってしまった。理由は特にないが、強いて言えば他の本のシリーズにはまったからだと思う。

久しぶりに読んでみようと思ってこうして図書室まで足を運んだのである。

今探している本は一年生から四年生までの間に、何回も図書室から借りていったことがある。だから、本がある場所は目を瞑っていても行けるほど、正確にインプットされていた。

なんなら本当に目を瞑っていってみようかと思い、また変なところをりんちゃんママに見られたら恥ずかしすぎてもう図書室には来られなくなると思ってやめることにする。

 そんなに広くない本棚と本棚の間を迷路に入っている時みたいにワクワクしながら歩いていく。

 低学年向けの絵本の前を通り、謎解き本の前を通り、児童文庫の前を通り、目的のところにたどり着く。キラキラした背表紙の本を指でなぞり、お目当ての本を触る…

「ない」

 あれ?前まではここにあったはずなのだけど…

「ない」

 思わず、ポツリと呟く。

 しかも、一冊のみならず、その本のシリーズがごっそりなかった。そこだけぽっかりと穴が開いたみたいに、本がなかった。

 そんなはずはないと思って、本棚に手を突っ込んだり、上の方を覗き込んだり、周辺をキョロキョロしたりする。

 この前来たときはあったのだ。手に取りはしなかったが、この通りを通る時に、チラッと見やり、いつも通り並んでいるのを確認した。

 なのに、ない。捨てられた?

 ちょっと待ってちょっと待ってと頭を整理する。図書館の本は一度に三冊までしか借りられない。私が探している本のシリーズは三冊以上あったはずだから、二人以上の人が同じ時期に借りていることになる。ありえない話ではない。むしろ充分にあり得る話だ。

 あの本、面白いしな。

 運がなかったなと思い、その場を離れようとしたところで、カウンターに座り何やら作業しているりんちゃんママのことを思い出した。

 普段なら臆病だから、仲良くもない大人の所にいくなんて絶対にそんなことしないが、私はまっすぐにそちらへ向かっていく。自分のコミュニケーション下手による人との交流の億劫さよりも本のありかを知る方が大切だった。

カウンターの前まで行くと、りんちゃんママは段ボールに詰められた本の数々に、川乃町小学校と書かれた判子を押していた。

これは、新しい本だよね?判子押してるしね、ということはやっぱり元々あった本が捨てられている可能性もある?

じーっと一定のリズムで判子を押していく手元を眺める。判子を押した本はカウンターに積み上げていく。流れるように動いていく手が一瞬止まった。

私が顔を上げると、りんちゃんママがん?っとした顔をして、首を少し横に傾けている。

慌てて目を逸らすと、頭で言いたいことを整理してから話し出す。

「あの、お裁縫魔女が出てくるあのシリーズの本知っていますか?全部なくなっていて。借りられているのか、捨てられたのか。分かりますか?」

りんちゃんママは少しだけ考えると、

「ああ、それってあれよね?お裁縫魔女がお客さんの服をお直ししていくっていう。洋風の家の可愛い表紙よね?」

私はうんうんと頭を縦に振る。斜め上を見ながら話す様子を見て、ホッと胸をなでおろす。どうやら、本の名前と内容は知っているようだ。もし知らなかったら一から説明しなきゃいけないので不安だったのだ。本の内容やら包装やらを相手に伝わるように説明できるほどの言語能力が自分にあるとはサラサラ思えなかった。

「りんは本を全く読まないんだけどね。私は読むのが好きで、小学校にある本も何冊か読んだことあるの。暇なときにね。あっこれは内緒ね。誰にばれても全然大丈夫なんだけどさ。その本については詳しく読んだことはないんだけど、ざっくりあらすじは知ってるかなあ」

 心の中でそうなんですかあと思いつつ、本題はそこじゃないので話を戻そうとする。

「あの、どこ行ったか分かります?本棚にないんです。だれか借りていきましたか」

「誰か借りて言った記憶はないなあ。少なくとも私が来ている日にはね」

「捨てられてはいませんか」

わら愛が意気込んで言うと、りんちゃんママはにっこりと微笑んだ。

「捨てられてはないよ。新しい本は増えたけどね」

 そう言うと、手に持っている本を掲げて見せた。それを聞いて、ひとまず安心した。捨てるくらいならむしろ私にくれっとまで考えていた。

「一応貸し出し記録で誰が借りていったのか見れるけど、それは、個人情報だから教えるわけにはいかないの。ごめんね」

少し申し訳なさそうな顔をすると、軽く頭を下げた。そこまでされるとこちらが申し訳なくなってくる。誰かが借りていったのなら仕方ない。私は、精一杯“いえ、むしろごめんなさい”と伝えるために、頭をぶんぶんと横に振った。

 “何でも魔女紹介”は諦め、別の本を借りるため、また本棚が並ぶエリアへと足を運ぶ。ここ二年くらい、図書室から借りていく本は決まっていた。恐らくその本が並ぶコーナーへも目を瞑ったままで行ける。やらないけど。

 目的の本がある場所とは反対側に向かう。図書室に平行に置かれた本棚とは別に四方を囲うように配置された本棚がある。他の本棚よりも背の高いそれらの本棚が、まだ背の低い一年生の時には、本の壁がそびえたっているように見えた。

 今見たらただの本棚だけどね。

 カウンターから一番遠い図書室の角に設けられたコーナーを見る。

~歴史上の人物の人生を読もう~

 そう書かれた看板?ポスター?のようなものが本棚の上に置かれている。ポップなピンクで書かれた文字はオレンジの線で縁取られ、その横には織田信長と思われるイラストが描かれていた。

 壁に立てかけられるように置かれたそれは、絶妙なバランスで立っている。天井から流れてくる冷房の風に煽られて今にもパタンと倒れてしまいそうだった。

 織田さんもこんな風に冷房に仰がれる日が来るとは思わなかっただろうな。

 織田信長の時代から見たら、冷房というこんなにも画期的なものが生まれるなんて想像もつかないのかな。

 そんなことを考えつつ、ポスターが置かれた本棚にある伝記の数数々を眺める。紫式部、源義経、井伊直政、坂本龍馬、北里柴三郎等々他にも難しい漢字の人たちがたくさん並んでいる。

 すーっと本の背表紙をなぞっていく。日本人の有名どころは読みつくしている。

 読んだことない日本人にしようかな。

教科書に出てきても名前さえ覚えようとせずあっさり流してしまうような。

でも、教科書に出てきたり、伝記になっている時点ですごい人なんだけどね。

 たくさんの名前を指でなぞっていく。北条氏康、直江兼続、宇喜多秀家。

その指が海外の偉人にいったところで、ある一点で止まる。マザーテレサとゴシック体で書かれた文字が目に入ってくる。何も考えずに本棚から取り出し、表紙を見る。白いスカーフみたいなのを頭まで被ってこちらに微笑みかけてくるきれいな女の人が描かれている。

これにするか。

いつも本を借りるときもこんな風に決める。たくさんある本を人差し指でなぞっていき、何に惹かれるのか、なんとなく指を止めてしまった本を借りていく。今日はマザーテレサだった。たしか、看護師だった。貧しい人たちをたくさん助けた人だと記憶している。教科書に数文字で書かれていたような情報量だけど。

 マザーテレサの伝記を両手で抱える。本の貸し出しをしてもらうため再びカウンターに戻ろうとしたとき、奥の方から何人かの児童たちと先生の話声が聞こえてきた。

「はい!見つけた!」

 一人の女の子が自信満々に言っているのが聞こえる。

「早いね~あと三個だよ」

その声に応える先生の声。

この先生の声、久しぶりに聞いたな。

普段関わりのない先生だ。だけど教室に来てくれた時に時々話していた。先生の声に応えるようにまた別の子どもの声が聞こえる。何人かいるようだ。

間違い探しでもしているのだろうか。

声が聞こえる方向には談話スペースがある。輪を描くようにドーナツ型の机にこれまた輪を描くようにカーブした長椅子が備え付けられている。きっと、女の子と先生の声はそこから聞こえてきたものだ。

マザーテレサを抱えたままその声に惹かれるように談話スペースの方を見る。本棚の陰に隠れてほとんど見えないけれど、子どもの頭が二つと白髪交じりの頭が一つ、後ろに短く束ねた黒髪が一つ見えた。

勢いを落とそうとしない太陽が先生と児童たちの頭上を通り、塵を舞わせている。頭が小さく動く度、誰かが声を発する度、白く照らされたチリは軌道を変え、上に下に飛ばされる。夏の終わりによく映えたその光景はとても美しいものに見えた。そんな風に思う自分は少し痛いのかもしれない。だけど、とても綺麗なものを見ているのではないかという思いを払うことができなかった。

伝記を借りて戻ろう。さっきまでの思いが頭の片隅へと流れていく。

太陽の光が載せてくる本の香りが私の所まで届く。そのぬるさが頭の中をぼんやりとさせていく。身体は動こうとしなかった。

ただただ佇んでその光景を見ていた。


どれくらいそうしていたか分からない。

「はい、終わった!」

と元気よく叫ぶ女の子の声が図書室に響いた。その声が脳まで響き、どこかを彷徨っていた意識を目覚めさせる。

きっと、十分もたっていない。それなのに、それなのに、足は棒のように固く伸び、その場に釘付けになっていた。両手で抱えたマザーテレサがやけに重かった。

私はこんなところで何をしているのだろう。何で私はたった一冊の本を両手で持っているのだろう。一年生じゃないんだから片手で楽々持てるのに。

でも今片手で持っていたらきっと取り落としていた。そう思うぐらいに上半身の力が抜けているのが分かった。

変な感覚だった。下半身と上半身とこの本はどこかで切り離されていて繋がっていないのではないかと思った。

思わず、首を下に向ける。その動きにさえ、数日間ベッドで寝込んでいたかのような妙なぎこちなさがあった。だけど、両の足は確かに地面に垂直に立ち、その上には胴体が伸び、胴体の左右には腕があり、その腕はやはりマザーテレサの微笑みを抱えていた。

何を当たり前のことを確認しているんだろうと笑いそうになる。

「それじゃ教室に戻るよ。本を元あった場所に返してきて」

 先生の声はやけに遠くの方から聞こえた気がした。その声の後ろで誰かが動く音が聞こえる。その音はもっと遠くから聞こえた気がした。

 もう帰るんだ。教室に。そう思ったら、足を動かしていた。帰らないで。まだそこで遊んでいたらいいじゃない。私はそれを眺めていたいんだから。太陽の下で過ごしていてよ。なんで、帰っちゃうの。

 意識的に大きく深呼吸する。ここに入って来た時と同じように。だけどやっぱりその動作はぎこちなかった。自分の足は動いていなかった。さっきと同じ場所に釘付けになり固まっていた。

涙が頬を伝う。

意味が分からない、自分のことが。なんでこんな思いになるの。自分のことが分からなかった。それなのに、確かに、涙は頬を伝って唇を濡らしている。



学校で泣くことほど惨めなことはない。学校は泣いてはいけない場所だ。もしかしたらそれが学校に入って一番最初に学んだことかもしれない。

小学一年生のとき、学校に行くの不安だった。何でかは分からない。何でかなんて考えようともしなかった。だけど六年生になった今考えると、あの時の私は、きれいな校舎でたくさんの人と、一日に何時間も、静かに、席に座っていなければいけないことに緊張していたんだと思う。そしてそんなときに思い出すのはお母さんのことだった。緊張したらお母さんに会いたくなった。でも、それが一番の厄介事だった。だって、学校にお母さんはいないから。でも、お母さんに会いたかった。“ママ”“ママ”って何回もお母さんを求めた。だけど、いくら求めてもお母さんは来てくれないことを知っていた。遠く、子どもの足ではいけないようなところで仕事をしているのを知っていたから。会えないと分かるともっと緊張して、もっとお母さんに会いたくなった。

だから、泣いちゃったんだ。授業中に泣いちゃって、涙が止まらなかった。そのうち周りの子たちが騒ぎ始めて、その輪はどんどん大きくなっていって、先生が私の席までやって来た。その時にはもうクラス中の人が私の方を見ていた。先生は困り顔で“どうしたの”“何か嫌なことあった?”って聞いてきたけどみんなが見ている中で何かの質問に答える事なんてできなかった。私は下を向いた。今顔を上げればクラスの全員と目が合ってしまうから。身体がどんどん冷えていくのを感じた。身体は激しく脈打っていた。この音がみんなにも聞こえているんだと思って恥ずかしかった。だけど、一番は、授業中に泣いちゃったことが恥ずかしかった。それをみんなに見られたのがすごくすごく恥ずかしかった。

 

 それ以降学校で泣くことはなくなった。どうしても悲しい時はトイレにこもって泣いた。だからこんなところで涙を流すなんて自分のことが信じられなかった。

 一つ二つと涙が目から零れ落ちる。唇を濡らした涙が口の中に入ってきて、しょっぱい。さっきと同じ場所に立っているはずなのに、涙で歪んだ視界では太陽の光を認識することさえもうできなくなっていた。その場所には先ほどまであったはずの温かさはなかった。その変わりとでも言うように冷房の風が肌に突き刺さるかのように冷たい。それはまるで、授業中に泣いた日の、みんなの目みたいだった。

 ああ、何をしているんだろう。本を借りに来ただけなのに。早く帰らないと。

 視界の右側で何かが動いて行くのが見えた。本棚の陰から人が出てくる。でも、顔を向けたくはなかった。泣いている顔を見られたくなかった。だから、その子がこちらを見向きもせず真っ直ぐに進んでいき、別の本棚に消えていくのを感じて、心底安心した。

 だけど、安心したのも一瞬だった。先生たちの声が、足音が近づいてくる。それと同時に床を押し付けるような小さな小さな音が聞こえてくる。

 また人が来る。先生に見つかったらきっと私のところに来る。泣いている児童を見て見ぬふりするような先生じゃない。“あやちゃん、大丈夫?”ぐらいの一言はかけてくるだろう。だけど、先生は一人じゃない。周りにいる子どもたちはどんな目で見てくるだろう。もう、あの時みたいな恥ずかしい思いはしたくない。人前でなんか泣くもんか。

先生たちの声はすぐそこまで近づいていた。先生は二人。子どもの数はドタバタしていて分からない。でも、少なくとも二人。固まった身体を動かそうとする。見られてたまるか。自分の意志とは反して身体が動く気配はない。動け、動け、動け。馬鹿かよ、動けよ、この屑が。肝心な時いつもそうだ、君は固まって、動こうとしない。動け、動けよ。それとも私は先生のご加護でも求めているのか。涙がとりとめもなく溢れてくる。

先生、私が泣いているのを見つけたら先生はどうしますか?

“あやちゃん、大丈夫?”そう声をかけてくれますか。先生の声はきっと優しい。戸惑いも含んでいるかもしれない。

私が何も答えられないでいたら、先生はどうしますか?先生のことを試しているんじゃないの。でも、これじゃあ試しているみたいだよね。最低だよね。

 そんな最低のことはしたくなかった。心とは別の場所が体を動かそうと試みる。まともに機能しているのは涙腺だけのように思えた。

それになんとなく想像はついていた。先生はきっと、さっきまでいた談話スペースの席へと私を連れて行って座らせてくれる。子どもたちを教室に戻すのはもう一人の先生に任せて私を慰めてくれる。

それは、天国のように魅力的に思える。でも、絶対に嫌だった。さっきまでみんなの声が飛んでいたあの場所に行くのは嫌だった。みんなを包んだ太陽の下へ行くのは悲しかった。

それは避けたかった。嫌だ、嫌だ、嫌だ。嫌だ。

どうして、この身体は固まっているんだろう。何を恐れているんだろう。ここには何も怖いことなんかないのに。君が動けばもっと怖くなくなるのに。

そうだ、動いた方が自分の利益になることが多い。だって、嫌なこと全部避けられるんだから。

固まった足が回れ左をするように動こうとする。その動きはとてもぎこちない。まるで足の関節も筋肉の滑らかさもなくなってしまったように。動こうとする自分と動くまいとする自分が喧嘩しているかのように。自分の頭の中でエラーが発生する。赤信号が点滅している。目を開けていられないほど強く光っては一瞬消えてまた光る。

自分の中には一体何人の目があるんだろう。エラーの発生を嘲るように笑う自分の姿さえ見えるような気がした。

 そんな時でも刻一刻と近づく先生たちの音は鮮明に聞こえてくる。それにしても人が歩く時間はこんなにもゆっくりと流れていくんだ。これも、頭がエラーを起こしたせいかもしれない。とても長い時間が流れているような気がする。

 私を試しているの?だったら私の勝ちだね。

足はもうほとんど左を向いていた。左足に合わせるように右足が揃えられる。その動きに応えるように上半身も左を向く。

だけど、そこから歩き出すことはできなかった。身体の力が一瞬にして抜けていく。さっきまであんなに固まっていたのに。

手からマザーテレサが離れていく。

 全く気付かなかったよ。私は先生たちの音を拾うのに敏感になっていて。まったく気づかなかったよ。

いつからそこにいたの。

 手から離れていったマザーテレサがゆっくりと落ちていく。軽いものでも落とした時のようにゆっくりと落ちていった。

床に落ちる寸前、元の重さを取り戻したかのようにドスッと鈍い音を上げた。

その音で冷静さを取り戻せることを少し期待した。だけど、身体の力が抜けていくばかりで冷静さの欠片も取り戻せそうになかった。身体の全ての力を頭に回すかのように、頭がものすごい勢いで回転していく。

けれど、それを正確に感じることはできなかった。必死に頭を使っているのは遠い場所にいる自分のような気がした。自分のようで自分じゃない人。本来の自分の意識は目の前にいる人から離せない。

回れ左をした先、そこには翠ちゃんがいた。



いつぶりだろう。この子をこんなにも真正面から見たのは。小学四年生の時、転校してきた本田翠ちゃん。話せない子。

 そうだ、あの時だ、四年生の時、同じクラスだったよもちゃんと話しかけてみた、あれ以来。

 私はあの時、どうしたんだっけ。あの時、翠ちゃんは身を固くして、怯えていて。ああ、そうだ、特に何も言わず、私はあの場からはなれた。左腕を握りしめていたこの子を置いて。

 それ以来、話しかけたことはない。関わる機会もなかった。だから、今日が、二度目まして。

 きっと私のことなんか覚えていない。覚えていなくていい。

 それなのに、私の意とは反するように、翠ちゃんは私のことをジッと見つめて目を逸らさないでいる。

 私の記憶の中の翠ちゃんはいつも下を向いていた。誰とも目を合わせまいとしているように。教室にいる時も、廊下で見かける時も、いつも下を向いていて、黒い髪が頬に触れていた。

 だから、この子の瞳をまともに見たのは今が初めてだった。涙でぼやけた視界を照らすようにその黒く澄んだ瞳は私を見つめていた。私も翠ちゃんの目から視線をずらすことができなかった。瞬きをすることさえできずに体はまた固まってしまった。

 翠ちゃんの瞳に何が写っているのか怖かった。学校で泣いた愚かな自分が写っているのが怖かった。十二歳にもなってこんな所で泣いている自分がどうしようもなく情けなかった。悲しかった。

 見られた、見られた。今も、見られている。

 開かれた目は乾燥して、もう涙を止めていた。それなのに、ぼやけたままの視界が、湿った頬が、口に広がるしょっぱさが確かに泣いていたことを教えている。

 どちらも何も切り出せないまま、沈黙が流れる。どちらも動けないままその場に佇む。自分の立っている場所だけ沈んでしまいそうだ。沈んでくれたらいっそ楽かもしれない。

そう考えらるくらいには自分がまともな思考を取り戻しつつあることに気づく。

そうだ、変なところはこの子にしか見られていない。恥ずかしいけど、先生に見られて大事にされるよりはずっと楽だ。この子なら誰かに言いふらすこともしない。

そのとき、背中の方から声が飛んできた。

「翠ちゃん、教室に戻るよ」

 先生の声だ。コスモス組の小川先生。先生が足を止め、翠ちゃんの方を見ているのを背中で感じる。先生の動きに合わせ、床を押すようなズルズルとした音も止まった。車いすの車輪の音。うちの学校には車いすに乗っている子が二人いる。二学年下、四年生の女の子と男の子。

 先生が押している車いすにどちらが乗っているかなんて知ったこっちゃないが、少なくとも、四つの目が向けられているかもしれないことに、収まりだした心臓がまた音を立てる。

 きっと先生のいる場所から私の背中も見えているはずだ。私だって気づいていないかもしれない。それとも、私ことなんか忘れてしまったのかもしれない。先生が副担任だったのは四年生の時だけだ。児童が先生を覚えるよりも先生が児童を覚えることの方がずっと大変だろうと思う。それに、先生と何か交流があったわけでもない。先生は特別支援学級の先生として四年一組の副担任をしていただけなんだから、覚えていない方が普通だ。それだったら、最初から回れ左などしなければよかったと思う。そうすれば、今のような困った状況にならずにすんだかもしれないんだから。

 目の前にいる翠ちゃんの目が僅かに下を向く。先に動き出したのは翠ちゃんだった。目線を下げたまま、こちらに歩いてくる。急ぐように足を動かし、近づいてくる。

 私は翠ちゃんの動きをほとんど無意識のうちに追っていた。ふと、翠ちゃんが本を何冊か抱えていることに気づいた。

 真正面から向き合っていたのにどうして気づかなかったんだろう。私と同じように本を抱えていたというのに。

 一番上に重ねられた本の表紙が目に入る。そこには“何でも魔女紹介”と異国風のデザインで書かれた文字が並んでいた。

 そっか、翠ちゃんだったんだね。その本を持っていたのは。

 胸にシャボン玉のように澄んだ思いがふくらんでいく。きっと翠ちゃんは私がそんな発見をしたことなんか気づいていない。それでも私は彼女がその本を持っていることが、なぜだか嬉しかった。

 まっすぐ歩いてきた翠ちゃんは、そのまま小川先生の方に行くと思ったのに、私の斜め前で止まった。

 びっくりして翠ちゃんの顔を見たけれど、目は合わなかった。翠ちゃんは、相変わらず、少し下を向いている。

 私は彼女と何か話してみたかった。仲良くなりたいと思った。同じ本を読んでいることが嬉しかった。私の前で止まってくれた翠ちゃんを無駄にしたくないと思った。

息を吸う。自分を落ち着かせる。シャボン玉が割れてしまわないように、丁寧に。私が唇を開きかけたのと、翠ちゃんがしゃがみ込んだのが、同時だった。

 びっくりして翠ちゃんを見る。翠ちゃんは、右手だけで持っている本を抱えると、左手で何かを拾った。

 そして立ち上がると、それを私に手渡すように腕を伸ばした。翠ちゃんの左手にはマザーテレサの伝記があった。

 落としたことをすっかり忘れていた。落としたことさえ、現実だと感じていなかったかもしれない。

 私は両手でそっと伝記を受け取った。お互いの手が伝記に触れる。そのうちゆっくりと翠ちゃんの左手が離れていった。

 そのまま私の横を通り過ぎると、小川先生の方へと向かっていった。私はマザーテレサを見つめながら、ありがとう、ありがとうと繰り返す。そのどれも音にはならなかったけれど、ありがとう、ありがとうと私の背中の向こうにいる女の子に呟いた。

 眩しいほどの太陽の光が私の頭の上にも舞っていた。


頭を舞う暑さと、足元を這う冷気にしばらくその場に立ち尽くす。ほんとうはいろんな感情に頭が押しつぶされそうになった後で休憩を欲していたのかもしれない。後ろで先生の伸びやかな声が聞こえてくる。

「そっか、その本、貸し出しの手続きした?」

きっと誰か児童にかけた声だろう。だけどその声であっと思い出す。私はまだ貸し出しの手続きをしていなかった。

さっさとしてしまおう。

そう思ってカウンターへと向かいだすと、後ろから二つの足音がついてくるのが聞こえる。一つはほとんど聞こえない小さな床なでるような音。もう一つは、ちゃんと重さを含んだ足音。

もう一つある。もう一つは、車いすの音。

私は振り返ることなく、まっすぐカウンターへと向かう。もう涙は完全に乾いていた。乾きすぎて目がしょぼしょぼした。

 カウンターまで行くとりんちゃんママがこちらを見て微笑んだ。

「借りる、でいいかな?」

「はい」

そう言って伝記と、この学校でしか使えない図書カードを渡す。

後ろからついてきた足音は私の隣、次の人はこちらと書かれたシールの上で止まった。

「翠ちゃんもまだ借りてなかったんだね」

 驚くほどスルリと言葉が出てきた。さっきまでのは何だったんだろうと苦笑いする。翠ちゃんは何も反応しない。

 りんちゃんママが伝記と図書カードを差し出す。

「翠ちゃん、その本、好きなの?」

私はカウンターを翠ちゃんに空けながら尋ねる。翠ちゃんはやっぱり何も反応しない。だけど、それを気に病むことは今の私にはない。

「明日の昼休み、図書館で遊ばない?」

 私の口を突いて出てきたのは、とても無責任で計画性のない提案だった。だけど、今を逃したらきっとこの子とは仲良くなれないと思った。

 翠ちゃんはうんともううんとも言わない。言わないじゃなく、言えないんだ。

 代わりとでもいうように反応したのは翠ちゃんの後ろについてきた小川先生だった。

「いいじゃない。行ってみる?あやちゃんはいい子よ」

 思わず、小川先生の方を向く。先生とバッチリ目が合った。自分のことを覚えてくれていたことが嬉しくて、ついにやけそうになる。表情に出るのを抑えながら心の中でにやける。

「明日、あそこの談話スペースで待ってるね」

 さっきまで特別支援学級の子たちがいた、図書室の奥を指さしながら、そう言うと、私は色んな恥ずかしさを隠すように、駆け足で出口へと向かった。



 その日の夜、なかなか眠ることができなかった。図書室での一連の出来事を思い出しては、これでよかったのだろうかと一人反省会が止まらない。

 勢いで誘ってはみたものの、明日、何をすればいいのか分からない。私から“何でも魔女紹介”の話をひたすらにするという案もあるが、私自身、たくさん話すタイプではいゆえ、すぐに話が終わってしまいそう。

 まだ読んでない話をネタバレしてしまうというリスクもある。

 そもそも明日、図書室に来てくれるか分からない。一方的な約束だ。こなくても仕方ないし、来てくれたらそれはそれで、なんだか無理やりごめんなさいと思ってしまう。

 自分の考えなさにため息が漏れる。

 考えれば考えるほど目が冴える。眠れないのならそれはそれでいいと思い、ベッドから飛び起きる。着地したときにドスンと音がして、家族に注意されないかとひやひやする。幸い、誰かが何かを言いに来る気配はなかった。

明日することを見つけられればと意味もなく部屋を歩き始める。引き出しを開け、何か使えそうなものはないかとみる。けれど、無駄に整った引き出しの中には便箋と少しの文房具、あとは折り紙しか入っていない。同い年の子などは何をしまっているのだろう。他の子の引き出しの中なんか見たことないけれど、きっと自分よりもたくさん入っているだろう。

宝箱みたいに。ラメがついてキラキラしたものがたくさん入っているのかもしれない。引き出しを閉め、部屋を見渡す。机とベッドと電子ピアノ。背の低い本棚。必要最低限のものしか置かれていない。

そんなことを言うと、まるでうちのパパとママがケチみたいだがそうではない。誕生日には好きなものを買ってくれるし、お小遣いだってくれる。

ただ私の買い物が下手くそなだけだ。ショッピングモールに行けば可愛いもの、きれいなもの、欲しいと思うものはたくさんある。でも、それを手に取って、レジに持っていこうとした途端、商品が魅力的に感じなくなる。だから、何か必要に迫られない限り買うことがない。

机の上には鉛筆削りだけ。

だけどこのがらんとした部屋を寂しいと思ったことはない。むしろかなり満足していた。必要最低限のものがあればそれ以上はいらない。

机に立てかけるように置いたランドセルを開ける。明日の時間割は終わらせてあるし、ランドセルを開けたところで何も用はないのだけれど、必要最低限のもので揃えられているこの部屋で退屈しのぎをするにはこれくらいしかない。

ランドセルを開けると、今日借りたばかりの伝記が目につく。普段は借りたその日に本を読み始める。だけど今日は明日のことで頭がいっぱいで、とても本を読む気にはなれなかった。

伝記から目を逸らす。眠れない夜にすることは決まっている。ランドセルからファイルを取り出し、提出物の一番上に重ねられた紙切れを数枚取り出す。薄い水色の折り紙。それを手に机に座る。

暗闇に目は慣れていたが折り紙をするには暗すぎる。机に横にある緑のカーテンを掴むとゆっくり開ける。

夜の色が差し込み、その下にある白く薄いカーテンが私の動きに合わせて揺れた。

そういえば、転校してきたときの翠ちゃんもこんな風に白い服を着ていた。小さなリボンが両肩についた、カーテンのように柔らかい服を思い出す。

あの服はきっともう小さくなって着られないだろう。ぎゅっと握りしめられた左腕を思い出す。そこだけ白い服が不自然に波打っていた。

私も右手で拳を作るように白いカーテンを握りしめてみる。規則正しく波打っていたカーテンにさっきまではなかった線が何本も浮き上がる。

 彼女はどんな気持ちで握っていたのだろう。

右手の力を弱め、開放する。そのまま、白いカーテンも開ける。さっきよりもずっと白い色が部屋に差し込んでくる。これは夜の色ではない。家の前の外灯の溢れんばかりの光。

白い色と夜の色は決して交わることはないけれど、喧嘩をすることもなかった。

完全に手元が照らされたわけではないが、これぐらいあれば折り紙をするには十分だ。視覚で足りない分は、触覚で補える。

目線を机に移し、折り紙を触る。縦に半分、横に半分に折り、筆箱からカッターを出す。折り目に沿って、刃を入れ、真っ直ぐ押し出す。スッと心地いい音がなり、折り紙が真っ二つになる。

そういえば昔、学校にカッターを持っているのが、男子に見つかり、先生にチクられたことがあった。先生にカッターを没収され、明日から持ってこないようにと注意された。私があまり怒られなかったから、男子にとっては面白くなかったかもしれない。その男子にとっても、先生にとっても意外に思われるかもしれないが私は全く反省しなかった。カッターなんて他にも何本か家にあった。私は次の日からも学校に持って行くことを辞めなかった。人を傷つけるために使うつもりはない。折り紙を切るだけ。だけど、先生に注意されるのは嫌だったから人前で使うことはそれ以来辞めた。

四分の一サイズになった折り紙を半分に折り、さらに半分に折っていく。一度広げ、折り目に合わせて三角に折る。

その後も次々に指を動かしていく。何回もやったことのある動き。五百回以上はやったことがあるのではないだろうか。カーテンを開けずとも真っ暗闇の中でもできたかもしれない。

ひし形のような平行四辺形の形に折られた折り紙が出来上がる。それを机の上に転がすと、残り三枚の折り紙も同じように折っていく。

 何も考えずとも指は勝手に動いていく。何も考えなくていいというのはとても楽だ。折り紙をしている時は悪いことすら頭に浮かばない。

 だから小さい時からずっとやってきた。いつも肌身離さずにこの小さな紙切れを持ち歩き、嫌な気分になったときはせっせと紙切れを折り続けるのだった。何も考えなくていいように。

 そうすると落ち着いてくる。悲しみの時も、不安の時も、怒りの時も、どんな時だって折り紙は私を宥めてくれる。 

 海が凪いでいくように。風がやみ真っ直ぐになるように。全部、静かに凪いでいく。そうやって眠くなるまで過ごすのだった。


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