あなたを知りたい
デスクでパソコンを打っていく。
隣に面したグラウンドから子どもたちの声と先生が指示を出す声が聞こえる。その様子をチラッと見る。
列をなした小さな子どもたちが目に入る。ピッという笛の音と同時に先頭の子が走りだす。
一年生かな。
この位置からでは、子どもたちの顔は豆粒ほどにしか見えないが、子どもたちに指示を出していく、あのよく通る声と遠目からでもわかる体育会系のがっちりした肉体は一年二組の担任、井上先生だ。その音に混ざり合うようにまたパソコンを打っていく。
保健だよりを配布するまでにはまだ時間はあるけれど、余裕をもって終わらせておいても損はない。書体の種類、文字の読みやすさ、児童の目を引くようなイラスト、子どもにも親にも知っておいてほしいこと、色んなことを頭の中で巡らせながら一枚の紙切れにのせる内容を作っていく。十月の保健だよりは目の健康について触れることが定番。その理由は十月十日が「目の愛護デー」だから。どうやら、数字の⒑/⒑をひっくり返すと一の部分が眉毛、零の部分が目に見えることが由来らしい。面白いことを考えつく人がいるもんだと感心してしまう。
目は一生もの。若いころから近視で眼鏡をかけることが当たり前だった。そこに今ではドライアイやら眼精疲労やらが加わりパソコン作業には苦しめられている。コンタクト、眼鏡、目薬は必需品で、文明の利器を使わずともちゃんと見える目というのは遥か遠くの憧れ的存在となってしまった。
子どもたちの中にも近視の子は多い。だからこそ、子どもたちには、今持っているものを大切にすることを伝えたいのだが、何せ今を生きる子どもたちの周りには目にダメージを与えるものがたくさんある。そのどれもが強力な光を放っており、抗うことは難しいかなと思う。やはり、たくさんの物語で紡がれ、たくさんの歌に登場するように、大切なものは失って初めて気づくのだ。何かが発展し、普及するその裏には必ずマイナスな面もついてくる。仕方ないこと。でも、その仕方ないことから少しでも子どもたちを守れたらと思いながら今日も保健室の先生をしている。
ここ乃町小学校に赴任してから早いもので三年目。全校生徒三三二人、一クラス二十五人から三十人と周辺地域に比べれば児童数は多い方。それでも、六年生の児童数より一年生の方が八人少ないことを考えれば、やはり子どもが少なくなっていることをひしひしと感じる。それにいくら子どもが少なくなってきているとはいえ、三三二人の子どもに対し、養護教諭はたった一人。もちろん、子どもの人数が少なくたって大きな責任を伴う。親としては「いってらっしゃい」と見送ったなら、「ただいま」と元気に帰ってきてほしいものだから。しかし…うん、やはり、責が重いな。思わず、苦笑しそうになる。これだけ人数の多い学校に赴任するのも久しぶりなわけで、老化という言葉に片足突っ込んでいる身体に鞭打って今日も今日とて頑張りしかない。
養護教諭としての生活もあと数年で二十年に達する。もうすぐベテランの域にはいってしまうのだろうか。ベテランの域にも片足突っ込んでいるから、人数の多い学校を任されたのだろうか。
小さな子どももいないしな。そもそも独身だしな。
なるほどお偉方にとったら格好の的だったのかもしれない。まあ、どんな理由があれ、この二年と半年、この学校でバタバタワイワイと過ごしている。
それにしても、今年の夏も暑い。九月も中旬を過ぎたが、太陽の勢いは一向に収まりそうにない。グラウンドで体育ができるのは今日も一時間目までだ。それ以降はぐんぐん気温が上がってくるので熱中症の危険が伴う。本当は今だって危ういが、私からは水分をに十分置きにとらせることと、具合が悪くなったらすぐに保健室に連れてくるようにとしか言えない。全く、七月、九月の体育は中止にさせるべきだ。それでは子どもたちの体力が、とか、運動は発育に大切だ、とか、一丁前に言うのならば完全冷房付きの体育館でも寄こしてくれ。
十月の保健だよりにも“まだまだ熱中症に気をつけましょう”と啓発しておいた方がいいかもしれない。それとも、来月になれば急に冷え込むのかしら。だったとしたら“上着を着るなどして体調管理に気をつけましょう”的な文の方がいい気がする。ここ数年の天気は読むことができな過ぎて困ってしまう。
「先生、何してるの?」
一人で考えごとをしていると、パソコン越しに女の子の声が飛んでくる。パソコンの画面を見つめて細めていた目を前に移す。
「先生、難しい顔してたよ」
そう言うと、前にいる女の子は目を細めて見せた。私の真似をしているのだろう。目を細め、眉を下げ、眉間に皴を寄せている。顔の上半分は難しい顔をしているが、口元は笑いかけていた。その姿がなんとも愛らしくて、からかわれているにも関わらず笑ってしまう。
「保健だよりを作っているんだよ。十月の分。でもね、最近は少し昔に比べて季節感が難しいでしょう?だから、体調管理の仕方とか、気温について触れて書くのが難しいんだよね」
「なるほどねえぇ。じゃあさ、暑かったら冷房をつけましょう。寒くなってきたら、長そでを着て寒くないようにしましょう。で、いいんじゃない?」
女の子は表情を元に戻すと真面目な顔でそう言った。
「そうだね。さすがじゃん。」
そういうと、にっこり微笑んだ。
保健室には、入口を入って真っ直ぐに教師用のデスクが二つあり、向かい合うような形で並んでいる。右側の机は私、左側の机は教育実習生が使うことが多いが、今は別の子が使っている。
この子は今年の四月下旬ごろから学校に来れなくなった。五月、六月、七月と学校をお休みし、夏休みが明けてから少し経った頃、保健室に来てくれるようになった。
六年一組のりんちゃん。
顎のラインに沿って流れる艶やかな髪、少し釣りあがった目。でも、きつそうな印象は与えず、むしろ柔らかい雰囲気を纏っている。
りんちゃんのことは、他の生徒のことよりも少しだけ多く知っていた。それは、私が川乃町小学校に赴任してきた年の一学期、りんちゃんが保健委員会のメンバーだったからだ。最初の委員会での自己紹介、ほんのりと頬を赤め、視線をいろんな所に泳がせながら、それでも笑顔で自分の名前を言っていたのが印象的だった。
保健委員は毎週、自分の担当する曜日の昼休みに保健室に来て、保健室を利用した児童の記録や校内のせっけんの補充などをしてくれる。
りんちゃんが担当していた曜日は何曜日だっただろうか。
当時のりんちゃんは保健委員だけでなく、クラスの保健係でもあった。保健係は毎朝、健康観察版を保健室まで取りに来て、朝学活で担任の先生が健康観察を終えると、その内容を記入の上、健康観察版を保健室に提出しに来てくれる。
毎朝顔を合わせつつ、毎週保健委員として保健室にお勤めしてくれていたので、りんちゃんの名前も声も顔も人柄も自然と覚えていた。
それにりんちゃんはその翌年、五年生の時も、一学期は保健係、二学期は保健委員会に入っていた。
他の生徒よりも圧倒的に交流する機会が多かったのだ。
そして今、その女の子は向かい合った教卓に座り、黙々と計算ドリルを解いている。
計算を解いていくその手は一定のスピードで進んでいき、ノートが次々に数字と記号で埋まっていく。
勉強でつまいずいて学校に出てこられなくなる子どももいる。しかし、この様子を見ている限り、勉強でつまずいた可能性は低い。のかなあ。
自信はない。計算だけはなんなく行えている可能性だってある。現に、担任の先生はさまざまな教科のプリントを持ってきてくれているが、計算ドリル以外の教科をやっているのを見たことがなかった。
無理に他の教科をやらせるのもどうかと思い、何も触れずにいる。いや、一度だけ、“算数が好きなの?”と聞いたことがある。そのときはなんと言われたっけ。ああ、そうだ。ははは、と軽く笑って流されたのだ。。
ふう、とりあえず今は保健だよりを作り上げてしまうことに務めよう。
その時、ガラガラっと子気味いい音が鳴って保健室のドアが開いた。二人同時にドアの方を向く。ドアをゆっくり開け、遠慮がちに入ってきたのは一年生の男の子だった。
急に二人に見られたら恥ずかしいかもと思い、“どうしたの”と微笑みかけながら席を立つ。
りんちゃんも同じことを思ったのか男の子に対して遠慮がちに微笑んでいた。
「転んだ」
男の子は小さな声で呟くように言う。体操着から覗く細い脚の膝小僧に擦り傷があった。入口側の壁に平行になるように備え付けらえた革張りのソファに座らせる。既に流水で傷口を洗っているようだった。
一年生は今外で体育をしている。その最中での怪我か。
「外で体育?」
そう聞くと男の子は小さくうなずき、
「転んだ」
と、また手短に答えた。
傷口に砂や石がくっついていないかよく見ると、ガーゼを取り出し、傷口に抑える。大きな怪我ではない。少し出血している程度だった。このくらいのこと日常茶飯事だ。
「一年何組?」
ソファの横で男の子に視線を合わせるようにしゃがんだりんちゃんが聞く。
手には保健室の利用者を記録する版があった。ここに、学年クラス名前症状などを記入していく。普段は私が行い、青空休みと昼休みは保健委員が行う仕事だ。青空休みと昼休みは今まで通り保健委員が行っているがそれ以外はりんちゃんにこの仕事を任せている。
「一組」
「名前は?」
「ゆうだい」
「上の名前も教えて?」
「すずき」
聞いたことを記入していく。
「症状のところは怪我の欄に擦り傷でいいよ」
りんちゃんの方を向いてそう言うと、りんちゃんは軽く頷いて、記入していく。
私はゆうだいくんに絆創膏を貼った。
「今日の体育は何してたの?」
私が問いかけるとゆうだいくんはぶすっとした顔をして、
「運動会のリレーの練習」
と小声で答えた。
「走るのは嫌い?」
りんちゃんが版から顔をあげゆうだいくんに聞く。
保健室に来た子に対し、りんちゃんが、自発的に一言二言話しかけることがあることに私は気づいていた。
人と話すことを意識しているのかもしれないし、ずっと保健室登校していると他の誰かと話したくなるのかもしれないが、その時の声は柔らかで私もお手本にすべきだとまで思っていた。
「好き。みんなの前で転んで嫌だった。」
ゆうだいくんはりんちゃんを見つめながら、さっきまでよりもさらに小さい声で話した。
その声は、恥ずかしいからというよりも、りんちゃんにしか聞こえない声で話そうとしているのではないかと思った。
りんちゃんにはこういう所があった。なんとなく、みんなに好かれていくような、その空気のなかに入り込んでしまうような。
仲間に入れてもらえないのは少し寂しい気もするが、年の近い二人にしか通じあえないものもあるし、ゆうだいくんからりんちゃんにそれが向けられたのならここで二人が出会えてよかったとすら思う。
「体育に戻る?それとも、授業が終わるまでここにいる?」
ゴミを捨てつつ聞いた。
「ここにいる」
ゆうだいくんがそう答えると、りんちゃんはソファの横に備え付けられた小さな棚から、“ミッケ”を取り出した。ミッケは緻密な絵の中に隠されているさまざまなものを見つけ出していく子どもだけでなく大人も夢中になれる絵本だ。
棚には他にも間違い探しや歴史を漫画にしたようなもの、迷路や低学年向けの絵本などが、小さな本棚の中で所狭し並んでいる。
「これやらない?」
そう言ってりんちゃんが取り出したのは、たくさん描かれた絵の中から、目的の物をみつける、絵本だった。
りんちゃんの声にゆうだいくんは小さく頷いた。ソファに二人で座る様子を見つつ私はデスクへと戻った。
十月の保健だよりの続きを作っていく。外からはまだ、子どもたちがはしゃぐ声と笛の音、井上先生の声が聞こえてくる。
何気なく時計を見やる。現在九時十五分。あと、五分で一時間目が終わる。
二人が絵本を一心に見つめながら、ぼそぼそと話し合う声が聞こえる。あと、五分でどれだけ進むだろう。
りんちゃんが保健室に来た子とこういう風に話していることは今までにも何回かあった。教室にいけない子の中には、人と関わり合うこと自体を避けようとする子もいる。りんちゃん自身が人と関わりたいと思っているかどうかは別として、今までそれを拒絶したり、そのような素振りをみせることはなかった。
むしろ、今日みたいに自分から話しかけたり遊びを提案したりすることが多かった。
保健室の利用者の記録を任せたのも、保健室登校初日、“なにか手伝えることありますか”と聞いてきたのがきっかけだった。
六年生のりんちゃんにとったら、ここに来るほとんどの子が年下だ。そういう子たちと接しているときの表情はとても穏やかで、きゃははと笑い合う姿は普段の彼女より幾分幼く見えた。
保健室を利用する子どもたちは手当が終わったらとか、何時間目が終わったらとか、親が迎えに来たらとか、一定の区切りで去っていく。
そうしたら、幾らりんちゃんと仲良く話していようと元居た場所に帰っていかなければならない。
今、一緒に本を覗き込んでいるゆうだい君だってそうだ。あと、五分したら教室に戻り、二時間目を始める。
学校には学校の時間の波があり、多くの児童はその波に乗って、泳ぐか、揺蕩うかしている。それが当たり前だから。でもその波で揺蕩うことも、泳ぐこともできず、溺れて、波の外へと追い出されてしまう子もいる。自ら望んで外れていった者ならまだいいかもしれない。でも、そうではない子がほとんどだ。今まで乗っていた波から外され、一人、違う場所に流されたとき、それはどんな気持ちなのだろうか。その時間の波に乗れなくなった彼女の傍に少しでも長く誰かが居てほしいと思う。
その役割を私はできているだろうか。それとも、こんな風にりんちゃんとミッケを覗き込めるような子がいいのだろうか。
りんちゃんが求めるのは誰なのだろうか。誰かを求めているのだろうか。それとも、一人で今の波を泳いでみたいと思うのだろうか。
とりあえず、今は、二人の心が解け合っていくこの時間と空間が少しでも長く続くことを祈るほかない。
そして、あと五分経ったとき、ゆうだい君が元の場所に戻れるように。
「先生、先生」
パソコンを打つのに夢中になっていると、ゆうだい君がミッケを抱え、私の腕をたたいていた。
「は~あい。何ですか?」
パソコンを打つ手を止め、ゆうだい君の顔を見る。黒く澄んだ瞳の中に天井の電気がきらきらと輝く。
「これ、見つけられる?」
さっきまでの小さな声とは対照的にはきはきとした物言いで聞いてきた。どうやらこの数分で気持ちを持ち直したらしい。
ゆうだい君は私の前に一ページ、開いて見せた。
「これです」
ゆうだい君の隣に来たりんちゃんが開かれたページの左端にある文字を指さした。そこには“赤と白の魚が泳いでいる”と書かれていた。
「ちょっと貸して」
ゆうだい君から本を受け取ると探し始めた。
「見つからないんだよ」
「見つからなかったんだよね」
「え~ないねえ」
目を細めて真面目に探すが見つからない。
三人で本を覗き込む。全員が無言で目だけを動かす。
こういうのは子どもの方が得意だ。カラフルで心躍る絵の中から目的の物を見つけ出す。子どもたちはすぐにあった!と声をあげ、こちらを驚かしてくるのだから。
だけど、どこにもなかった。老眼の私はもちろん、さっきから鼻息荒く探している二人も見つけられない。
「ないんじゃない?」
一番最初に値を上げたのは私だった。老眼に加え、ドライアイ。カラフルな絵を眺めているのも、ずっと凝視しているのも疲れる。
「ないなんてことないでしょ」
「そうだよ、本になってるんだから」
二人から怒られる。
そうしているうちに、廊下が賑わってきた。一時間目が終わったらしい。移動教室から教室に戻る子、教室から移動教室に行く子、グランドへ向かう子、帰ってくる子、様々な方向へ向かう足跡が廊下を駆け巡り、無言の保健室に響く。
その時、グラウンドと面した大きな窓のような小さな入り口のようなスライドドアがトントントンと叩かれた。ミッケを食い入るように見ていた私たちは一瞬ビクッとし、その方向を見る。上半分はすりガラス、下半分は透明なガラスになっている扉から赤白帽子の上だけがチラッと見える。頭数三人。
はあ、またか。
半ば呆れつつドアをスライドさせて開ける。
「玄関から戻りなさい」
「先生、おはよう。失礼しま~す」
「ここは玄関ではありません」
そんな言葉はこの子たちの前では、何の役にも立たない。三人は外履きを脱ぐと、それを持ち、真っ直ぐ保健室を横切り廊下へと出ていく。
「まったくもう」
ドアを閉めつつ、溜息交じりに苦笑いするしかない。その様子をみたりんちゃんも、苦笑いしつつ、
「まあ、気持ちは分かるけどね。グラウンドから校舎の周りをぐるりと回って玄関に行くより、グラウンドから保健室を通って玄関に行く方が断然近いもん」
りんちゃんの言葉にさらに苦笑してしまいそうになる。
もちろん、病人がいるときは断固お断りしている。今日にようにドアを開けることもなく軽く睨み返している。なんなら外側のドアに“保健室に用がある人以外立ち入り禁止”と書かれた札を貼っている。
保健室を通ってショートカットしたい子どもたちの気持ちも分からなくはない。なんだかんだいって今日みたく通してしまう自分が一番罪だとも思う。
あの三人が開けっ放しにしていった扉を閉めようとしたとき、丁度そこに井上先生が顔を出した。
「おお、ゆうだい!大丈夫だったか?」
入口に仁王立ちになったまま先生が尋ねる。筋肉ムキムキのせいか脇が閉まっていない。身体に沿うことなくぶら下がった腕には血管が浮き出ている。ふくらはぎの筋肉も盛り上がりは、今時こんな言葉を使っていいのか分からないが、実に男らしい。がっしりした体躯とは裏腹にゆうだい君を心配するその顔は柔らかく、この人が年をとったら好好爺だな、と感じさせた。
「うん、全然大丈夫」
ゆうだい君は先生の方に行きながら先ほどより幾らか落ち着いた声で答える。
「そうか?」
「擦り傷でしたよ。水で洗ってくださったのですね。ありがとうございました。」
ゆうだい君が保健室を出ていこうとする瞬間一度こちらを見ると、
「絶対見つけてあげてね。誰にも見つけてもらえないなんて悲しすぎでしょ」
そう言うと出て行った。井上先生は一瞬、はて、という顔をしたが、こちらに会釈してからゆうだい君を追うように保健室から出て行った。
「魚のことだよね?」
「そうだね」
そう言って私たちは微笑み合った。
その後、具合の悪い子や怪我をした子は来ず、保健室は鉛筆が走る音とパソコンを打つ音、引き出しを開ける音、空調の音など心地いい音で満たされていた。
「先生、もうすぐで青空休みだから、ソファの方にいるね」
そう言われて時計を見ると、もうすぐで十時二十分になるところだった。
もうそんな時間になっていたのか。事務的な仕事をしていると時間が経つのが早い。もしかして、こういったパソコンと向かい合う仕事の方が向いていたのではないか、とすら思えてくる。
やれやれ。
そう思って、マイナス思考をしてしまっている自分に心の中で苦笑する。
りんちゃんは、そそくさとソファに移る。ソファと言っても、入口側の壁沿いにある保健室に来た子がよく利用するソファではない。奥に備え付けられた二床のベッドの横に所狭しと置かれた二人掛けのソファである。私も何回か座ったことがあるが、布製でできた薄い緑色のソファは場所も相まって落ち着く場所だと思う。
りんちゃんは休み時間はここにいることが多い。少し前まで授業中と同じようにデスク座って、勉強をしたり、本を読んだりしていたが、一度保健室を利用した男の子に
「なんでそこにいるの。先生が使う机だよ」
と言われてから、奥のソファで過ごすようになった。もちろん男の子に悪意はないだろう。
でも、りんちゃんにとって触れられたくなかったことだったに違いない。何と答えれば分からず困り顔で笑っていたりんちゃんはとても痛々しくみえた。
あの時は、
「先生のお手伝いをしてくれているのよ」
と私が言ったのだ。好奇心で聞いてくる子どももいるだろうと定型文のような形で容易している言葉だ。
男の子は納得したのかしていないのか分からなかったが、そのまま何も言うことはなく、用事を終えるとすぐに保健室を出て行った。
緑のソファがあるところは入口からはベッドのカーテンに隠れて見えない。仮に見えたとしても、そこにいれば具合が悪くて来たんだなくらいにしか思わないだろう。
ちらりと後ろを振り向く。今は、先ほどゆうだい君とやっていた絵本を開いている。魚を探しているのかな。
それとも諦めて別のページに移ったかもしれない。
廊下が賑わいを取り戻していく。児童が走っている音、歩いている音、早歩きをしている音、キュッキュッという内履きの音、誰かを呼んで叫ぶ声、噂話をする声。
子どもがいないときは静かに休んでいる場所も、子どもがはしゃぎ出したら、しょうがいなあ、と欠伸をし、元気な子どもたちを微笑みながら見守っている。そんな想像を膨らまさずにはいられない。
もうすぐ来るかな、と思ったその時、保健室のドアがガラガラガラと開いた。勢いよく開けられたので、ドアが壁にぶつかりドンっと鈍い音が鳴る。
「先生、久しぶり~」
そう言って笑顔で入って来たのは、黒い髪をまっすぐ下ろし、ピンクのフリルのついた服がよく似合う五年生の加藤夢ちゃんだ。夢ちゃんは保健委員の一人で金曜日の休み時間が当番だ。
「石鹼の補充行ってきま~す」
水道の下に備え付けられている棚をガサゴソと漁り、固形石鹼を取り出すと、すぐに出て行ってしまった。
「風のような子だよね。春一番」
りんちゃんがミッケを見つめながら、ボソリと言った。
「春一番なんて言葉よく知っているね。それに夢ちゃんにぴったりな例えかも」
りんちゃんは保健室登校するようになってから保健委員のメンバーをみんな覚えてしまったようだった。
「二学期の保健委員にはぜひ、りんさんも入ってね。」
「いいよ」
軽い返事にほんとかなあ、と苦笑いしつつ今は何委員に入っているんだっけ、と考える。
「去年の一学期は放送委員に入っていたんだけどね、すごく楽しかったよ。運動会で司会したの、覚えてる?」
「覚えてるよ、もちろん」
「ほんとかなあ?」
りんちゃんはくすくすと笑う。
「赤と白の魚、見つけられないなあ」
「ないんじゃない?書き忘れ。ミスは誰にだってあるよ」
「先生!」
りんちゃんは笑いながら突っ込む。
「それじゃあ、不良品じゃん。違うよ、ちゃんとあるよ、きっと。見つけられないだけ」
その時、またガラガラっとドアが開く。今度はゆっくりと静かに開かれる。
「先生、遊びに来た~」
「ここは遊び場じゃないよ」
平然とした顔で入って来たのは、六年生の章大君だ。ここ最近章大君は用がないにも関わらず、二日に一回は保健室に来る。保健室に来ては、真ん中に置かれた丸い机の席に座り、折り紙を折っている。
つい先日、あまりにも頻繁に来るものだから何か用があるけど切り出せないでいるのかもと心配になって、彼の担任である小林先生に相談した。だけど、学校生活で特に変わった所は感じていない、という結論に達し今は経過観察中だ。
章大君はクラス内で目立つ存在ではない。お調子者のムードメーカータイプではなく、小学生にしては物静かで、大人っぽい。同級生からは好かれるわけでもなく、嫌われてもいない。ただ、足が速く運動神経もいいため体育の授業では重宝され、と言う風に教員たちの間で話されているのを小耳に挟んだことがある。
「そうそう、一時間目に雄大君が来たよ。膝すりむいてね。瘡蓋になってもはがしちゃだめだよって伝えといて」
「うっす」
章大君はここに来ると必ずといっていいほど折り紙をしている。どうやら談話室にある折り紙をくすねてきているらしい。いつもやっているものだから好きなのかと思い、何度か作っている所を覗き込んだことがあるが、お世辞にも上手と言えるものではなかった。折り目が合っていなかったり、白い部分がはみ出ていたり、余分と思える折り線がはいっていたりした。
そして一番は、何を作っているにか皆目見当もつかなかった。
仕事柄、子どもたちと折り紙をすることもあるが、章大君はかなり不器用な方だろう。
「先生、石鹼の補充言ってきたよ~」
気が付いたら夢ちゃんが戻ってきていた。
「あれ~また来てるの~?先生、この人のことは利用者記録に書くんだっけ?」
「書かなくていいよ。この人じゃなくて章大さんね」
「章大さんはどうして保健室へ?変わってるね。足早い人でしょ?持久走大会毎年一位だもんね。去年は大会記録を塗り替えたって噂になっていたよ。ホントなの?外で遊んでそうな人なのにどうして保健室にいるの?友達いないの?今、六年生の男子サッカーしてたよ。一緒にやらないの?サッカー苦手?」
夢ちゃんの怒涛の質問を章大君は無表情で聞いている。もはや無表情すぎて聞いていないのではないかとすら思ってしまう。
「春一番…」
私の後ろでりんちゃんがボソリと呟くのが聞こえてくる。
二人からはりんちゃんが見えていないはずだ。私は、笑いを堪えるのに必死になる。
章大君は深呼吸をするように、姿勢を伸ばすと口を開いた。
「えっと…何から答えれば。まず、友達はいる。体育館で遊ぶことも多い。サッカーは普通。今日はパスしてきた。で、あとは…ああ持久走、大会記録を塗り替えたのはホント」
年下の子の問いに一つ一つ答える。六年生にもなれば生意気にも鼻で笑って流しそうだけど、案外丁寧なのかもしれない。
「何してるのあいつ」
章大くんがポツリとつぶやく。
視線の先には絵本を凝視するりんちゃんがいた。
「本読んでるんじゃない?」
私は見たまんまを言った。
会話が聞こえたのか、りんちゃんがチラリとこちらを見る。
「やっぱりないね」
ついでにとでも言うように、りんちゃんはポツリとつぶやいた。
「何が?」
章大くんが聞く。りんんちゃんは一つ置いた後、
「魚」
と言った。
「魚見つけたい。見つけてあげたい」
視線を絵本に戻しそう言った。
見つけてあげたいのは雄大くんのためか。それとも、動くことのない魚のためか。それとも、自分のためか。
「僕も見つけられない」
ふいに章大くんがつぶやく。
「まだ見てないじゃない。本」
私がそう言うと、
「やり方」
と言う。
私もりんちゃんも頭に?を浮かべる。すると、章大くんは折り紙を持ち上げながら、
「折り紙の折り方」
と言った。
私は納得し、りんちゃんは興味をなくしたようだ。
「何で私が章大くんの散らかした折り紙を片付けなきゃいけないの」
昼休みのあと、りんちゃんがプリプリしながら、テーブルに散らかった折り紙を箱へと片付けている。
「しょうがないじゃない。そのまま帰っちゃったんだから」
結局章大くんは昼休みにもやってきた。
「休養?」
と聞くと、頷いたのでそのままいさせてあげることにした。
折り紙を試行錯誤しながら折った後、散らかしたまま、清掃へと行き、今に至る。
「大体、章大くんが折り紙?」
「意外?」
「まあ、意外。だって今まで一度も見たことないもの。最近はまったのかな」
確かに、昼休みはサッカーをしているか、図書室にいると、小林先生あたりが言っていたような気がする。
りんちゃんが片付け終わったころ、保健室の清掃をする子たちがわらわらと入ってくる。
これを合図にするように、りんちゃんはランドセルを背負うと、
「んじゃ、先生行くね」
と言った。
りんちゃんはいつも、給食を食べた後か、昼休みが終わった後に速やかに帰っていく。
見送るのは私だけだ。
「はい、気を付けて」
保健室の外まで見送る。
「先生」
りんちゃんが改まった顔をしたので、ん?と身構える。
「先生、また明日」
そう言うと、くるりと向きを変え、玄関へと向かって行った。
また明日。いい響きだ。
薄い紫のランドセルを背負った後ろ姿を見ながら、私は願う。明日“先生、おはよう”と、保健室に入ってきてくれることを。
それが最近の日課だった。
「はい、また明日」
また、明日会いましょう。ここがあなたの教室である限り、私はいつでもあなたの登校を待っているから。
そう思うばかりだった。




