みんながその子を見た日。
音楽会の日は、秋晴れと言うのにふさわしいほど、よく澄んで、木々が美しく揺れていた。
クラスには六年生の発表直前で合流することになっている。
それまで、保健室を独占状態だ。
三年生がトップバッターで、その後、一年生、二年生、四年生、五年生、六年生と続く。
開け放った窓に三年生の歌声が運ばれてくる。
今の三年生が入学してきたときのことを覚えている。入学式のタイミングぴったりに桜が咲いていた、祝福すべき子どもたち。
ステージの階段に座り、落ち着きなくバラバラの行動をとっていた子たちが、こうやって声をそろえられるようになる。
そしてその声が私を癒していく。
主がいない部屋に一人でいると、なんだかお腹の下がしまるような感覚になる。
それを抑えたくてポケットに手を突っ込む。紙に触れる感触があった。くしゃっとなったその紙をポッケから出し、指で平らにする。
あの日、章大くんがくれたユニット折り紙に入っていたものだ。ノートの端を指でちぎったのだろう。四つ折りにされたその紙はあまりに不器用だった。
ひらりと開いてみる。
そこにはおそらく章大くんのものと思しき字でこう書かれていた。
りん→せいいっぱい思いをこめて
すい→わたしたちは
その文字が自然と頬をゆるませていく。なんとも無愛想な紙切れだ。何でこれを書いたのかも分からない。忘れると思ったのだろうか。それに、宛先も送り主も書いてない。
だけど、その紙きれは胸の深い部分をほんのり温かくさせた。
また折り筋通り四つにたたみポケットにしまった。
そのとき、コンコンと扉を小さくノックする音が聞こえた。
「はい」
この部屋の主ではないけれど、私しかいないので、何も言わないのもおかしいと思い、返事をする。
すると、ノックの音よりさらに控えめに扉が開き、小さな体の男の子が顔を出した。
鈴木雄大くんだ。
「ぼくもうすぐ出る。りんちゃん見にきてよ」
教卓まで小走りでくると、私の腕をつかみそう言った。
嬉しい反面困ってしまう。五年生の発表が聞こえたら体育館に行くように言われているのだ。先生も迎えに向かうから、と。
言われたことと違う行動をした結果、先生と入れ違ってしまうのが嫌だった。
断ろうとした、だけど出てきたのは、
「どうして、私が?」
だった。
「お兄ちゃんがりんちゃんと友達だから。ぼく、お母さんもお父さんも見に来ないから、お兄ちゃんの他にも誰かに見てほしい」
雄大くんから出てきたのは、思いもかけない言葉だった。お父さんとお母さん来ないんだな。うちも来ない。一緒だ。
それに何というか私、鈴木兄弟に慕われてる?
「ね?行こ」
つかんだ腕をぐいぐい引っ張る。
自分よりも小さな子の頼みを断れるほどの勇気はなかった。
席を立つと、雄大くんに引っ張られるまま、体育館へと向かった。歩くにつれ、体育館からの音が大きくなってくる。がやがやとしゃべる保護者の声、床を叩くクツの音、しゃらしゃらなる楽器の音。
どうやら発表を終えた三年生が移動しているようだ。
体育館に足を踏み入れると、秋の風はどこかへ流され、人肌の温度で満たされていた。決して熱くはないけど、じんわりとぬるい空気が体をおおう。
「じゃあ、ぼくここで行くからね」
雄大くんはそういうと、ちょっと待ってと言う、私の言葉をさえぎるようにかけて言った。
体育館の一番前でわらわらと立ちだした一年生の列に合流するのだろう。
体育館の入り口でぼう然と立ち尽くす。
保護者席では一年生の親と思われる人たちがスマホをかかげたり、カメラをセットしたりし出している
一年生はステージに移動しながら、保護者席の方を振り返り、首を長くしている。かと思えば、手を振ってる子もいた。
友達同士で目を見合わせ、また保護者席を見る子もいた。“私のママそこにいた”“え~どこ?”きっと、こんな会話が繰り広げられていたのだろう。
ここにいてもしょうがないし、やっぱり保健室に戻ろうかと考え始めたそのとき、
列の中ほどに入った雄大くんと目が合った。
そして、あっという顔をし、にっこりした顔の横で手を振った。
そうか、この子はこれがしたかったのかもしれない。親を探して、手をふる。保育園生や低学年の子がよくやる動作だ。
私も雄大くんに向かって、迷うことなく手を振った。
そうしたら、雄大くんはもっと笑顔になって、思い切り手を振った。横ばかり見ていて、ステージの階段につまづいている。
一瞬バランスを崩したが転ぶことはなかった。
雄大くんは私に照れ笑いのような顔を向けた。私は前を向いて歩くように、人差し指で示した。
一年生の演奏を聞いて、終わったら戻ろう。そう思い、体育館の隅っこの壁に体重をあずける。
帰っていく保護者達が“どうしてこの子はここにいるんだろう”と言わんばかりの視線をおくり、体育館を後にする。
きっとそんなことは思っていない。でも、私はそう思われていると思っている。
ふうっと息を吐く。身体の生温かい空気が、体育館の生ぬるい空気と混ざり、温度がより一層上がった気がした。
なんだか、息苦しい。鎖骨をなでる。
やっぱりもどろう。
そう思ったとき、とんとんと誰かが肩をたたいた。
パッと振り向くと、そこにいたのは翠ちゃんだった。
翠ちゃんは、六年二組の列にいるか、コスモ組の子たちが固まって座っているところにいるはずだった。
どうしてここに、そう聞く前に、翠ちゃんは廊下の方を指さすと私の手をとって足早に歩き出した。
体育館から離れるにつれて、空気の温度が下がっていく。体が頭が生き返っていく。
翠ちゃんは保健室の前まで来ると、周りに誰もいないことを確認し、キュロットのポケットに手を突っ込んだ。
そこからスマホを取り出すと、
なんか、暑いよね。体育館
と打った。
そう感じていたのは私だけじゃなかったみたい。
「うん、暑い。人がいっぱいいるからかなあ。それに人が移動してたりするし」
体育館から一年生の演奏が聞こえてくる。アニメの歌の合奏だ。
「息が詰まりそうだったから、抜けてこられてよかった」
雄大くんには申し訳ないけど。
姿は見えないけど、この演奏はちゃんと聞いていよう。
「翠ちゃん、ここにいていいの?」
暑くて呼吸が苦しくなりそうだったから、トイレ行くって伝えて出てきた。
翠ちゃんの返事に頷く。
「保健室の中、入ろうか」
保健室に置かれた黒いソファに座りながら、一年生の演奏を聞く。
どちらも言葉を発するわけでもなく、ただだまっていた。
だから、翠ちゃんが何を考えているのか分からないし、何を聞いているのかも分からない。
合奏も合唱もこの距離で聞いているのが一番きれいに聞こえるような気がした。何回か廊下を曲がり、何枚も壁をへだてた先の方が。
ふと、ソファのの横に置かれた絵本棚に目がとまる。
雄大くんはその後、赤と白の魚を見つけられたのだろうか。
演奏が終わると、わっと拍手がなった。いくつも拍手が重なるこの音に、しゅわしゅわと弾けていく炭酸を思い出すのは私だけだろうか。
私は小さく拍手をする。保健室まで呼びに来てくれた、小さな王子様をたたえて。
隣で、翠ちゃんも拍手をした。目をとじて、胸の前で拍手していた。
しばらくの沈黙のあと、四年生の演奏が始まった。
どうして、図書室で話しかけてくれたの?
静かな保健室で先に言葉を発したのは翠ちゃんだった。唐突な質問。だけど、この空間では、むしろ自然な質問の気がした。
ここでは、ありとあらゆることが許される気がした。となりの教務室にも、廊下にも、真上の教室にも誰もいないからだろうか。
だから、私は目を閉じて考える。自分の呼吸に集中し、考える。
どうして、どうしてだろう。
話しかけない方が不自然だと思ったのだ。泣いている所を見られたから?いや、
「似てると思ったから」
そう、似てると思った。
四年生のとき、左腕をおさえながら、すべてにおびえた翠ちゃんが教室に入って来たとき。
「似てると思ったの」
夏にも冬にもなれず、その間にいた私と。
感情を消すように淡々と折り紙を折っていた私と。
図書室から外の世界をながめ、何かに閉じ込められている気持ちだった私と。
だから、転校してきた翠ちゃんを最初だけ取り巻き、興味がなくなると離れていった、クラスメイトに対して、冷めていた。なぜだか、自分がそんな扱いを受けた気持ちになったから。
似ていると思っていたのよ。
でもそれは多分違った。
翠ちゃんは私よりもずっときれいで、透き通っていた。
「だから、友達になれると思った。でもね、私は翠ちゃんが思うよりも臆病でずるい」
そんな風には見えないよ
それはなぐさめかもしれないし本心かもしれない。だけど、私は臆病だ。だれが否定しようと。
翠ちゃんと一緒にいると居心地がいい。それは、根っこのところで似ている部分があるからという理由もあるけど、おそらく一番は、翠ちゃんがあまり言葉を発しないからだ。
言葉によって傷つけられることがないからだ。
ね?私の本心はきれいじゃない。
でもそれは言うべきことではいない。そういってしまえば翠ちゃんの言葉をさらに奪ってしまうから。
だけど、言わない本当の理由は、翠ちゃんに絶望されるのが怖いから。
私は、臆病でずるい。
長い長い沈黙の末、どちらからともなく体育館へ向かったのは、小林先生が歩いてくる音がしたからだ。
体育館の列に合流すると、列の前後に座る子たちが手を振ってくれた。私も振り返す。
「それでは、六年生の皆さんお願いします」
体育ステージの横で放送委員の五年生が、掛け声を行った。その声を合図にして、六年生全体が“はい”と返事をして立ち上がる。
さっきよりも火照った空気が体をまとう。頬がどんどん熱を上げていくのを感じる。頭と体がぼんやりする。
あと少しで終わる。
頑張ろう。
体育館の窓から見える木々も少し揺れている気がした。少し、また少しと葉を落としつつある。
私が立つのは三列あるうちの二列目だ。一列目に立つ翠ちゃんの頭が見える。転校してきた時と変わらない、黒くサラッとした髪。
前には発表会にあきつつある一年生を筆頭に、それぞれ発表を終え、完全に力を抜いた児童たちの姿がある。
六年生の発表が終わってしまえば、保護者なり、友達と帰れるのだ。今日の放課後、もしくは明日の休みのことで頭がいっぱいだろう。
そんなことを考えていると、指揮者のりんちゃんがサッと手をあげるのが見えた。
みんなが指揮者を中心に体を向ける。
伴奏に向かい指揮を降り下ろしたところで、ピアノの力強くリズミカルな音が対区間に響いた。
翠ちゃん、知ってる?翠ちゃんは私のこと、優しくていい子だと思っているかもしれないけど全然そうじゃないの。
私、衝動的に物を壊してしまうことがあるの。恐ろしい姿よ。家族に迷惑をかけるし、悲しい思いをさせるからだめだって自分を制しようとするけれど、いつも負けてしまうの。
私は多分、物を壊して、後悔したいの。
何を目指しているのか~分からなくなり立ち止まる~
お気に入りだったぬいぐるみ、自分で作った折り紙、ドールハウス、パズル。自分の手でバラバラにしてしまったの。だから、部屋はがらんとしていて、小学生らしくないの。
そんなとき、力をくれるのは~いつでも眩しい君の声~
でもね、本当はね、ただ誰かに気づいて欲しかったの。物を壊すなんて、本当はどうでも良かったのかもしれない。
ただ、悲しい、寂しい、そういうことを誰かに気づいて欲しかった。言葉で言えばいいのに、それができないから、目に見える形にしてしまったの。
また素敵なことがまってる~気持ちになる~
私、全部持ってるつもりでいたの。家族、友達、家、服、食べ物、勉強、他にもいっぱい。愛情をもらって、勉強ができて、食べ物が合って、雨にぬれずに過ごせる。
だけど、一つ足りなかった。
自分への優しさ。
だから、他の何でもなく自分の力で自分をつぶしてしまっていたの。それが正しいと思っていたから。
翠ちゃんの言う通りだよ。私無理だと思うものに恋焦がれているの。それは、自分を悲しませないこと。
誰かが背中を押してくれるのを~待ってるだけの昨日から変わりたいんだ~
雨の中を走るなんて、映画みたいなことをしたとき思ったの。ああ、ずっとこうやって走っていられたらなあって。
あの時私、自由だったな。
成長しているか、していないか分からない毎日の中で、そんなのどうでもいいくらい自由だった。
あのときの自分が好きだった。
息を吐く度に体育館が熱くなっていく気がする。この暑さを感じているのは私だけなんだろうか。
ステージの上は人が密集していて、呼吸が上がってくる。
体育館横の先生たちを横目で見る。小林先生はカメラを構えていた。他の先生は体育ず割をしたり、中腰になったりしていたけれど、みんな涼やかな顔をしていた。
空気が重いのは私だけ?
翠ちゃんの方も見るが後ろ姿だけで表情は見えない。
曲が盛り上がっていけばいくほど、みんなの呼吸が上がって、息が苦しくなってくる。私が吸う空気は用意されていないみたいだった。
曲が終わるころには、私の顔は真っ赤だったと思う。
合唱が終わりりんちゃんが手を下ろすのと同時にみんなが前を向く。私も前を向こうとしたけど、体がスムーズに動かず、みんなからワンテンポ遅れてしまった。
斜め前の女の子が“私たち六年生”と話し始める。それに続くように、次の子、また次の子へと言葉のリレーが続いていく。
“合奏曲は”“惑星より、木星です”大きな声の子、小さな声の子、それぞれの色が飛び交う。
徐々に順番が近づいてくる中、私は冷静を取り戻せずにいた。体がじんじんと熱い。一つの空間に何百人もの呼吸と熱が交じり合う。
ステージの上でぎゅうぎゅうに並んでいるので、動く余地もない。
耳からウォンウォンという音が聞こえる。
足が重たい。
呼吸を意識的に繰り返していると、ステージ上がざわざわし、みんながきょろきょろしているのに気づいた。
そういえば、ぽんぽんと跳ねるように続いていた言葉のリレーが今は聞こえない。隣の子にトントンと、腕をたたかれる。
ああ、私の番か。ぼんやりとした意識の中で人ごとのようにそう思う。だから、止まっちゃったんだね。
そうだ、セリフ、セリフ。肩で呼吸しながら冷静さを取り戻そうと、さらにたくさん空気を取り込む。
あれなんだったっけ。セリフ、セリフ。
空気を吸おうとすればするほど、空気が入ってこない。いや、違う、吸った空気は口と喉にすべて吸い込まれて、蒸発していくようだった。
そうだ、セリフ。セリフ、言わなきゃ。練習では一度も忘れたことないのに。
そうだ、ポケットの中に章大くんが書いてくれたものが入っている。
ポケットに手を突っ込むのと、自分の体が崩れていくの、どちらが先だっただろうか。隣の子が私は支え込む形になり、二人一緒に崩れていく。
足の力が抜けていく途中、ぼんやりとした意識の中で、風鈴のように涼やかでかわいい音がした。
「せいいっぱいおもいをこめて」
あっ、私のセリフ。
誰だろう、言ってくれたのは。
その声はぬるくこもった空気をすべて浄化するように体育館を駆け抜けた。大きな声だったわけじゃない。だけど、だれの耳にも聞こえるような混じりけのない、きれいな声だった。
体育館がざわざわしているような気がする。そりゃそうだよ、こんな声の子、私たちの学年にいたっけってみんな思っている。
先生たちがステージの方にかけてくる。一緒に座り込む形になった子に、肩をたたかれる。痛くもなく、優しくもなく、それが妙に心地いい。
私が最後に見たのは、山田先生が列を縫って入ってくるところだった。
私、山田先生の顔を見ると、安心するよ。そのまま、重くなった体が沈んでいく。海にボトンと落とされて、抗うことができないように、沈んでいく。最後に目と耳が閉じていく。
私は本当に海に落とされたんだろうか。




