蟻地獄
秋の終わりの森は、どこか寂しげな空気を孕んでいた。冷たい風が頬を撫で、乾いた落ち葉がカサカサと音を立てる。僕は一人、弟との思い出が詰まったこの森に足を踏み入れた。目指すは、子供の頃、弟とよく観察した蟻地獄だ。
鬱蒼とした木々の間を抜け、開けた砂地に出る。注意深く足元を探すと、すぐにそれを見つけた。すり鉢状の蟻塚。蟻地獄だ。しゃがみこんで覗き込むと、底には獲物を待ち構えるウスバカゲロウの幼虫がいる。
「なぁ、兄ちゃん、見てみい! 蟻が落ちた!」
幼い弟の声が、不意に蘇った。目を閉じると、あの日の光景が鮮明に蘇る。弟と二人、蟻地獄に落ちた蟻を指さして、きゃあきゃあ騒いでいた。弟は本当に蟻地獄が好きだった。飽きもせずに、何時間でも観察していた。
「蟻さん、頑張れー!」
無邪気に叫ぶ弟の声が、耳の奥でこだまする。その声は、もう二度と聞くことはできない。
弟は二十歳で死んだ。突然の発病だった。信じられない、という気持ちと、どうして俺だけが生き残ったんだ、という後悔が、今も僕の胸を締め付ける。
弟が生きていた頃、僕は弟に冷たかった。いつも弟の世話を焼くのが面倒だった。うるさいな、あっち行っててよ、と何度言っただろう。弟はそれでも、いつも僕の後ろをついてきた。あの時、もう少し優しくしてやればよかった。弟の笑顔に、もっと応えてやればよかった。後悔ばかりが、胸の中に渦巻く。
蟻地獄をじっと見つめる。蟻が一匹、縁に足を滑らせ、蟻地獄の中に転がり落ちた。蟻は必死にもがいている。砂の斜面を這い上がろうとするが、ずるずると滑り落ちていく。蟻地獄の底へと、確実に沈んでいく。
弟も、病魔という蟻地獄に落ちて、もがき苦しんだのだろうか。助けを求めていたのだろうか。僕は、そんな弟の気持ちに、どれだけ寄り添ってやれただろうか。
蟻が、砂の底に完全に沈み込んだ、その時だった。
突如、森を揺るがすような突風が吹き荒れた。
木々の葉がざわめき、砂地の砂が巻き上げられる。突風は、僕の身体をぐらつかせるほどの勢いだった。そして、その突風は、無慈悲にも蟻地獄を吹き飛ばしてしまった。
目の前の光景が一変する。さっきまで蟻地獄だった場所は、ただの平らな砂地になっていた。蟻塚は跡形もなく消え、ウスバカゲロウの幼虫も、どこかに吹き飛ばされてしまっただろう。
呆然と立ち尽くす。
蟻地獄は、一瞬にして消え去った。まるで、最初から何もなかったかのように
僕は、消え去った蟻地獄の跡を見つめながら、静かに空を見上げた。
冷たい風が、再び頬を撫でる。
「なぁ、あれ、お前がやったのか?」
空に向かって、そう問いかけてみた。
返事は、もちろん、なかった。
ただ、森の木々が、風にざわめいているだけだった。