比較と苦悩の朝
「………。」
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、強く顔を照りつける。
手で遮っても、陽の光はまるですり抜けるように私の心を照らす。
もうとっくに閉じた心を、忘れたい過去と現実を無理やり突きつけるように。
仕事を辞めて、早▇年。
私は三姉妹の長女であるにも関わらず、無為に時間を過ごす日々が続いた。
職場で受けたパワハラによって心を砕かれた私は、もはや何の気力もなく仕事を辞めざるを得なかった。
二人の妹は既に結婚し、幸せな家庭を築いている。そんな二人とは対照的に、私は毎日激しい劣等感と自責の念に駆られては何をすればいいかも分からずにスマホを見る、寝る、起きる、スマホを見る…の繰り返し。
嗚呼、きっと妹達は幸せな日々を過ごしているんだろうな。それに比べて今の私ときたら、一体何なんだろう。どこで道を違えてしまったんだろう。そんな問答を繰り返しては、永遠に解けないパズルを眺めているようだった。
元より自己肯定感が低いまま育った私は、妹が優秀なだけあって何かと比較されながら生きてきた。
やがて自分の幸せの基準さえも、他者と比較しなければ生きていけない程に堕落していた。
"周りの目が気になる。"
"どう思われているのか気になる。"
"自分から声をかけられない。"
"嫌われるのが怖い。"
正直なところ、話してみると結構誰とでも明るく話せるし特別コミュ障って訳でもない。
ただ、疲れるだけ。
内心をひた隠しにしながら、上っ面だけの善人を演じて楽しいフリをするのが。
────ただ、疲れるだけだ。
そのくせ、他人と繋がっていないと寂しくて息苦しくなる。今がまさにその状態だ。
……我ながら、辟易してしまう。こんな致命的なジレンマを抱えながら、ストレス社会を生き続けろと言うのだから。そんなストレスを限界まで抱え続けた結果が、鬱病という名のしっぺ返しだったというのに。
元より、どう転んでも楽にはならない性質なのだろう。
「……生き辛いな、私」
そう呟いては重い身体を上げ、ベッドから地に足をつける。誰も聞く人のいない内心を吐露して、まるでそれを推進力とするかのように立ち上がった。
1日の始まり、朝という時間が最も嫌いだ。
勤めていた頃の、眩しいのに陰鬱な朝。今日は何をされるんだろうという不安に駆られる朝。辛くて、苦しくて、でも誰にも言えなくて涙を流す朝。
忘れたい過去は、いつも決まって朝が持ってくる。
良い朝なんて、今まで生きてきてほんの一度も経験したことはない。私にとっては全てが地獄でしかなかった。
暗い顔でテレビを付けてはみたが、目に映った人々の楽しそうな映像が───陰鬱な自分を揶揄しているようで───ただただ嫌でたまらなくて、咄嗟にテレビを消してリモコンをベッドに放り投げた。
かといってスマホを手に取り、ふとSNSを開くと妹や友達が楽しそうにしているのを見かけると恐ろしく陰鬱な気分になっては泡のように消えてしまいたくなる。
…そんな地獄のような惨憺とした心の中から溢れてくる呪いの言葉は、決まっていた。
"""あの子はあんなに楽しそうなのに、私は"""
自分と他人を比べても何も変わりはしないのに。
他人と同じことをしても自分が楽しいとは限らないのに。
何より────比較したところで、自分が変わる訳ではないのに。
───比較、比較、比較、比較!
くだらない杓子定規では、個々を比するべくもないのに!
ああ、何て───何てくだらない!
否、否!くだらないのは何よりも自分自身だろうに、何が!
一体何が私の、呻き叫ぶ私の心を殺しているのだ!
考えを張り巡らせれば巡らせるほど、どうにも醜悪な自分の姿だけが網膜に焼き付くようで。
何もかも嫌になって、全てを殺してしまいたくなる。目に映る全てのものが自分に対する呪いでしかない。
自らより出でて、自らを蝕む……これを病理と言わず何と形容すれば良いものか。
自分と他人が違うことなんて、分かっている。
他人を羨んでも何も変わらないことなど、分かっている。
どうにかしてこの薄暗い地獄から抜け出したくて、必死に手を伸ばして。
やっと掴んだその先で、友人や医者と名乗るそれは口を揃えて"他人と比べてはいけないよ"と言う。
「…うるさい。うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!」
お前に何が分かる。私の気持ちの何が分かる。
そんなことは分かりきっている。分かりきっているのだと口にして。
自分から手を伸ばしておいて、それでいて差し伸べられた手を振り払って。
ソラから地へと落ちるように。
落ちゆく先は、元いた地獄よりも更に深く。
誰も頼れない。誰も信じられない。誰も───
猜疑心が私をどんどん蝕んでいく。
"あなたはどうしたいの?"
───わからない。
"あなたはどうなりたいの?"
───わからない。
"あなたは"
"何が"
"したいの?"
────。
フラッシュバックする、過去の辛く苦しい記憶。
こんなにも惨憺として、苦しくて、悲しくて。
今にもバラバラになりそうな心で、私はどうして生きているんだろう。
震えた指と足先を見て、曇った瞳は既に涙すら流さなくなり。いつしか、誰もいない部屋の床に一人座り込んでいた。
こんな状態が、人間と呼べるのだろうか?
…自己問答を繰り返した先に行き着く場所はどこなんだろうか、と思考してみる。もはや考えるまでもないが、その答えは思うよりも身近に…すぐ側にあった。
もうほとんど入居者もいなくなった、廃墟寸前のボロボロの古いマンション。
退職と同時に家賃の安いところへ引っ越したが、わざわざ程よく自然もある見晴らしの良いこの地へ越したのは先を───つまり、"今"を見越してのことだった。
枕元に置かれた空の睡眠導入剤に一瞥をくれてから、重い足取りのままベランダへと向かう。
"昨日はダメだったけど、今日こそは"
ずっと嫌いだった朝に、恨み言を吐くように。
自分の最期を、見せつけてやるように。
今この刹那だけは、誰とも比較しない、誰にも邪魔されない、ただ一人の自分だけの───
窓を開けて、吹き抜ける風に身を委ねて。
とうの昔に死んだ心を後追いするかのように、自然と身体も動いていた。
不思議なことに気持ちはとても落ち着いていて、目に映る景色は鮮やかで…今まで感じたことのないような清々しさが、身を包んていく。
ああ、これが────
「いい、朝だ」