幕間 ある母娘の話
※「日本」のある母娘の話です。
本編とは直接的な関係はないお話です。
「――助かったの?」
草間幸恵は真っ白な天井を見上げてそう呟く。
彼女の最後の記憶は、下校中の娘とバスに乗って一緒に映画を見に行く最中で終わっている。
確か、あの時……。
幸恵は記憶をさかのぼっていく。
バスに乗って映画館のある大型ショッピングモールへ行こうとしていたのだ。そして、途中で買ってきた飴を娘に渡し、一緒に食べていた。
その後……。
「!? そうだ、確かバスジャックに遭って!」
幸恵は自分のお腹に手をやる。
そこには包帯の感触がある。どうやら一命はとりとめたようで、お腹には包帯がぐるぐると巻き付けられていた。
幸恵は周囲を見渡す。
病室。どこにでもあるような病室だった。
「――美菜!!」
ボーとしていた頭に急激に血が通い出したかのように、頭が回転し始める。
娘はどうなったのか。そもそもどれくらい時間が経過しているのか。あの事件は解決したのか……。
様々なことが急激に気になり始める。
「お母さん……?」
幸恵は、はっと病室の出入り口の方へ顔を向ける。
そこには、目を大きく見開いてこちらを見ている美菜の顔があった。
「お母さん!!」
美菜はその大きな瞳を一気に細めて、そこから湧き水の様に涙をあふれさせながら幸恵の方へ駆けだす。
いつものなら「病室では走ってはだめよ」「大きな声を出さないの!」と叱りつける所だが、今日だけはそんな言葉さえ頭には浮かばなかった。
ただ、娘が無事で、自分が無事で、こうやって再会できたことが嬉しくてたまらない。
美菜は勢いよく幸恵の胸の中に飛び込んできた。
「美菜……」
美菜は幸恵の胸の中で大きな声を上げながら泣いている。その声を聞きつけて、数人の看護師たちが駆けつけてきた。
幸恵は零れ落ちそうな涙を何とかこらえる。
流石に看護師の前で泣いている姿を見せたくないという見栄は何とか作用してくれようで、涙が零れ落ちることはなかった。
「良かったです。本当に危険な状態だったんですよ!?」
看護師の一人が幸恵にそう伝える。
幸恵も自分が生きていたことに、少し驚いていた。確かにあの時、男の凶器は幸恵のお腹に突き刺さっていた。記憶の中では大量の血が流れていたはず。
「私どれくらい気を失っていたんですか? あと、あの事件は?」
幸恵はその看護師にそう尋ねる。
「草間さんは二日間気を失っていました。」
二日。
想像していたよりは短いように思える。しかし、二日間目を覚まさなかった母を見て、美菜がどれだけ不安な思いをしたか、容易に想像がつく。
「事件については、犯人は捕まりました。奇跡的にバスの中のほとんどの乗客たちが逃げ出せたようで、犠牲者は数名だけです」
「あの状況から、よく……」
幸恵はあのバスの中の光景を思い出す。
お腹に刃物が刺さった時、甲高い女性の叫び声が耳に聞こえていた。そして、確か……。
「……確か、目の前に綺麗な顔をした少年が」
色々と思い出していく。
私が刺されたことに「恐怖」を感じながらも、その目には「覚悟」に近い感情が見て取れた。
「あのお兄ちゃん、私たちを助けてくれたの」
美菜は尚も目に涙を浮かべながらそう言う。
美菜の言葉の後に、看護師が詳しい事情を説明してくれる。
「ある少年が運転手にバスを止めるように指示したそうです。そして、美菜ちゃんを抑えていた男性から美菜ちゃんを助けたらしいです。ただ……。」
看護師はその後の言葉を飲み込む。そして、視線を一瞬、美菜の方へと向ける。
幸恵にはその視線の意味が理解できた。
「……美菜。お母さん喉が渇いちゃった。看護師さんと一緒にお水、買ってきてくれない?」
幸恵はまだ若そうな一人の看護師さんに頼んで、美菜を病室の外へと向かわせる。美菜は、看護師に連れられて病室を出ていく。
「……その子は?」
幸恵は美菜が病室を出ていったのを見送って、残った看護師にそう尋ねる。
看護師は幸恵の方へ一瞬視線を向けるが、すぐに少し俯いて、たった一言呟く。
「その少年は、……亡くなりました」
あの少年の名前は、神崎奏多。
どうやら近くの中学に通う男子生徒らしい。
ご両親は彼が幼い頃に亡くしており、唯一の親族である祖父母も最近亡くしたそうだ。あの日は、彼が入る予定の施設に初めて帰る日だったという。
――本当に不幸な少年だ。
聞くところによると、彼がバスジャックに遭うのはこれが初めてではないらしい。過去に2度バスジャックに遭遇し、彼の機転によって解決された事件も多いそう。
――彼は、本当に不幸な少年だ。
祖父母が亡くなり、普段明るい彼が一気に暗くなり、誰も話しかけられない状況になっていたそうだ。
身よりもいない彼にとって、それだけ祖父母の存在が大きかったのだろう。
――彼は、誰よりも不幸な少年だ。
それなのに、彼はあの極限状態で見ず知らずの誰かのために行動した。彼の行動によって助かった命は多い。かくいう私たちも、その中の一人だ。
看護師の話では、病院搬送があと2分遅れていれば死んでいたかもしれないという。美菜が助かったのだって、あの少年のおかげだ。
――彼は、本当に不幸な少年だ。
しかし、私は思う。
彼以上に勇敢で、彼以上に賢く、彼以上に強い人間はいないと。
だから私は今日も祈ります。
彼の来世に、幸多からんことを。
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