2話 奏多の過去
神崎奏多は、周囲の人間と比べ圧倒的に不幸な人間だった。
幼いころから彼の周囲では不運なことがよく起こった。
彼は物心のつく前に両親を亡くし、父方の祖父母宅で育てられた。
祖父母の家では愛情を注がれながら育てられていたが、金銭的な余裕はなかった。そのため、幼いころからわがままを言うこともなく、我慢強い人間として奏多は育っていた。
奏多自身は今の現状に全くの不満を感じることなどなく、祖父たちとは仲良く暮らしていた。
しかし、彼の不幸はその環境だけには留まらなかった。
彼は、日常生活のなかでの些細な不運の数々から、大きな事故に遭ってしまうことも多々あった。
銀行強盗やバスジャックなどの現場に居合わせることも多く、彼が外を歩けば彼の周りで何かしらの事件が起きる。
ただ、幼いころからそういった不幸に見舞われることが多かった奏多は、いつからかそれらを大した不幸だと感じなくなり、そういった場面に直面した時には、どのように効率よく事を収めるかを考え始め、事件を解決してしまうことすらもあった。
しかし、彼にとって最もショッキングなことが起きてしまった。
それは、これまで大事に育ててくれた祖父母が交通事故によって亡くなったことだった。
◇
「──神崎、今は辛いかもしれないが、生きていれば必ずいいことがある!」
無機質な目をした奏多に、担任の先生はそう言って励まそうとする。
先生の言葉は、端から聞けば実に耳当たりのいいものであったが、奏多の胸には刺さらないし、頭にも全く入っていなかった。
奏多の頭のなかは真っ白になっていた。
それはまるで真っ白な何かが頭の中を占領していて、その得体のしれない何かを脳が頑張って処理しているような、そんな感覚だった。そのため、他の何かが入ってくることはないし、奏多自身も他に注意を向けることはできなかった。
そんな奏多の雰囲気を感じ取ったからか、先生は話もそこそこに生徒指導室から出ていった。奏多も先生に対して悪いとは感じていたが、今は誰とも会話する気分にはなれないでいた。
*****
「──じいちゃん! 見て見て!」
ぺたぺたと可愛らしい足音。
小さく愛らしい手が老人の腕を引き、満面の笑みを浮かべた少年は、自分の描いた絵のほうへ走る。
「こらこら、そんなに引っ張らんでも……」
奏多の祖父、源三は苦笑いを浮かべながら奏多に引っ張られる。
両親を早くに亡くした奏多だったが、それは物心つく前の出来事であったため、周囲の子供たちと同じように無邪気に成長していた。そのことが、源三にとっては最も嬉しいことだった。
変に捻くれたところもなく、素直で無邪気な孫をしっかりとサポートしてやろうと、源三は息子たちの遺影の前で誓ったのだ。
源三は、奏多に連れられてリビングのテーブルまでたどり着いた。
その光景を見た祖母、好子は少し微笑んで、また奏多の描いた絵に視線を戻す。
帰ってきてすぐに呼びに来たのであろうか、保育園の荷物や奏多のカバンなどが周囲に置かれている。
「じいちゃん! これ!」
そう言って、満面の笑みを浮かべた奏多は自分の描いた絵を指さす。
そこにあった絵は5歳児が描いたとは到底思えないようなものだった。
絵を描くのに使っているのは市販のクレヨンだが、様々な色のクレヨンを器用に使ったその絵は、孫だという贔屓目なしにしても、本当に、本当に綺麗だった。
源三はその絵を見て微笑む。
孫の成長が見られたことも嬉しかったが、何よりその絵に描かれている源三と好子、そして二人と手を繋ぎ笑顔を浮かべる奏多は、本当の親子のようだったからだ。
「こりゃあ、上手に描けたなぁ」
源三はそう言って、奏多の頭をなでた。
奏多は嬉しそうに目を細める。可愛らしい笑顔は、幼い子供のそれだった。
小学生になった奏多はどんどん成長していく。
背や体格なども周囲の子供より大きいくらいだったが、何より精神的に大人への階段を着実に登っていく。しかし、根本的なところは変わらず、未だ可愛い孫のままだ。
「おじいちゃん! 行ってくるね!」
そう言って、奏多は外へ出かける。
小学生になった奏多は、よく図書館へ行くようになった。地頭がいいからか難しい漢字も難なく読むことができるし、最近は英語の本も読めるようになったらしく、奏多は友達との外遊びと図書館での読書とを日替わりで行っているようだ。
図書館に行く日、奏多は大きな鞄にたくさんの本を詰めて帰ってくる。
そして、次に図書館に行く日にはそれを返却して、また新しい本をたくさん詰めて帰ってくるのだ。真面目だが、本当に変わった子だ。
そんなまったく手のかからない優秀な奏多だったが、源三には少し心配な部分もあった。それは、不幸な目に遭うことが多いというものだった。
図書館に行くために買ってあげた自転車は、特に無理な操縦をしたわけでもないのに、何度もパンクしてしまう。そのうち奏多は自転車には乗らなくなり、バスで図書館に行くようになった。
しかし、次はそのバスで二度バスジャックに巻き込まれた。奏多は賢く、買い与えていた携帯電話で、犯人にばれないように警察へ通報していたようで、二回とも無事に帰ってきたが、その話を聞いた時は本当に生きた心地がしなかった。
それからというもの、たくさんの本を詰めた大きな鞄を担いで、長い時間をかけて図書館まで歩いて行くようになった。
中学生になると、周囲も奏多の才能に気が付くようになる。
学力テストでは常にトップであり、運動部には所属していなかったが、どの競技でも非凡な才能を発揮していた。
しかし、それを鼻にかけたような態度は一切見せず、時折自分の才能を理解していないのではないかと感じることもあった。
確かに、ただ才能があるだけの人間でないことなど、近くで奏多の努力を見てきた源三には分かっているが、それを除いてなお彼の才能は飛び抜けていた。
これからどんな道を歩いていくのか。どんな人間に成長するのか。
源三は、これからどんどん大きくなっていく奏多の将来を楽しみに思っていた。
*****
奏多はようやく重い腰を上げた。そして、生徒指導室を出て下駄箱のほうへ歩いていく。
放課後の校舎内にはほとんど生徒は残っておらず、窓の外からは運動部の掛け声が響き渡っていた。ちらほら残っていた生徒たちも、みんな笑顔で談笑しており、活気に満ちていた。
奏多は、自分だけがこの世界から隔離されているような感覚を覚える。
別に奏多に友達がいないわけではなかったが、幼くして両親を亡くし、唯一の親族である祖父母までも亡くしてしまった奏多に、周囲の者たちはどう接していいのかと様子を窺っていたのだ。
しかし、結果的に奏多はその状況に疎外感を感じざるを得なかった。
奏多は下駄箱で上履きから靴に履き替え、ぼーっとした頭で帰路につく。校門を出るまでは二年間通った道であるが、校門を出ると今までとは異なる道を進むことになる。
分かってはいたが、そのことがまた彼に現実を突きつけるのだ。
奏多の通う中学校は、都心から少し離れているとはいえ、それなりに栄えた場所にあった。
初めての帰路は、中学生にとってかなり不安に感じるものだが、奏多はぼーっとしていたため、そんな不安を感じる余裕すらなかった。
しかし、それこそが奏多にとって人生一番の転機となる。
「──おらぁっ! 手ぇ挙げろぉ!!」
突然、一人の乗客が声を荒げた。
奏多にとって、この展開は何度か経験していることであったが、現状を理解するのに少し時間を要してしまった。そして、その少しの時間が命取りになる。
奏多が携帯に手を伸ばそうとした瞬間、奏多の後ろにいた女の子が泣き出してしまったのだ。
「おい、ガキ! 静かにしろ!」
そう言って男はこちらに視線を向けた。そのため、奏多は行動を起こすことができなくなった。
しまった、と思ったのも束の間。声を荒げた男とは別の男が少女を捕まえる。
このバスジャックは単独犯ではなく、複数人による犯行であったのだ。普段の奏多であったなら、事件が起こる前に彼らの不審な動きを察知し、いち早く行動を起こすことができただろう。
「ん゛~!?」
男は少女の口をふさぎ、前の方に移動する。
──まずい、まずい、まずい……。
奏多は、後手後手になってしまった現状に焦燥感を覚える。
いつもの彼なら、この現状でも何かしらの行動を取ることができただろうが、今の奏多は焦るだけで的確な解決策を導き出せなかった。そして、現状はどんどん悪くなっていく。
「美菜ぁ!!」
母親と思われる女性が声を上げた。
声を荒げたほうの男は、ぎろっとその女性を睨みつける。男は気が短いのだろう、すぐにその女性のほうへと歩いていく。
──グサッ!!
奏多は男の行動に目を見開いた。男はその女性の腹部に刃物を突き刺したのだ。
さすがの奏多も予想だにしなかった。こんなことで、人は人を刺してしまうだなんて、奏多には考えられないことだった。
色々な犯罪現場に居合わせた奏多であったが、目の前で人が刺されるのを初めて見た。
「きゃぁあああー!!!」
近くの女性がそれを見て絶叫する。
──さすがにこれはまずい!
奏多は混乱に乗じて前へ移動し、運転席の近くまできた。
男はまた「しずかにしろー!!」と大声を上げていて、奏多の動きには気づいていない。
「運転手さん! 止めて!」
奏多は運転手にそう指示をする。緊張して体に力が入っている運転手は指示に従ってにブレーキを踏んだ。
バスが止まる瞬間、奏多は少女を捕まえている男の後首に手刀を入れる。
男は一瞬で意識を刈り取られ、その場に倒れこむ。腕を握られていた手に力が亡くなり、突然解放されたことに少女は驚いていたようだった。
男が車床に倒れこんだのと同時に、プシューっという音とともにバスの扉が開く。
「バスから出ろー!!」
男が体勢を崩しているのを横目に確認しつつ、奏多はありったけの大声でそう叫ぶ。
混乱していた乗客たちも、バスの扉が既に開いていることに気が付き、我先にとバスから出ていく。
奏多が男に視線を移すと、そこには死体らしきものがいくつか転がっていたおり、それを生み出したと思われる男は、自分を睨みつけ何かを叫んでいる。
奏多の後ろには、未だ逃げ惑う乗客がいる。
彼らがいる以上、バスの外に逃げることは叶わないだろう。何より男のターゲットは既に自分になっている。
奏多は覚悟を決めて目を閉ざした。