冬の谷底から
夕焼け色に染まった冬の山々に、ある少女の名を呼ぶ2人の男の声がこだまする。力なく発せられるその声には、既に諦めの色が見え始めていた。
「これ以上は無理だ。すぐに暗くなる。早いとこ皆と合流しよう」
先を歩く老人が、額に滲んだ汗を拭いながら言った。東の空では、真っ黒な夕闇が白銀の山々を呑み込み始めている。
「これだけ探しても見つからないなんて、やっぱり、噂は本当なのかもしれん」
老人が言うと、彼の後ろにいた目付きの悪い青年が噴き出す様にして笑った。
「まさか、フクロの仕業だってか?」
小馬鹿にしたように笑う青年に、老人は「軽率にその名を出すな」と人差し指を突き立てたが、青年は「あんなもの年寄りの作り話だ」と言って聞く耳を持たない。
「どうせ獣に襲われたか、どっかの沢に落ちてんだよ」
「それにしたって、もう三人目だぞ。身体の弱い子供ばかりが何の痕跡も残さず消えちまうなんて……」
村の北側に聳える山で地滑りが起きてから、村の子供が姿を消すようになった。何の痕跡も残さず忽然と姿を消すことから、一部の村人の間では、山に住む「フクロ」の仕業ではないかと囁かれていた。古くからこの村に伝わる人型の化け物だ。ぼろ布でできた袋を頭に被り、気に入った子供を見付けると拐って仲間にするという。山にはフクロを祀る祠があるという噂もあったが、その化け物の正体について口にする者は誰一人としていなかった。
「ある意味助かる話じゃないか。居ても無駄に飯が減るだけだし。案外、村の誰かがこっそり捨ててるのかもな」
「やめないか。縁起でもない」
二人はそんな言葉を交わしながら、夕陽に染まる雪の上を歩いていたが、ふと、前方に奇妙な影を見付けて立ち止まった。
薄暗がりにぼんやりと立つそれは、人間にしてはやけにひょろ長く、枯れ木にしては不恰好だったが、頭らしき場所に被さったボロ布が全てを物語っていた。
「フクロだ……あいつ、言葉を喋ってやがる」
震える声で青年が言うと、化け物は奇妙な鳴き声を山々に轟かせ、ぎこちない足取りで二人の方へにじり寄ってきた。
「言葉? 一体何を言ってる」
老人の耳には人の言葉など何一つ聞こえていなかった。一方、青年は酷く取り乱した様子で走り出した。
「違う! 本気で言ったんじゃない」
カンジキを履いた足が縺れ、青年は体勢を崩して雪の上に倒れこんだ。その瞬間、彼の口から真っ赤な血が勢い良く噴き出したかと思うと、全身のあらゆる箇所から湧き水のようにどくどくと溢れ出し、青年が身を捩る度にまっさらな雪の上に飛び散った。
青年は雪の上で溺れた子供の様にもがいた。雪面にできた血溜まりからは湯気が立ち上り、やがて全身の血を出し尽くしてしまうと、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。
そのあまりの異様さに老人は言葉を失い、その場に尻餅をついてガタガタと震えることしか出来ずにいた。化け物はそんな老人の事などお構いなしに、真っ赤に濡れそぼった青年の首根っこを鷲掴むと、夕闇の中へと姿を消した。
その後、村では総力をあげて化け物狩りが行われた。村中の猟師達が猟銃片手に犬を率いて方々を探しまわったのだ。しかし「フクロ」が再び姿を現すことはなく、そうこうしている内に四人目の失踪者がでた。
一部の人間は老人が見たという化け物の存在に疑いを持つようになり始め、老人が子供達を拐い、真実を突き止めた青年を殺したのではないかという話まで出始めた。この話を多くの村人が信じた為、終いには村長が老人を蔵の中に監禁し、事態は一件落着かと思われた。
だが、そんなことで事態が収まる筈もなく、ついに五人目が姿を消し、探しに行った家族が血溜まりのみ残された状態で見つかった。誰もが底知れぬ恐怖に呑まれ混乱する中、老人は村長の目の前で懐に隠し持っていた小刀を取り出すと、「全員祟られろ」と忌言を残し、自らの喉笛を掻き切ってしまった。
その日の晩、村長は老人の遺体をこっそりと蔵から運び出すと、雪の下に埋めた。更なる混乱を招くことだけは避けたかったのだ。村人達には騒ぎに乗じて逃げたとだけ伝え、考えの末に、村の外れに住む白亥千歳という女を呼ぶことにした。千歳は、度々見えない何かと言葉を交わすことから周囲に気味悪がられ、村八分同然の扱いを受けている奇妙な女だった。
彼女はその存在を村人達に知らされることなく、ひっそりと村長の元に招かれた。
「フクロは、確かに存在します。その姿や声は限られた者にしか認識できませんが」
千歳は囁くような冷たい声で断言した。血色の悪い肌に、腰まで伸びた漆黒の髪。瞳は灰色に濁っている。まだ若い娘のはずだが、歳相応の生気というものが全く感じられない。
「恐らく、原因は秋に北の山で起った地滑りです。その際に、何かが壊れた。何か神聖なものが……」
全てを見通したかのような千歳の言葉に、村長は北の山にあるという祠の話をすることにした。
「北の山に祠があるとかなんとか、死んだ婆さんがよく言っていたが、誰も直接見た者はない。あの山は特別険しくて、カモシカですら谷底へ落ちると言われる程だ。とてもじゃないが登ることなんて……」
その昔、フクロを祭る為に作られたというが、その存在を直接確認した者はない。故に、単なる噂話として認知されるに留まっていたのだった。
村長の言葉に、千歳は虚空を見つめたまま小さな声で言う。
「毎晩、山の方から大勢の泣き声が聞こえます。祠を崩されてしまったが為に、この村の罪の記憶を思い出してしまった。寂しくて、悔しくて、仕方がないのでしょう」
「何を思い出したって?」
「子供や老人、病人やはみ出し者。幾人もの呻きが合わさって、私の中になだれ込んできます。かつてこの地では、村のためという名目で多くの者が殺められたのかもしれません。私の思うに、あれはそんな者達のなれの果てです。このまま放っておけば、子供達は戻って来ないでしょう。何とかして、祠を元に戻せれば良いのですが」
涙の膜に覆われた千歳の瞳に、囲炉裏の赤い炎が映り込んでゆらゆらと揺れる。村長は頭を掻き毟ると、「そんなことが出来るか」と彼女に食って掛かった。
「全部先人達のやった事だ。俺たちは何もしちゃいない。全部済んだことなんだぞ」
「そうだったとしても、あれには通じないのです」
「頼む。何とかしてくれ。拐われた子供らの中には俺の孫娘もいるんだ。病弱だが大事な大事な孫だ。村人は皆あんたを気味悪がっているが、うまくすればその誤解も解ける筈だ。あんただって、次に疑われるのは嫌だろう。化け物をけしかけたなんて噂が出たらどうするつもりだ」
村長が声を荒げると、千歳は小さく吐息を漏らした。
「わかりました。試みてはみますが……その代わり、絶対に付いてこないと約束して下さい」
千歳が山へ向かったのは、翌日の満月の夜だった。彼女は灯り一つ持たず、たった独りで山中へ足を踏み入れた。
半刻ほど歩き続け、木々の開けた崖の上までやって来ると、白樺の陰に気配を感じた。
「出ておいで」
村人がどれだけ探し回っても見付けられなかった化け物は、千歳の一言ですぐに姿を現した。痩せこけた身体に、ナナフシの様な細長い手足、ボロ布を被せられた頭。表情などまるで読み取れない化け物が、木の陰からぬっと身を乗り出している。
「悪気がないのはわかってる。子供達を村へ返しなさい。あなたにあの子達は守れないし、もう守る必要もないのだから」
千歳がそう言ってフクロに歩み寄ろうとした時、突如鼓膜を裂く様な銃声が山々にこだました。フクロの頭は跡形もなく消し飛び、冷たい雪の上に散った。二本の細腕が、何かを探る様に虚空を撫でる。しかし何も掴めぬまま、化け物の身体は雪面に崩れ落ち、薄氷の様に砕け散った。
「馬鹿げた真似を」
振り返った千歳の視線の先に、猟銃を構えた村長の姿があった。
「どのみち生かしておくことなんて出来やしない。孫を拐った報いは受けてもらう」
「フクロは死んでなんかいない。姿を消しただけだ。こうなった以上、もうあれは私の言葉にも耳を貸すまい」
微かな怒気を含んだ千歳の口調に、村長は「いい加減な事を抜かすな」と憤り、銃口を向けた。彼はどう見ても冷静には見えなかったが、千歳は全く怯むことなく話し続けた。
「全部お前のやった事だ。私は何もしていない。このままではお前のせいで村が滅ぶ。その前に、本当のことを――」
言い終わらない内に千歳の声は銃声にかき消され、冷たい弾丸が彼女の腹を容赦なく突き破った。長い長い反響の末に、辺りは死んだような静けさに包まれた。
村長は暫くの間呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがて千歳を崖のふちまで引きずっていき、谷底へ落そうと足を掛けた。
すると、足元から死んだと思っていた千歳の声がした。
「声がする。……そうか。この場所で、皆は――」
彼女は長い髪の間から血走った目玉を覗かせると、虫のように雪面を這いながら、自らの意思で谷底へと落ちていった。
村長は急に恐ろしくなり、直ぐ様村へと逃げ帰った。しかし、寝静まった筈の村人達が騒がしくしている事に気付き、咄嗟に物陰に身を屈めた。
何の騒ぎかは考えずとも理解できた。雪の下に埋めた死体がバレたのだ。何者かが掘り返したのか、それとも誰かが見ていたのか。ふと、千歳の青白い顔が脳裏に過った。
――何とかしなくては。
そう思い立ち上がった彼の背後には、農具を持った村人達がのっぺりとした表情を浮かべて立っていた。
この夜を境に、フクロの姿を見た者はない。不思議なことに、失踪した子供達は翌朝に全員が村へと戻り、皆一様に千歳の名を口にした。
ただ、その後村では一切の作物が育たなくなり、獣達も忽然と山から姿を消した。ついには山全体が枯れ山となり、村人は一人残らずこの地を去ることを余儀なくされた。後に残されたのは、誰も近寄らない死んだ土地と、谷底へ落ちて化け物になった女の噂……
それだけだった。