ビューティフルエンド
彼女は天使だ。妖精だ。女神だ。いや、僕を狂わせるという意味においては、悪魔だ。この小悪魔め! めっ!
愛らしい笑顔。くるくると一秒ごとに切りかわる、気まぐれで変幻自在な表情。ムッとした顔もまたいいのだ。頬をふくらませる姿はまるでリスのよう。子リスちゃん。めっ!
目に入れても痛くない。なんてじいさんばあさんが孫に使う形容があるけれど、僕もいけるよこれ。孫でもなんでもないけれど、いけるよこれ。どんなに望んでも一重のままだったほっそい糸くずみたいな目を見開いて、そのままがっつりまぶたの内側に閉じこめちゃえるくらいにいけるともこれ。食べちゃうぞ。口じゃなくて目だけど、食べちゃうぞ。めっ!
めっ! めっ! と何度も心の中だけで繰りかえしていたつもりなのに、いつの間にかおしゃべりに熱中していたママたちがじっとりと僕をにらみつけている。「めっ! めっ!」と一人にやけながら声に出す成人男性は、さぞかし目を引くだろう。
あわてて僕はその場を離れる。と見せかけて振りかえる。まだママたちは僕を警戒している。ママたちの視界から外れるように、横断歩道を渡り、交差点のコンビニに入る。と見せかけて店内を素通りして、逆側の出入口からすばやく脱出する。そしてぐるりと外側を回り、さっきの交差点に戻り、電柱の陰に身を潜める。ママたちはまたおしゃべりに戻っている。
移り気なママたちよりも、僕のほうがずっと彼女を見ている。彼女は小さなピンク色の自転車にまたがって、退屈なおしゃべりが終わるのを辛抱強く待っている。ママたちの足を蹴ったり、服の裾をびよんびよんと伸ばしたり、不機嫌を隠すつもりはないみたいだけど、それでもその場を動かないでいられる彼女はとても大人。下手な大人よりずっと大人。
彼女の髪はぺたりと濡れていて、いつものふわふわした森のきのこみたいなボリュームは見当たらない。それもそのはず。彼女はスイミングスクールを終えたばかりなのだ。ママたちはいつも彼女を迎えにきて、そのついでに魚っ子スイミングスクールの駐輪場でたむろして、小一時間の井戸端会議を始める。魚っ子というネーミングセンスはどうかと思うし、講師の女はつんけんして嫌な感じだし、受付の学生アルバイトはやる気がないしの三重苦だけれど、それでも彼女は真面目に毎週水曜日の夕方と土曜日の午前に通っている。
僕はまだ彼女が泳いでいるところを見たことがない。成人の部に入会しようかとも一瞬考えたけれど、小学生と時間がかぶることはないようだし、そもそもカナヅチなので早々にあきらめた。おぼれ、もがき苦しむ姿を彼女にだけは見られたくない。恥ずかしい。
だから目を強く閉じて、彼女が泳いでいるところを想像する。小麦色に焼けた腕や足を目いっぱい動かして、覚えたての息継ぎを必死に繰りかえし、水しぶきを派手にあげながらゆっくり進んでいく。水着は多分スクール水着だろう。肩まで伸びた髪はきちんと水色のキャップにしまって、ちょっと高めの水中メガネをかけて、何度も力強く泳いでいく。
僕はその風貌よりも、泳いだ距離よりも、練習の積み重ねを証明している彼女の成長が誇らしい。彼女の頑張りは純粋そのもので、混じり気が一切ない。塩素まみれのプールの水よりずっと透きとおっていて美しい。そうやって前よりも少しずつ、遠ざかっていく彼女が途方もなく尊い。
あ! 彼女がついにママにアイスをねだりだした! 待ちくたびれちゃったのかな。渋るママ。ぐずる彼女。待ってあげてるんだから、自動販売機のアイスくらいいいよね。ああ! 僕が買ってあげたいなあ! 今日も無事に泳ぎきった彼女に! ちゃんとママを待っている彼女に! ごほうびとしていいよね。
かわいいおねだりにとうとうママも根負けしたようで、彼女はうれしそうに目移りしている。キラキラと輝く黒目がちな瞳。こぼれる白い歯。乳歯が抜けた隙間。きりっと黒い眉。あどけない笑顔が選ぶのは、いったい何味だろう。バニラかな。チョコかな。抹茶かな。
彼女が小さく跳びはねながらかぶりつくそれは、奇妙な色をしていた。青と黄色と赤が複雑にマーブル模様になっている、およそ食べ物とは思えない色。この世のものとは思えない色。
毒々しさにはらはらとしたけれど、きゃっきゃっと彼女の笑い声が聞こえてきて、結局よかったねえ、と目を細めずにはいられない。小さい口でこまめに食べすすめていっても、太陽のいたずらで彼女の手元にアイスがみるみる溶けだしていく。べとべとになった手のひらを広げて、しかめ面をする彼女。でも、それをママに見せるとしかめ面は移っていったようで、彼女はまた無邪気な笑顔に変わった。彼女の感情は忙しい。僕もついていくのに精いっぱい。
時間をたっぷりかけてアイスを食べきって、ようやくママたちのおしゃべりも終わる。バイバイと手を振って、彼女は家路をたどる。自転車を漕がずに、サドルをまたいで自分の足でちょこちょこ歩く。ママの歩く速度に合わせているつもりで、本当はママが彼女の歩幅に合わせている。
彼女は気がつかない。けれど、優しい子であることは間違いない。もともと小さな背中が、飛蚊症の黒い点みたいにどんどんぼやけて小さくなっていく。
見えなくなるまで見送って、今度こそコンビニに入る。彼女のお気には召さないであろう、ラムレーズンのアイスを買って家に帰った。
まったく有意義な土曜日だった。
○
「私、昔からさ、学校の先生とか好きだったじゃん」
「ごめん。俺、それ知らない」
素直に詫びると、栄子は「えー、マジで。言わなきゃよかったー」とのけぞる。三十も半ばに差しかかったというのに、大げさなリアクションは若々しい。いや、逆に古くささを強調してしまうのだろうか。
栄子は「まあいいけど」とすぐに気を取り直す。オープンテラスでも、もう夏の名残は気にならない。秋のうろこ雲がうっすらとまだらに広がっている。ひんやりとした風が、ほんの少し居座ろうとする熱をさらりと奪いさっていく。「これ、めっちゃおいしい」とフレーバーティーを絶賛する栄子は、秋の空よりも移り気だ。そこが栄子のいいところでもある。
「でさ、ぶっちゃけ私、高校んときとか年上しか見えてなかったわけよ」
「でも、同級生と付き合ってなかったっけ? 四組の鈴木とか」
「あれはカモフラージュだったわけよ」
どや顔で迫ってくるのは、昔の秘密を明かすだけではなく、カモフラージュという横文字を使ってみせたぞ、という自慢も入っているだろう。
「ほんとはさ……あれよ、あれ。サトっちが好きだったわけ」
「へー」
一大告白をトリビアみたいに扱われたのが不服なのか、栄子はムキになって「え? リアクション薄くない?」とかみついてくる。おまえのようなリアクションは、こんなオープンテラスだとなかなかハードルが高いぞ。
「あれだよ? サトっちだよ? あ、あんたあっちと勘違いしてる? 一個上のサトシじゃないよ? あっち。現国の佐藤だよ」
「わかってるよ」
「わかってるくせに、なんでそんなテンション低いわけ? これ、美子とかに言ったらめちゃくちゃ盛りあがったんだけど。ありえなーい、超枯れ専じゃんって」
「別に年齢なんか関係ないじゃん」
栄子としゃべっていると、つられて僕まで若ぶった話し方になってしまう。
「マジでそう思ってんの?」
「マジでそう思ってるよ」
「あれじゃん。サトっちってあんとき五十ちょい……五十一だよ! で、私は十七歳じゃん。ぴちぴちのセブンティーンじゃん。もう犯罪じゃん。禁じられた恋じゃん」
「先生と生徒は難しいところもあるけど」
「そうじゃなくて、そっちじゃなくて、年齢のほう。年の差やばいじゃん」
そっちはいいのかよ。と、まさしく高校時代の僕が憑依したかのようなツッコみを入れそうになったけれど、ぐっと堪えた。栄子相手にいちいち茶々を入れていたら、話がいつまでたっても進まない。なにせこの高校時代のエピソードは今日の本題ではない。「年の差ねえ」とあいまいににごしておく。
「だってさ、うちの親よりも年上だったもんね、あんとき。何度もありえないありえないって思ったけどさ、やっぱ無意識に目で追っちゃうんだよね……あ、サトっち、ネクタイ曲がってんなーとか、そのシャツの色はないわーとか。寝癖ついてんなー、加齢臭すんなー、男子になめられてんなー、字きれいだなー……って」
うっとりとした遠い目で、栄子はあの頃に勝手に帰ってしまっている。恋する乙女か。頬を赤らめながら、ストローで息をふきこんでぶくぶくさせている。子どもか。
「でも、サトっちって奥さんいたよね」
「いたけどさー……え、なに。そこは水差すの?」
そこが一番大事なんじゃ、と反論しようとして、栄子の目が恨みがましく殺気を帯びていたのでやめる。人によってなにが禁忌に当たるかは違うのだ。
「懐かしいなー、サトっち。え、今いくつになるわけ? 六十……八! マジで! 実質、七十じゃん! 古希じゃん! おじいちゃんじゃん!」
「俺たちもそれだけ年取ってるからね」
「いやー……でもショックだわー。そっかー、とうに定年超えてんだー。もう先生辞めてるかなー」
知らん、とかぶりを振った。正直、サトっちの顔さえおぼろげだ。栄子のような特別な想いを秘めていなければ、ごくごく平凡なおっさんだった。覚えている人間のほうが少ないんじゃないだろうか。
栄子は思い出を数珠つなぎにして、どんどん一人タイムスリップを深めていく。過去は大事だけれど、今を生きろよ。催眠術を解く術師のように手をたたき、僕は栄子の目を覚まさせた。
「なによ。人がせっかく甘い思い出にひたって」
「サトっちはもういいよ」
おまけに手をひらひらと振ってやると、「あー」と間抜けな声を上げて、栄子はようやく本来の目的を思い出したようだった。
「ごめんごめん。昔話って怖いわー。いくらでもそれで時間つぶせるもん」
栄子はからからと笑ったけれど、僕は案外恐ろしいことをさらりと言うなこいつ、と目を丸くした。
おかわり自由のコーヒーを店員に頼むと、氷をストローでつつきながら「私もコーヒーにすればよかった」と文句を言われた。栄子は氷水をずずずず、と吸いあげる。
「私さ、やっぱ枯れ専なんだよね。生まれつき、筋金入りの」
枯れ専に筋金入りという形容詞を添えるところが、栄子独特のセンスだろう。筋金入りならいいじゃん、とあしらいたくなるが、栄子は前のめりで真剣な面持ちをしている。
「最近さ、よく店に来る人がいるんだ」
栄子はアパレルショップの店員だ。二十代後半から四十代をターゲットにした、清楚でエレガントな服飾品を販売している、そこそこ名の知れたブランドである。高校卒業後からアパレル業界に身を置いて売り場を転々としてきた栄子は、さっさと結婚して家庭に入るつもりだったのに予定が狂い、三十半ばになっても立ち仕事を続けている。最近は会うたびに「腰が痛い」と愚痴っている。相当、大変な仕事だろうとは思う。しかし、愚痴る反面、栄子はその生活に不満を抱いているようにも見えなかった。
「山田さんっていうんだけどさ」
「山田さんは男性?」
「当たり前じゃん。この流れだったら恋愛相談に決まってるでしょ」
「それはいろいろと偏見があるなあ」
「そっかー、ごめん。でも私のこと知ってるでしょ。察してよ」
「いや、だって店に来るってお客さんかなって思って」
「お客さんだよ」
「でも、栄子の店ってレディースでしょ」
「あー、それも偏見じゃないのー」
「ああ、ごめん」
「まあいいよ。もー、いちいち偏見とか揚げ足取ってたら話進まないから。一旦スルーしよ」
またこいつ、さらりと核心を突くな。これまた本人が無自覚なのが恐ろしい。僕の中だけで勝手に提唱している栄子最強説は健在だ。
「私もさ、最初は思ったよ。付き添いでもなんでもないおじさんが、なんでうちの店に来るわけって。見た目は普通だし、清潔感ある格好だったし、渋くてダンディだけど怪しいなーって」
おおいに栄子フィルターがかかっているであろう人物像だが、話を聞いていくうちに僕の脳内でもナイスミドルが微笑んでいた。痩せた体が貧相に見えないサイジングのシャツ(おそらくオーダーメイド)にスラックス、細いフレームの老眼鏡をかけていて、上品にひげをたくわえている。物腰は柔らかで、初老の余裕と色気を醸しだす。そんな素敵な山田さんを思い描く。
「かっこいい人じゃん」
「でしょ! やっぱりわかってくれたー。でもさ、何度も店に来るくせして、ウィンドウショッピングオンリーだから、勇気出して声かけてみたわけ。まあ、一応店員だし」
一応じゃなくて完全に店員だろう。そんな店員の栄子はある日「なにかお探しですか」と、ついに店員らしく尋ねてみたらしい。
「ちょっとした羽織物を……あ、私が着用するわけではないんです、念のため」
急に声を低くした栄子が山田さんのまねをしているのはわかったが、唐突すぎて思わず「は?」と聞きかえさずにはいられなかった。そんな僕を、栄子は華麗にスルーする。
「羽織物ってやばくない? そんな言い回し、めったに聞かないし。しかもわざわざ丁寧に自分が着るわけじゃないって言い訳するとか……その時点で心つかまれてたんだと思うわ」
ううむ、理解不能。けれど、他人の色恋沙汰なんてほとんど理解不能だ。一つとて同じものはない。違うということを大前提にして、それでも他人の同意を求めている。ううむ、栄子のようにさらりと名言を口にしたいのだけれど、やっぱり恥ずかしくてはばかられる。
「奥様にですか、って聞いたの。そしたらちょっと照れくさそうにはにかんでさ……娘ですって言うの! そのはにかみがさ! もー反則なわけ! かわいいのよ!」
「え、娘さん、いくつなんだろう」
「えー、いくつって言ってたかな。そこはあんま興味ないから忘れちゃった。多分うちらよりちょっと下くらいじゃない」
興味持てよ、客だろ。しかし、ということは。
「じゃあ山田さんって、結構なお年?」
「うん……そうなんだよね。六十四って言ってた。もうすぐ定年迎えるから、その前に娘にプレゼントしたいんだってさ。普通は祝われる側なのに、今までありがとうってなにか贈りたいんだって。もうなんかその発想がさ、かっこいいなって思ったんだよね」
「それは確かにかっこいい」
「でしょ! でもさ‥…六十四なんだよね。三十も上。だから、サトっちのこと思い出した。あー、私またすごい人好きになっちゃったなーって」
「奥さんいるしね」
「そこ、やたら気にするよね。それはどうでもいいんだってば」
二杯目のコーヒーは煮詰まっているのか、やたらと苦かった。角砂糖を落としても、苦いものは苦いままだ。水を口に含むと甘味を感じるくらいに、コーヒーはただただ苦い。
「娘さんの好きな色とか普段の服装とか聞いてさ、写真も見せてもらったり。最初はずーっと照れてたけど、話してくうちにどんどん笑ってくれるようになって……もー、どんどん好きになっちゃってさ……服買っちゃったら終わりだから、なんとか引きのばして、ほかの客は無視して」
「いや、無視するなよ」
「でもさ、やっぱいつか終わりはくるわけよ。昨日、ついに山田さんのお眼鏡にかなうものを見繕ってさ、いい買い物ができたよ、ありがとうって……純粋に店員としてもうれしかった。私、いい仕事できたなーって」
「ほかの客、無視してるけど」
「そしたらさ! ここまでとことん付き合ってくれたんだから、お礼がしたいって言ってくれて! でもなにがいいかな、かえってご迷惑かな、とか紳士なこと言うから、もー後先考えずに食事に行きたいですってお願いしたの! そしたら困ったように笑って、食べたいものを考えておいてください……だって! 大人! もー超大人!」
栄子に無視された僕はコーヒーカップ片手に、なにか甘いものが食べたいなあと思った。このまえ買ったラムレーズンのアイスは当たりだった。あれならコーヒーより紅茶のほうが合うか。彼女が選んだ、あのおどろおどろしい色のアイスは、いったいなにと合うんだろう。彼女なら、さらにへんてこな色のジュースを選びそうだ。
「……ちょっと無視しないでよ」
栄子のドスの利いた声で、僕の意識は魚っ子スイミングスクールからオープンテラスへと引きもどされた。
「しかも、なににやにやしてんの、気持ち悪い」
「で、食事行くんでしょ。よかったじゃん」
「はあ? なんでそうなるのよ。やっぱ聞いてないんじゃん。私は行かないほうがいいのかなーって悩んでるの!」
「なんで? だって誘われてうれしかったんでしょ」
「うれしかったよ。でもさ」
「ああ、幸せな家庭を壊しちゃうかもしれないもんね」
「違うってば! そこは関係ない! 私が一人なにかしたくらいで壊れるなら、そんなんたいした幸せじゃないんだって」
世間を敵にまわしそうな主張だが一理ある。栄子は賢くはないけれどバカではない。ぶれない、ということが実は一番難しい。
「年齢がさ……上すぎるでしょー」
「介護とかの心配?」
「そんな将来の話じゃなくて。ていうか、それは別に年齢差関係ないでしょ。誰にでもいつか降りかかる問題じゃん」
「じゃあ、なにを気にしてるの」
「世間の目」
どうリアクションするのが正解なのか、僕には見当がつかない。潤んだ目で訴えかける栄子は、正真正銘本気なのだ。冗談でかわせない話はたちが悪い。しこりも残る。
慎重に言葉を選ぶ。選ぼうとするが、僕の脳内に浮かぶのは彼女の横顔だけだった。気味の悪いアイスを、うれしそうに頬張る彼女。まつ毛がとても長い彼女。濡れた髪からのぞく、あごのラインが華奢な彼女。僕のことを見てくれそうで、決して見てくれない彼女。
「世間の目なんて関係ないよ」
「簡単に言わないでよ、他人事だと思ってさ」
「他人事じゃない。俺も栄子と同じだからわかるよ」
「え、マジ。それって……」
「だから少なくとも、俺は栄子が山田さんに寄せる想いを否定したりしない。人を好きになる気持ちを外野がとやかく言うなんておかしい」
彼女の面影を丁寧になぞりながら語るうちに、自然と熱がこもっていく。栄子はあふれた涙をぬぐい、手元にあった紙ナプキンで豪快に鼻をかんだ。鼻の頭が赤くなる。不器用に笑顔を見せる栄子は、まったく似ていないのに一瞬彼女と重なった。
「ありがと。うれしい。本当さ、自分の親世代、んーそれ以上か。そのくらい年上の人って、どうしようもない魅力あるよね。なんだろ、包容力なのかな。ファザコンとかマザコンとか言われるかもしんないけどさ、お互い頑張ろうね。あー、景気づけにパフェでも頼もうかな!」
栄子は店員に向かって元気よく手を上げた。彼女も学校で先生に向かって手を上げてるのかなあ。僕はちょっとだけ親のような気持ちで、彼女のことを考えた。
授業参観とか行きたいなあ。彼女は何度も後ろにいる僕を振りかえり、きれいなピンク色の歯ぐきを剥きだしにする。いいところを見せようと、先生が質問を投げかけるたびに必死で挙手をしている。思わず顔がゆるむ僕に、隣に立っていた人は「お父さんですか」と尋ねてくる。僕は誇らしい気持ちで「恋人なんです」と胸を張って答える。「お似合いですね」と称えられる。彼女が勢いよく立ちあがり、正解をたたきだす。僕は力のかぎり拍手を送る。教室全体もそれに倣い、温かい空気に包まれる。それは僕と彼女を祝福してくれているようでもあった。彼女と目が合い、笑顔を交わす。出会ってくれて、ありがとうありがとうありがとう……。
そうだったらいいのになあ。
「スペシャルデラックスプリンパフェ!」
栄子のバカでかい声は、いつも目覚まし代わりになる。
○
彼女の学校は集団下校を推奨しているが、実施されるのは結局月に数回程度だ。今の小学生は忙しい。ほとんどの子が二つ以上は習い事をしている。それに合わせて生活のリズムが作られるのだから、周りと足並みをそろえている暇はないのだ。皆、頭一つ飛びぬけるために、必死で帰り道のタイムを縮めている。
彼女もそうだ。水曜と土曜はスイミングスクールだし、木曜はピアノ。最終週の金曜日、大人で言うところのプレミアムフライデーとかいうわけのわからない日には英会話教室が控えている。月一回じゃあ、労働環境も英語のスキルも好転しないと思うのだけれど。でもまあ、後者については彼女が楽しそうにアルファベットの歌をうたっているので良しとしよう。
習い事のない日、彼女はとてものびのびと帰る。ゆったりとした足取りで、両手を大きく振って、時には鼻歌まじりに、時にはちょっと寄り道なんかをしたりして。また時には、四角いステップをぎこちなく踏んだりして。それにターンを加えたりして。そんな調子だから、なかなか家にたどりつかない。
彼女はわかりやすい。ピアノのある木曜は早足ではあるが、険しい顔つきで、ランドセルを岩のように重く背負っている。歌は好きだけど、ピアノは苦手。そうはっきりと、顔どころか全身に書いてある。
僕はどちらの彼女も好きだけど、一番はやっぱり今日のような彼女。ふらふらと蛇行して、道端に咲いている花の蜜をおいしそうに吸ったりする彼女が好きだ。小さな世界で、傍から見れば危なっかしい冒険を繰りかえしている。僕はそれを見守る。そんなときは、僕もふと童心に帰る。そういえばポケットティッシュを食べたりもしていたなあ、と思い出して、口に含んでみてすぐえづく。
彼女は友達が多いほうだと思うけれど、帰り道は一人で歩くのが好きらしい。時折、女の子同士で顔を寄せあって腕をからめたりして帰る姿も、それはそれで微笑ましい。つまりはどちらもかわいい。要は男子と肩を並べなければ、それでよろしい。
カーブミラーのある角では、必ず一度止まる。ママの教えが功を奏したのか、彼女は律儀にそれを守っている。それでも大人のほうがルールを無視することがある。そして世の中にはいろんな大人が群がっている。出合い頭にご用心。
「あらあ、今帰り?」
出た。思わず顔をしかめたが、おそらく硬直している彼女も同じ表情を浮かべているはず。
「よかったねえ、しーちゃん。おねえちゃんに会えたねえ」
どことなく薄汚れた衣服をまとうばあさんは、このあたりではちょっとした有名人だ。曲がった腰を支えるように、しわしわの手でしっかりとベビーカーに寄りかかる。ばあさんがベビーカーを操っているのか、ベビーカーがばあさんを先導しているのかわからない。そのくらい一心同体と化している。ベビーカーばあさん。略してベビばあさん。幼児でグランマなんて矛盾した愛称だ。
「しーちゃん、おねえちゃんに挨拶しようねえ。あ、笑ったねえ。こんにちはってねえ」
ベビばあさんがしきりにベビーカーをのぞきこんで話しかける。そこに横たわっているのが醜くても生身の人間だったらよかったのだけれど、無機質な人形だったからベビばあさんは有名人になってしまった。
しーちゃんと呼ばれた性別不詳の人形もまた薄汚れていた。火事場から拾ってきたみたいに、衣服のところどころが破れ、頬は黒ずんでいた。ベビばあさんはしーちゃんを大事に扱うわりに、きれいにしてあげようとか服を見繕ってあげようとか、そういう感覚はないらしい。ただただ、話しかける。慈しみを持って話しかける。返事はベビばあさんの鼓膜だけに響いている。
「今日はねえ、しーちゃんとお出かけなのよ。さ、しーちゃん。おねえちゃんにバイバイして。はい、バイバイ」
ベビばあさんが目を細めて「よくできました~」と言うので、彼女もあわてて手を振ってみるが、当然人形は微動だにしていない。戸惑う彼女をよそに、ベビばあさんはのろのろと前進していく。
一人残された彼女は首をかしげる。ベビばあさんは基本的に無害だが、こんなふうに誰かの心の動きにやんわりとストップをかけていく。
ベビばあさんが見えなくなると、彼女はすぐにまた花を見つけては蜜を吸う。それでいい、と僕はうなずく。彼女の冒険は続くのだ。ベビばあさんの話題だけで何時間も無駄にするような子にはなってほしくない。
【不審者注意!】とでかでか書かれた黄色い看板をスルーし、日向ぼっこしていた猫に彼女は襲いかかる。猫はおびえながらしゃーっと威嚇する。彼女はけらけらと笑いながら、無邪気に追いかける。かけ足がスキップに、そして気がつけばまた四角いステップを踏んで、猫をとり逃がす。
自由に、わんぱくに、人を悪く思わずに。でも、石につまずかないようにしてね。車に気をつけてね。危ない人には注意してね。そう願いながら、看板の陰で彼女の背中を見つめる。
○
「今日はお時間いただき、ありがとうございます」
「いえいえ。御社の副教材は相変わらず現場でも好評ですから、私どもも助かっております」
「そうおっしゃっていただけると光栄です」
僕がお辞儀をすると、学年主任の土井先生は座るようすすめてくれた。人手が足りないのか、自分の来客は自分で対応するという方針でもあるのか、土井先生は自らお茶を淹れてくれる。しわが目立つけれど形のいい手は、教育者として子どもを預けるにふさわしい凛とした所作をする。彼女が土井先生に見守られているのならば、安心安全というものだ。それでも、何気ないふうを装って尋ねておく。
「こちらに来る途中で【不審者注意!】の看板をいくつか見かけました。なにか事件でもあったんですか?」
「ああ、いえいえ。特別なにか起こったというわけではないんですよ。注意喚起です。日ごろから心構えをしておくのとしておかないのでは、いざというときの判断に差が出ますから」
なるほど、と得心した。土井先生の落ち着いた口調で説明されると、まったく問題ないと飲みこめる。動じない、貫禄のある姿勢は長年教育現場に携わってきたからこそ身につくものなのだろう。
土井先生は差し向かいのソファに腰かけ、「どうぞ」とお茶をすすめてくれる。形ばかりと口をつけたお茶は、ずいぶんと上品な香りがした。
「御社の【な~る~シリーズ】は子どもが率先して取り組んでくれるので、非常に助かります。イラストもゆるかわ……というのかしら。とにかくそちらも大変喜んでいるようです。このまえ、お願いした英語の入門テキストも、導入教材としてとても適していると現場から声が上がっています」
「恐縮です」
軽く会釈をする。ここまでは本心なのだろうけれど、むしろここから切りだす本題のための前置きに過ぎない。土井先生は学年主任まで昇りつめただけあって、毎回称賛する手間をいとわない。粘り強く、あせらない。どれだけ迂回したとしても、最後には必ず自分の目的を果たすように緻密にルートを組みたてている。
「だからこそ、のお話なんですが、そろそろ御社からも教科書準拠の教材を視野に入れていただけないでしょうか。いつも同じことを、耳にタコができるくらいお願いして申し訳ないですけど、これは御社を、あなたをきちんと評価しているからこそのお願いです。どうにか検討していただけないかしら」
静かに、淡々と、しかし譲らないという信念が見え隠れする口調だった。もういいかげん行動しろ、という焦れた思いも確かに見て取れた。それもそうだろう。僕はその場では前向きなことをほのめかすくせに、その実まるで動いてはいないのだ。上司に相談したところで、小さな職場ではとても対応できないといったマイナスな答えが返ってくるのは予想できるし、下手を打てば僕の仕事が二倍三倍に膨れあがる。なんとしてでも、それは避けねばならなかった。
「弊社に期待をかけてくださっているのは、本当にうれしいことです」
「ほかの学校からも、きっと同様の要望は上がっているのでしょう」
「ご推察のとおりです。土井先生のように評価してくださっているから、という前向きな理由ではないかもしれませんが」
「心苦しいのですが、私も純粋に期待だけでお願いしているわけではないんです」
僕は苦い表情を作ってみせたあと「承知しております」とつぶやいた。土井先生は湯呑みを口にもっていってから「薄かったですね」とこぼした。そんなことはない、と返すまえに、土井先生が続ける。
「なんとか前向きに検討していただけませんか」
「もちろんご提案は責任を持って伝えますし、弊社としても真摯に取り組みたいと考えております」
「考えるだけですか」
「そうおっしゃられると、なんとも心苦しい。つまらない理由で申し訳ないのですが、準拠対応できるほどの潤沢な資金と人材が、現在弊社ではなかなか……」
「しかし、いずれはご対応いただかないと、正直厳しい状況なのではないですか」
「おっしゃるとおりです。後回しにしたところで、いずれ降りかかってくる問題です」
「ならば早急にお願いいたします。でないと、御社の採用自体を見送ることになりかねません」
土井先生は毅然とした態度で宣言した。一点の曇りもない率直な要望は、僕にとっても気持ちがいいと思えるものだった。変に探り探りで迫られるよりは、いっそすがすがしい。窮地に追いこまれたはずなのに、喜んで崖から突きおとされるのを待っているような気分だ。落ちれば死ぬだけなのに、海に飛びこんだらすっきりするだろうなあ、とのんきな心持ちでいる。
「私どもは御社の教材の、純粋にファンです。準拠に落としこんでも、必ずやすばらしいものを作っていただけると信じております」
うちの教材が自由度高く、ユニークな持ち味を誇れる理由は、間違いなく教科書準拠でないからだ。教科書に沿った内容にしたとたん、無味乾燥な、どこにでもあるようなものになることは目に見えている。厳密なルールに則ったうえで個性を打ちだす。そんな稀有な才能やセンスは、僕にも、僕の職場にもなかった。
けれど、それは土井先生には説明せず、ただ礼を言うにとどめた。そんな事情は顧客側にとっては知ったことではないし、知らせたところで言い訳にはならない。
「貴重なお時間、ありがとうございました」
「こちらこそ。あ、少し先の話ですが冬休みの家庭学習。また御社のテキストを採用しようと考えております。よろしくお願いしますね」
「光栄です。ありがとうございます」
とりあえずこの調子で今年度は食いつないでいけるだろう。その後はどうしたものか。
「あら、あの子。忘れ物かしら」
土井先生が窓の外を見つめている。校庭をちょこまか走ってくる、小さな点があった。僕は目を疑った。思わず変な声が漏れてしまいそうだった。
元気よく校舎に向かってくるのは、正真正銘彼女だった。小さな体から、神々しい光が放たれているのが僕には見える。悶絶しそうになる。体を少しくねらせたところで土井先生と目が合ったので「虫が、虫がいまして」と言い訳した。
窓を開けて、土井先生は彼女に声をかける。
「どうしたのー? 忘れ物ー?」
「そうでーす。リコーダー!」
弾けるような笑顔で、彼女は答えた。変声期前のかわいらしい上ずった声は、僕の全身を震えあがらせた。僕に向けられたわけではないけれど、僕のほうに向けられた声は、一文字一文字まるでマシンガンのように僕を蜂の巣にしてしまう。ここが自室なら、おおうおおう、と床を転げまわりながら悶え苦しんだだろう。しかし、ここは神聖なる教育現場。なんとか顔がにやけないように努める。穴という穴から一斉に汗が噴きだす。
「……失礼しました。あら、どうしたんですか。なんだか尋常じゃない汗をおかきになって……」
「いえ、大丈夫です。ちょっと暑いなあと思いましてですね。準拠の件、頑張りますです。むしろ、そのためにはですね、また土井先生の貴重なご意見、どしどし聞きに参上いたしますので、はい」
僕はハンカチで汗をぬぐいながら、息も絶え絶えに退場した。土井先生の怪訝な表情は見て見ぬふりをする。
ああ! 胸が張り裂けそうだ! 僕の天使! いや、胸はもう穴だらけだった、僕の天使!
○
「ああ……山田さん、すっごーい……素敵なお部屋ですねー」
いつもよりワンオクターブ高めの栄子の声が、耳にきんきんと響いて仕方がない。けれど、高揚するのもまた仕方がない。そのくらい招かれた部屋は広く、ゆとりのある空間だった。最新の家電が一通りそろい、大きなテーブルには色とりどりの料理が並べられ、システムキッチンではエプロンをした山田さんが優雅に作業をしている。
腰かけたソファは、職員室で座ったものより数段座り心地がいい。沈みすぎない革張りのソファは、うっとりとリッチな気分に浸らせてくれる。栄子のほうはどうも落ち着かず、背筋を全力で伸ばしたまま、足元だけそわそわとしている。
食事の約束を取りつけたものの、食べたいものが一つにしぼれず悩みつづける栄子に、「では手料理を振るまいましょう」と自宅に招待する山田さんはバツイチの独り身だった。奥さんがいないという事実より、家に行くという事実に狂喜乱舞していた栄子だったが、不意に我に返り、急に乙女な部分を発揮し、脈絡なく「友達も連れていきます!」と宣言してしまったらしい。まるで動じず「どうぞ」と応じた山田さんはまぎれもなくジェントルマンだ。
そんな飛び入り参加の僕は、栄子よりくつろいでいた。第三者の立場がそうさせるのかもしれないけれど、完璧な男やもめの部屋の造りは感心させられると同時に、とても居心地がよかった。テーブルには引き出しがついているのかあ。時計は置いていないのかあ。ベランダに花を飾っているのかあ。あのコーヒーメーカーを使っているのかあ。と、失礼にならない程度に部屋を観察しては、いろいろな発見をすることが面白かった。
山田さんはまるで僕の想像をそのまま現実に投影したような人物だった。細身でシンプルな着こなし(ただしハイブランドであろう)、おしゃれな眼鏡。ひげはなかったけれど、大人の色気はだだ漏れだった。ただ、こうして実物を見ると、およそ普通の会社員とは思えない。雑誌の切り抜きをそのまま貼りつけたみたいな、素敵すぎる暮らしぶりだった。
山田さんの手料理もまた浮世離れしている。なにかのアートかと勘違いするくらい、思いつくすべての色が使われていた。栄子ならずとも、これは写真におさめたくなる。
「もー、山田さん、すごすぎ! 本当、なんだろ、もー半端ないです!」
もともと語彙の少ない栄子が、さらにシンプルな口調になっていく。どれだけアートっぽくても飛びだしたり回転したりしない品々を、栄子はひたすら連写している。「食べるのもったいないですよー」と言いながら、栄子は誰よりも口いっぱいに頬張っている。その結果、会話は山田さんと僕とでキャッチボールする流れになった。
「教材関係の出版社に勤務されていると聞きました。大変なお仕事ですね」
「いえ、とんでもないです。ただ、業界的にもなかなか厳しい状況ではあります」
「指導要領が変更されるたび、現場では対応にご苦労されているんじゃないですか」
「おっしゃるとおりです。うちは教科書準拠ではないので、まだましなはずなんですが」
すると山田さんはなにか思うことがあったのか、少し目をつぶった。そんなしぐさにも、大人の男の色気がにおいたつ。案の定、栄子はローストビーフを口にふくませながらも、考えこむ山田さんを凝視している。山田さんは眼鏡を少し持ちあげて、
「もしかして【な~る~シリーズ】を手がけていらっしゃる会社さんですか」
僕は驚いて「そうです」と答えた。「でも、どうして?」と続ける。
「あのシリーズは面白いですね。大人の読み物としてもいろいろ発見があって刺激になります。実はイラストを手掛けている方とちょっとした知り合いなんです」
「田中先生と?」
直接、田中先生とやり取りしたのは別の社員だが、何度か会社まで足を向けてくれたこともある。穏やかで人のよさそうな、小太りのおじさんだった。二人のつながりを問うかどうかためらっていると、肉を嚥下した栄子が「山田さん、それってどういう知り合いなんですか」と遠慮なく援護射撃してくれる。田中先生の素性を知らない栄子は、好敵手出現かと身構えたらしい。
「うーん……そうですね。実は私、漫画を描いてまして」
思いがけない告白に、僕と栄子はそろって「え!」と声を上げた。栄子にいたっては飲みこんだはずのローストビーフを戻しかねない勢いだ。
「え、え、山田さん、漫画家ってこと? だって、もうすぐ定年だからって、あれ」
「栄子さん、すみません。あまり素性を明かしたくなかったので、ちょっと嘘をついてました。申し訳ないです」
いたずらがばれた少年のようなあどけなさと、即座に謝罪するいさぎよさと、両方兼ねそなえながら山田さんは改めて自己紹介をしてきた。山田さんはそこそこ有名な青年誌で連載を持っている漫画家だった。その作品は読んだことはないけれど、もちろんタイトルと内容は知っている。王道のバトル漫画で、深夜枠でアニメ化もされていたはずだ。栄子は興奮しながら「へー、すごい。山田さん、先生じゃん!」とはしゃいでいるけれど、おそらくこいつは知らない。見たこともない。漫画とかアニメ方面には疎いのだ。山田さんもそれを見抜いているのか、穏やかに「ありがとう」と応ずるにとどめている。
そこからの話題は山田さんを中心に広がっていった。漫画家という、僕から見れば特殊な職業についてのトピックスは尽きることはなかった。最近はだいぶ落ち着いた生活を送れているけれど、昔はいろいろな意味で大変だった。時間は不規則極まりないし、収入も安定しないので、一度結婚したときは相手の家族の了承を得るのにも苦労した。結局、その相手とも別れることになるのだが。
山田さんは驕ることなく、誇張することなく、丁寧にエピソードをつむいでいってくれた。栄子も熱心に耳をかたむけている。
「だから、うらやましいです。教材の出版社というお仕事は。もちろん大変なお仕事であることは理解していますが、世間からの信頼は厚い。堂々と胸を張っていられる。私のような人気商売は、落ちるときは一気に、それもどこまでも落ちます。私なんかは小心者なので、いつもなにかにおびえながら暮らしていますよ」
寂しそうに山田さんは語った。勝手なイメージであることないことを誹謗中傷されるのは、想像に難くない。ちょっとネットを開けば、根も葉もないうわさと悪口のオンパレードだ。
「だから、慎重に生きなくてはいけません。自分らしく生きるためには、より慎重に」
熱を帯びてきたその言葉に、僕も自然と首を縦に振っていた。
○
蝶が飛んでいた。いや、蛾かもしれない。僕にはその見分けがつかない。とにかく優雅に羽を泳がせて宙を舞う虫を、彼女は一心不乱に追いかけた。めずらしく四角いステップを踏むことなく、ただ目前のターゲットを追う。蛇行しながら、ジャンプをはさみながら。
あ~、危ない! もうちゃんと前見て! だめだめ! そんなふうに走ったら、めっ!
やきもきしている僕の声は届くはずもなく、彼女はついにぶつかってしまった。運よく車ではなくベビーカーだった。それでも僕は息をのんだ。一瞬、目の前が真っ白になって、心臓が止まったんじゃないかと錯覚した。
相手はベビばあさんで、彼女が勢いよくクラッシュしてもまるで動じなかった。が、人形がずり落ちた。確かしーちゃんとか呼ばれていた人形だ。
間違いなくぶつかった衝撃のせいではなく、もともとがボロの人形だったせいでしーちゃんの右腕はあっけなく取れた。転がった腕の造りは妙にリアルで、彼女は目を丸くして後ずさる。
しかし、彼女よりも目を見開いたのはベビばあさんだった。小刻みに震えだしたかと思いきや、ベビばあさんはしーちゃんの落ちた右腕をベビーカーで轢きはじめた。何度も何度も前後にベビーカーを走らせ、白い右腕をゴロゴロと転がす。材質自体は頑丈なのか、傷めつけられても右腕はなかなか砕けたり変形したりしない。ただ、右腕が右腕のまま、汚れていくだけだ。やがてベビばあさんは奇声を発しはじめた。
「ふおおおおおおお、ひゃああああああああ」
いや、怖い。普通に怖い。離れたところで見ている僕でさえ怖いのだから、小さな彼女が目に涙をためているのは当然だろう。恐怖で顔が引きつって、その場から動けなくなっている。そんなレアな表情もまた絵になるなあ。怯えてる子ってかわいいんだなあ。いやいや、助けなければ!
僕が駆けだそうとするより先に、空気を切りさくような鋭い怒声が飛んできた。
「なにしてるんですかっ!」
きいん、と耳鳴りを引きおこすほどの雷が落ちて、彼女はとうとう泣きだしてしまった。「ふえええ」と我慢しつつも、大粒の涙をぽろぽろとこぼす様子もまた……いやいやいや、鬼の形相でその場に駆けつけてきたのは土井先生だった。
土井先生は泣きじゃくる彼女の頭をなで、自分のほうに引きよせる。ベビばあさんは動きを止め、土井先生と真正面から向き合う。
「この子になにをしたんですか」
「このクソガキがぶつかってきて、しーちゃんの腕を折ったんだろうが!」
ベビばあさんは普段の柔らかな物腰はどこへやら、がなり声でわめきちらす。彼女はおびえきって、土井先生のスカートにしがみついている。小さな手でぎゅっとつかんでいる姿もまた……
「しーちゃんって、人形でしょう」
いやいやいやいや! さらりと言いはなった土井先生に度肝を抜かれた。それ、多分一番言っちゃだめなやつ! 地雷中の地雷! 誰もがおかしいなあ、と思っていることは、たいてい触れないほうがいいのだ。栄子がさらりと言いそうな名言だ、と自負したが、栄子なら初見で「人形じゃん!」と指をさしてしまいそうでもある。
「だいたい折ったって折れてないでしょう。取れただけでしょう。それどころか、今あなたがその腕をベビーカーで轢きまくってたんじゃない。大事そうに扱っているくせに矛盾してるわよ」
あくまで毅然とした態度で、土井先生は弁を振るう。正論ではあるけれど、それが果たしてベビばあさんに通じるものなのだろうか。彼女は完全にベビばあさんを視界から消すべく、ぐりぐりと顔をスカートに押しつけている。ちゃっかりハンカチ代わりに涙や鼻水を拭いているようでもある。
「……しーちゃんは私の子です」
「人形ですよ」
「私のかわいいかわいい子どもです」
「人形ですって。腕がそんなふうにはずれてるんですよ。それは人形です」
あああ、土井先生! もうやめて! 関係ない僕がいたたまれないのだ。ベビばあさんにとっては身を切られるような思いだろう。彼女はスカートをくるくると全身に巻きつけはじめた。カーテンでよくやる要領だ。意外とずぶといな、この天使は! めっ!
「その腕を見て、あなたも思い出したんでしょう。人形だって。だから取り乱しているんじゃないの?」
土井先生はすっと前に出て、ベビーカーの下敷きになっている右腕を取りあげた。急にスカートがなくなった彼女はくるりと回ったあと、きょとんとした顔でその場に立ちつくした。土井先生はベビーカーの人形の上に右腕を置いた。そしてベビばあさんのしわくちゃな右手に、自分の手をそっと重ねた。
「子どもだろうと人形だろうと、大切なものを轢くのはやめなさい」
「……あなたみたいな……立派な教育者に私の気持ちなんてわからないです」
「立派じゃないし、誰であってもあなたの気持ちなんてわからないわ」
「……あなたみたいな……恵まれた人に私の気持ちなんて……」
「恵まれてるってなにが? 私は子どももいないし独り身よ。よくそれで教育者が務まるな、なんて陰口をたたかれたことも数えきれないくらいあったわ」
土井先生の事情を知って、少なからず僕も驚いた。子どもと接する仕事なのだから、子どもがいるに違いないという謎の偏見があった。そんな状況から学年主任までやってのけるなんて、やはり相当の実力者に違いない。
「……私、子どもが欲しかった。だけど……」
ベビばあさんの瞳に正常な光が宿った。涙声でこれまでの長い人生を打ちあけようとしている。土井先生もまた、真剣な眼差しでベビばあさんを見つめかえしていた。あ、だめだ。これ、長くなるやつだ。
「待って。ここじゃなんだから、どこか落ちつける場所に行きましょう。まずこの子を送り届けないと……」
土井先生ナイス! 千載一遇の大チャンス! さも今通りかかりましたよ、仕事のついでですよ、という体裁を装って、僕は三人プラス人形がたたずむ通りに躍りでた。
「あれ? 土井先生じゃないですかあ。奇遇ですねええ」
多少声が裏返った感はあったけれど、我ながらすばらしい演技じゃないだろうか。超ナチュラル。土井先生もややびっくりはしているようだけれど、すぐに「今日も来てくださったんですか」と立てなおした。
「はいっ。近くまで来たものですから」
「準拠の件、考えていただけましたか」
「あ、え、う、いや、申し訳ございません。そちらはまだ検討中でして……」
「大変ですね。どれだけ学校訪問するかで採用が決まるところがありますものね」
それは間違いない。どんぐりの背比べの副教材ならば、結局内容うんぬんではなく、表紙のデザイン性だとか営業が何回訪ねてきてくれたかだとか、そういうところしか判断材料は残されていない。先生の要望に応えて、無料サービスをしまくる同業他社もよく見かける。「足元見やがって」と舌打ちする営業マンも、一度味をしめた顧客には頭が上がらない。お客様ならぬ、先生様は神様状態なのだ。
「まあ、あなたはそういうタイプでもなさそうですけど」
「お恥ずかしい。手前味噌ですが、自社製品に自信を持っているところがありますね」
「良質な教材をご提案してくださるのが一番ですよ」
土井先生の本心はつかめないけれど、僕は学校側からの要望をうまく煙に巻くように日頃から努めている。ある学校だけの専用ノートを作るだとか、ある学校だけは値引きするだとか、ある学校だけは解答集をクラスごとに別梱包するだとか。手間だけかかって、時間が奪われていくのはごめんだ。その理由はもちろん――
「土井先生。このおじちゃん、だれ?」
ひいいいいい! 彼女が! 僕を! 指さして! 認識してるううう!
小首をかしげるしぐさが破滅的にかわいい。鼻血が出そうだ。耐えなくてはいけない。自然に、冷静に、大人として対応しなければならない。
「僕は学校の副教材を扱う出版社に勤務している営業兼編集だよ」
一息で噛まずに自己紹介をやってのけて内心ガッツポーズを決めたのだけれど、土井先生は困ったように「ちょっと難しくてわからないわね」と彼女に話しかけていた。彼女もうなずいている。なんと! もっともっと噛み砕かなければいけないのか! しかしどの程度? 副教材はなんと言えば伝わるのか? 出版社とはどんなところなのか説明すべきか?
「このおじさんは、土井先生のお友達なの。すごいのよ。ほら【な~る~シリーズ】あるでしょ。あれを作ってる人」
なるほど、教材名を素直に言えばよかったのか。彼女は【な~る~シリーズ】と聞いて、途端に目をきらきらと輝かせはじめた。そんな純粋極まりない目で見つめられると、息ができない。
「おじちゃん、あれ作ってる人なの? すごい! あれ大好き!」
神様、僕を殺す気ですか。今日が終わりの日なのですか。天に召されるイメージが僕の脳内で鮮やかに再生された。だめだ、意識が遠のく……。
「すみません。実は今ちょっと立てこんでまして。急にこんなことお願いするのは本当に申し訳ないのですが、この子を見送ってあげてくれませんか」
土井先生の冷静な指示で、僕はどうにか意識を取りもどした。
「そんなに家は遠くないと思いますし。あ、今日は途中でお母さんと合流だっけ? スイミング?」
「ああ、魚っ子スイミングスクールですね」
と、ついついどや顔で言ってしまってから、土井先生がぎょっとして僕を見ていることに気がついた。
「いえ、ここら辺でスイミングスクールといったら、あそこかなあって。本当にいろんな学校をしょっちゅう回ってるもので」
土井先生の表情が通常モードに戻ったところで、僕の心臓は暴れだした。危ねええ。
「ではそこの近くまでお願いできますか。なにか聞かれたら私の名前出してください。じゃあ、このおじさんと一緒に行ってくれる? うん、そう守ってくれるから」
守りますとも! 急に矢が飛んできても、唐突にモンスターが現れても、守りますとも! 僕は彼女のナイトですとも!
鼻息が荒くなりそうなのを必死で抑え、人生一番の、アイドル顔負けの、渾身のスマイルで彼女に颯爽と手を差しだした。
「じゃあ、行こうか」
「うん、わかったー」
彼女は僕の手を無視して、すたこら歩きだした。ああ、宙に浮いた手が虚しい。でも、この小さな背中を今日は堂々と追えるのだ。いや、背中どころかいっそ肩を並べて歩けるのだ。ふへへへへ。ベビばあさん、ありがとう。
ちょっと振りかえると、ベビばあさんはうなだれながらも土井先生に従って歩きだしていた。土井先生はいつくしむように、ベビばあさんの肩を抱く。寄り添う横顔があまりに凛としていて、不覚にもドキリとしてしまった。
「あのおばあちゃん、どこに行くの?」
彼女も二人の様子を見ていたようで、不意に尋ねてきた。上目づかいが完璧だ! いや、これだけ身長差があれば当然なのかもしれないけれど、それにしても反則だ! 直視できない。でも、こんなチャンスめったにない。顔が熱くなるのを感じながら、頑張って彼女と視線をぶつける。うわああああ! 今からこれじゃあ将来が心配っ! いや、もうすでに今心配っ!
「どっ、どっ、土井先生と、おはっ、お話ししに行くんだよっ」
結局、目をそらしてしまった僕は小心者です。彼女はそんな僕にまるで無関心なようで(でも、そんなツンなところもいい!)、思慮深げにすごいことを発言する。
「土井先生、あのおばあちゃんのこと、好きになったのかなあ」
「ふえっ? い、いやあ、それはないんじゃないかなあ……」
「でも、土井先生のあんな顔初めて見た! なんか恋してる顔!」
おおう。その発想はなかった。発想がなかったからといって、現実に起こりえないわけではもちろんない。もう一度振りかえると、二人は一歩一歩噛みしめるように前へ進んでいた。お互いの距離はほとんどゼロのままで。それが恋でも愛でも同情でもかまわないけれど、不思議そうに二人を見送る彼女の目にはどう映っているのだろう。
「僕たちも行こうか」
「うん」
僕と彼女の距離はもちろん空いていたけれど、相手の歩幅に合わせて歩くというのは、とてもうれしいものだった。彼女はちょっと急ぎ足に、僕はかなりゆっくりめに。歩きづらいはずなのに、別のテンポがなぜか心地いい。この時間が愛おしい。
「土井先生が恋してるの、みんなにはないしょだね」
僕が彼女を見ずに言うと、下のほうから「うん」と素直な返事が聞こえた。
魚っ子スイミングスクールが、そろそろ見えてきてしまう。
○
「いや、ないでしょー、ないわー。本当ありえない。てか、おかしくない? 無理。なんで? ねえ、本当無理だよおおおお」
栄子は耐えきれず、両手を顔で覆いながら号泣モードに突入した。周りの客が一斉に僕らのほうを見る。僕は愛想笑いをへらへら振りまきながら、なんとか栄子をなだめる。
「あのさ、俺が泣かしてるみたいに見えるから……」
「こんなのってないでしょ。ねえ、そう思わない? 期待させといてさ、ひどいよおおおお」
悲痛な絶叫がこだまする。周囲の目がどんどん白くなってきてひたすら頭を下げても、栄子の涙は止まらない。店員がどぎまぎしながら「天使のスフレパンケーキ、ベリーベリーソース添え、マシュマロチョコアイストッピングのお客様」と尋ねてくる。なんというバッドタイミング! 頭を抱えると、栄子は瞬時に真顔になり「私です」と手を上げる。餌を待っていた珍獣のように、黙々と、それでいて猛然とナイフとフォークを動かしはじめる。途中、面倒くさくなったのか、店員に「お箸ください」と注文して箸でパンケーキをさらいだした。その間もずっと無表情なので、僕は冷や冷やしていた。また、間欠泉のように暴れだすかもわからない。
しかし、お腹が満たされると精神も安定してくるのか、栄子は徐々に冷静さを取りもどしてきたようだった。落ちついたトーンでつぶやく。
「……今朝のニュース観たよね?」
僕がうなずくと、栄子は少しだけ顔をゆがめた。涙をこらえているのか、言葉を選んでいるのか、沈黙は少しのあいだ続いた。
「山田さん、変態だったんだ……」
それは早計というものではないか。と思ったけれど、実際口には出せなかった。栄子は歯を食いしばったけれど堪えきれず、再び大粒の涙をぼたぼたと落とした。パンケーキが栄子の涙を吸う。
今朝テレビをつけると、ワイドショーで山田さんの顔写真が映っていた。一瞬目を疑ったけれど、あのダンディな顔立ちは間違いなく山田さんだった。やっぱりかっこいいよなあ、とながめていると、そのあとに添えられたテロップが容赦ない現実を突きつけてきた。
【漫画家・山田イチロー、児童買春ポルノ禁止法違反及び強制わいせつ罪で逮捕】
息を止めて固まっていると、そのわずか数十秒後に栄子から電話がかかってきたのは言うまでもない。栄子が「今すぐ会いたい」と叫んできたときには、ニュースはとっくに別のものに切りかわっていた。人気アイドルが映画初主演を飾るらしい。どこにでもいる普通の子が、やたらきれいに笑っていた。
「女の子のDVD持ってたりとか……女の子、家に招いていたずらしたりしたんでしょ……」
「わいせつ罪のほうは否認してるらしいけど」
「そんなの嘘でしょ」
栄子はばっさりと切りすてる。僕らが夕食をごちそうになったあの家で犯罪行為があった。栄子はそう思うだけで吐き気がするという。一緒に選んだあの羽織物も娘にプレゼントというのは嘘なんじゃないか、と栄子は悔しそうに言った。「なんで?」と聞くと「言わせないでよ」と返された。
「私さ、本当に好きだったんだ」
気づくと、栄子の皿はすっかりきれいになっていた。天使のスフレパンケーキ、ベリーベリーなんちゃらは跡形もなかった。ひとまず僕はほっとした。
「裏切られた感じ」
山田さんの穏やかな笑顔が目に浮かぶ。今、どんな表情をしているだろう。どんな思いでいるんだろう。
「もし」
今、栄子に言うべきことではない。それはわかっていた。けれど、僕の口は勝手に動く。
「山田さんが、純粋にその女の子のことを好きだったとしても、やっぱり裏切られたって思う?」
「なにそれ。意味わかんないんだけど」
「だから仮に、すっごい若い恋人がいたとして」
「いや、若すぎるでしょ。っていうか、幼すぎるでしょ! だってその子、まだ十歳だよ。恋人とかありえないし、そもそも恋愛感情とかそういう次元じゃないでしょ」
「そんなのわからないだろ」
「わかるでしょ。ただの犯罪でしょ」
「栄子が相手だったとしても、山田さんから見ればすっごい若い恋人に……」
「一緒にしないでよ! その子、未成年でしょ! 私はどれだけ若作りしたって三十半ばのおばさんなんだよ。全然違うでしょ!」
激昂する栄子につられて、つい僕もむきになる。
「未成年だからって……例えば高校生だって未成年だろ」
「そうだよ。だからだめじゃん。私だってサトっちあきらめたんだし……よく芸能人とか問題になってんじゃん」
「だけど、物事の判断が自分でつけられるかどうかって、年齢が問題じゃないだろ」
「だからって十歳はないでしょ。無理やりいたずらしたに決まってる!」
「なんで決めつけるんだよ」
「だって気持ち悪いもん! 気持ち悪いでしょ! キモいキモいキモい!」
「理由になってないだろ」
「生理的に無理でしょ! ありえない!」
「好きになった人が、たまたますっごい年下だっただけだろ!」
テーブルをたたくと、再び周囲の注目が集まった。栄子は一瞬目を丸くしたけれど、なにかを吟味するように僕を見据えた。強い眼差しだった。
店員が「あの、ほかのお客様のご迷惑になりますので……」と遠慮がちに声をかけてくると、栄子は「ごめんなさい。もう出ます」と視線を僕に向けたまま早口で返した。
「好きになった人が、たまたま……ってよく聞くけどさ、便利な言い回しだよね」
栄子は派手なピンク色の長財布を取りだした。千円札を何枚か抜いて、テーブルに置いた。
「私はその人だから好きになったの。たまたまとか、ない」
栄子は席を立った。店員に頭を深々と下げた。店員はどぎまぎしながらも栄子を許す。
一度も振りかえらずに去っていく後姿は、きちんと失恋した女の背中になっていた。
○
例えば、僕は今三十四歳で彼女は十歳。それが二十年もすれば、僕は五十四歳で彼女は三十歳。二十年後に出会えば、なんの問題もなく年の差恋愛として認められる。出会うタイミングを間違えたのだろうか。二十年待てばいいのだろうか。
でも、違う。僕は今現在の、十歳の彼女が好きなのだ。天真爛漫で、表情をころころ変えて、好奇心旺盛で、でも飽きっぽくて。空気を読むことも覚えはじめていて、気の進まない習い事もきちんと通って、でもちゃっかりしていて、時折だだをこねてママを困らせたりもする。そんな彼女が好きなのだ。
土曜の昼下がりは、世界中が平和だと思えてしまう。時間がいつもよりのんびりと進み、皆が一斉にあくびをするような穏やかな眠気を抱えている。
土井先生に会いに行ったら「今日はお休みです」と受付の女性に言われた。
「最近、なんだか幸せそうなんですよねえ」
と、余計な情報までくれた。僕は「また改めます」とだけ伝えて、すぐに校庭を出て所定の位置についた。相変わらず【不審者注意!】の看板はあちこちに立てられている。いっそ増えているかもしれない。
人の幸せや不幸せにかまっている暇はない。僕は彼女を待つ。ただ、それだけだ。
久しぶりの集団下校で、一気に子どもたちは学校から吐きだされる。わらわらと虫のように湧いてくる。ランドセルの色はやたらとカラフルだけれど、僕にはどれもこれも同じ顔に見える。列を成しているようで、一人外れ、二人外れ、すべての線がばらばらと点になっていく。新たな編隊を組む者もあれば、ずっと一人のまま突き進む者もいる。
大きな波が去っていき、やがて落ちついた頃合を見計らって、静かな第二陣が現れる。その中に彼女はいる。彼女だけは遠目からでもわかる。オーラが違う。光を放っている。その他大勢の洟垂れ小僧たちとは、一線も二線も三線も画している。
彼女と最初に出会ったのも、集団下校の日だった。土井先生への営業ののち、子どもたちの波に飲みこまれて右往左往していた僕を、彼女はじいっと見ていた。目を白黒させながら、変なステップを踏みながら、回転しながら前後に流される。
「そのダンス、どこで習うの?」
彼女の問いが真っ直ぐ鼓膜に飛びこんできて、不意に僕の視界は揺れた。そのまま足がもつれ、尻餅をついたらあっけなく魔法は解けた。彼女はなーんだという顔をして、さっさと波に乗っていってしまった。僕は呆然と地べたで体育座りをしながら、そんな彼女をずっと見送っていた。
あとから調べたところによると、彼女はダンスに興味があって、きちんと習いたいらしい。けれど、ママは許してくれない。スイミングとピアノと英会話は役に立っても、ダンスは役に立たないという謎の線引きがあるようだ。彼女が時折、下校中に跳ねたり回転したりするのは、ダンスへの抑えきれぬ欲求だ。僕は知っている。ママは「落ちつきがない」と怒る。彼女はほとばしる。僕は知っている。
彼女がやってくる。平々凡々の波のなか、彼女は一人サーファーになってやってくる。僕も彼女のためならば、自称サーファーになれる。世の中で一番怪しい職業だったとしても、堂々と名乗ろう。ジョニーと呼んでくれ、ハニー。
「あ! タカハシくん!」
僕のハニーは急にボードを降りて、波に飛びこんだ。え、転覆? カモン、ライフガード! 今日は波が高いのか?
「おお」
「今日はスイミング行く?」
「行くよ」
「じゃあ、一緒に行こう!」
「えー、やだよ」
「なんで?」
「おまえと一緒だとからかわれるもん」
「そんなことないよ。行こう!」
違うぞこれは転覆じゃないぞこれは自ら飛びこんだぞこれは自殺行為だぞこれは緊急事態だぞこれはこれはこれはこれはこれはなんなんだ! ライフガード!
彼女はタカハシくんという男子のもとまで泳ぎ、肩を並べてはしゃいでいる。タカハシくんはぶすっとした愛想のないクソガキで、そんな彼女を煙たがっている。
おいなんだおまえ。つまんねえツラしやがって。最悪な態度取りやがって。いや、でも変に笑顔とか見せてんじゃねえよ。どさくさにまぎれて頭さわってんじゃねえよ。ふざけんなおい。そこどけ今すぐ代われおい。身長も貯金も仕事もないくせに。調子こいてんじゃ……え。なに、逆に言えば、これだけ大人なのに、僕が持っているものはその三つだけなわけ? しかもその三つとも、彼女は興味なんてないじゃないか。
彼女ははしゃぎながら、またぎこちなく四角いステップを踏んでみせる。
「タカハシくん、また今度踊ってみせてよ!」
「えー、やだよ」
「やだって言うくせに、見せてくれるじゃん」
「おまえがしつけーからだよ。てか、おまえも早くダンス習えよ」
「習いたいけど、ママがさー……」
「俺が説得してやるよ」
瞬間、彼女の頬がほんのりと染まった。さっきまでタカハシくんに顔を近づけていたのに、不自然なほど今度は距離を空ける。「スイミングにママ来るんだろ?」というぶっきらぼうな問いかけに、小さく「うん」とうなずく。二人の肩が並ぶ。同じ歩幅で、同じスピードで歩いていく。ゆっくりと二人の点が豆粒みたいになっていくのを、僕は一人見届けて…………
「ふざけんなああああああああああ!」
僕は絶叫した。人の幸せや不幸せにかまっている暇はない。けれど彼女の幸せを見過ごすほど、僕はお人好しじゃない。打ち明け話の末の奇跡とか、自分なりの結論で恋を終わらせるとか、そんなきれいごとだらけでたまるか。
土井先生、ベビばあさん、栄子の吹っ切った姿が浮かぶ。唾を吐きたくなる。ハッピーエンドは好きだけれど、美談は大嫌いだ。美しい記憶にすればOKだと思ってるだろ。違うんだよ。不細工は不細工なままで、いびつならいびつなままで、別に誰に認めてもらいたいわけでもない。後押しや保障が欲しいわけでもない。僕が望んでもいない結末で、勝手に満足するな。どう終わらせるかだけは、そもそも終わらせるかどうかだって、僕の自由だ!
「クソガキがああああああああああああ!」
往来で大絶叫する僕を、散り散りになった子どもたちや、近所の住民たちが遠巻きにながめている。目を離せないくせに、目を合わせてやるとすぐそらす。
僕は地面を蹴った。僕のために人の波が道を開ける。のろまなガキにはすぐ追いつける。あいつらはかたつむりのようにしか前へ進まない。魚っ子スイミングスクールまでの道のりにも、とんでもない時間をかける。大人なら急ぎ足三分で済むところをだ。
悔しくて悔しくて、唇を噛んだ。血の味がにじみ、「あああああああああああ!」と叫ぶしか能がなかった。大人になっても、言葉にできない。普段使っている無駄な語彙は、どこへ落としてきてしまったのだろう。まきびしのようにばらまかれているのなら、ガキどももそれらを踏んで少しは大人になるだろうか。
交差点に二人はいた。横断歩道の向こう側には、彼女のママが立っていた。
「ママー!」
彼女の呼びかけに、ママが微笑んで手を振る。振った瞬間、強い風がななめに吹きつけた。思わず目をつぶってしまうような、激しい突風だった。
「あっ」
短い叫びとともに、ママがかぶっていたつばの広い帽子が風にさらわれた。横断歩道のど真ん中、ちょうど黒い線のところに落ちる。タクシーが遠慮なく走ってくる。なにせ、まだ信号は変わっていないから当たり前だ。なのに、赤色を彼女は無視した。「ママの帽子!」と小さな体を目いっぱい躍動させた。心優しい子だけれど、おばかさん。ルール違反は彼女のほう。
僕はさっきよりも強く地面を蹴っていた。けれど、僕よりも先にスタートを切ったやつがいる。タカハシくんだ。
タカハシくんは帽子をつかんだまま座りこんだ彼女に、思い切りタックルした。彼女は対岸まですべりこみ、ママがあわてて駆けよる。
もしかしたらそのとき、タカハシくんはにやりと笑ったのかもしれない。タカハシくんを見る彼女の顔が苦痛でゆがんだからだ。なんだそれヒーローかよ。
「ふざけんなあああああああああああああああああ!」
本気で頭に血が上って、僕は力のかぎりタカハシくんを蹴り飛ばした。ボールみたいに軽い体しやがってクソが! いっちょまえにかっこつけてんじゃねえぞ!
タカハシくんは泣き叫びながら宙を浮いて、向こう岸にゴールした。ざまあみやがれ。かっこつけるなんざ二十年早いんだよ! 大人、なめん……
「なっ!」
ブレーキという機能を知らないんじゃないか。むしろアクセル踏みこみましたか? そう疑いたくなるくらいの猛スピードで、タクシーは僕の体を撥ね飛ばした。タカハシくんの比にならないくらい、僕は空を高々と飛んで、十分な滞空時間を取ってから全身全霊で地面に着地。そこにまた別の車が容赦なく突っ込んでくる。撃沈。ベビーカーに轢かれたしーちゃんの右腕も、こんな感じだったのかなあ。
痛いとか痛くないとかわからない。そういう次元の話じゃない。唯一、じんじんしびれているなあ、と思うのは、彼を蹴った右足の甲だけ。
右にいるのか左にいるのか上か下かもわからないけれど、タカハシくんのど派手な泣き声が聞こえる。頭にガンガンひびくくらい聞こえる。ざまあみろ。ふはははは、ざまあみろ……ざまあ……
「タカハシくんを……タカハシくんをかばってくれたんです、あの人! 助けてください! 助けてくださーい!」
彼女のママのとんでもない勘違いが炸裂する。そんなわけないだろ! あんなクソガキ助けるわけないだろ! ひどい仕打ちだよ、ママ! いや、あなたそもそもママってガラじゃないよ、お母さん! お母さん、あのね! 僕はあなたの娘さんをですね……あなたの娘さんを…………僕に………………僕…………………………
「あの人、ダンスしてるみたい」
不意に彼女の無邪気な声が聞こえる。なるほど、本当だ。
上空から見下ろした僕の体はくねくねとありえない方向へ曲がり、常識を超えた素敵なダンスをしているように見えなくもなかった。