第55話 突風は絶望の向かい風
――――――魔物ラハス。
かつて、風の魔神パズズと間違われた魔物であり、伝承のパズズに似た特徴を持った亜人型の魔物である。
その正体が明らかになった時、時の魔物学者が “ パズズの嘘 ”と呼称。そこから数百年を経て現在に至る中で変化してゆき、ラハスの名で定着した。
魔神パズズが人間を欺くためについた嘘がこの魔物になった、などという真偽不明の伝説がささやかれているほど、有名かつ強力。
亜人型といっても四肢があって二足歩行というだけで、その外見はかなり異形の存在だ。
―― ネコ科動物が混じっているような、しかし愛嬌のない険しくも醜い顔。
―― そのまま爪が長く伸びたかのような獅子の手。
―― 獰猛な鳥類の足とサソリのような尾。
―― 背にはためかせる4枚の翼。
それがのっしのっしと二足歩行で普通の人間の如く歩く姿は、あるいは和やかな会話が成立しそうな気さえしてくるほど、堂々として悪びれず、町に溶け込んでいる。
しかし……
「(マズイ、こいつは……このヨゥイは危険すぎるっ)」
その大人しそうな立ち姿や振舞いからは想像つかないほどに狂暴かつ獰猛。当然、会話など成立する相手ではない。
「こんなヨゥイがこんな場所に出没するはずが……」
つい嘆き漏らしてしまう。
ラハスは、強い風の日を好んで活動する魔物として有名なため、この砂嵐の最中に出現したのはさほど不自然ではない。
問題は獰猛で知られるはずの魔物が閉鎖的なこの町の、しかもど真ん中に突如として現れたことだ。
「(砂嵐と共にやってきたのであれば町の入り口か、あるいはあのドームの外にまず降り立つはず。だが、明らかに騒ぎになったのはたった今、しかもこの町のど真ん中と言える場所でだ……ありえないぞ、この状況は)」
考えながら、リュッグは非常にゆっくりと後ずさる。シャルーアの手を握ったままラハスから視線を外さず、可能な限り強い闘争心を眼力に込める。
視線を外して全力で逃げ出そうとすれば、間違いなく襲い掛かられるだろう。
「……リュッグさま」
「シャルーア、こっちを見るな。あの魔物を睨み続けるんだ、決して視線を外すなよ……」
リュッグもシャルーアの方を伺いはしない。この距離で対峙してしまっている以上、視線を外した瞬間に攻撃してくるのは確実。
しかし、この時のリュッグ達には非常に悩ましい問題があった。二人とも何一つとして武器を持っていない。
『フルルル……』
それは鳴き声ではない。翼を微細に振動させている音―――いつでも翼をはためかせ、空を飛ぶなり低空を滑空なり動きだす気でいる事の証。
つまりラハスは、隙さえ見つければリュッグ達に襲い掛かる気満々でいるのだ。
「こいつはかなり強い。そして困ったことに、こっちを攻撃する気十分なようだ。いいな、絶対に目を離すな? 襲い掛かってきたら避ける事と距離を置く事……とにかく自分の命を守り、生き延びることだけを考えろ。これは絶対だ、決して俺を助けようとはするな、わかったな」
リュッグの口調は極めて厳しく、まるでひどい悪さをした子供を叱り、説教をするかのよう。
緊張感が今までの比ではない。以前、アズドゥッハとの戦いの前にミルスに対して怒気すら含んでいた時よりも、状況は危険で鬼気迫っているものだとシャルーアは感じた。
「……かしこまりました」
もちろんリュッグを見殺しにしなければならないような状況に陥らないのが一番。
しかしシャルーアも覚悟を決めた―――もしも、そんな状況になってしまったら言われた通り決して助けようとはしない、と。
『フルルルルルル……』
翼が奏でる振動音が大きくなる。それから1秒経過したかどうかの間をあけて、異形なるモノは動き出した。
ブォッ!!
翼で自身の背後の地面を強く仰ぐ。前のめりに倒れるように傾く身が一気に加速し、地面を高速に滑空した。
『フーゥハァーッッ!!!』
声のようにも聞こえる奇声を発しながら、ラハスは急激に二人に迫る!
振り上げた両の爪は、狙い定めた標的をバツ字に切り裂かんと振るってきた!!
「やはりなっ!!」
ドゴッ!!
『!?!?!』
ラハスの爪は空をきった。狙われたのは他でもないシャルーア―――しかしそれを読んでいたリュッグは、迫ったラハスを横から思いっきり蹴り飛ばした。
「知能が高いとはいえ、こういう時の判断基準は生物のそれだ。身体の大きさでこちらの強弱を判断すると思ったよ!」
武器のないリュッグがこの場をしのぐためには、これまでの傭兵経験で培った知識と経験をフル活用するより他ない。
そんなリュッグは、蹴飛ばされて地面に転がったラハスに隙ができたからといって、決してシャルーアを先に逃がすようなことはせず、変わらずその手を握り続ける。
もしも “ この隙に逃げろ! ” なんてやったら、最悪の結果になるのが目に見えているからだ。
根本的にヨゥイと人間では身体能力が違い過ぎる。全力で走って逃げても、簡単に追いつかれて引き裂かれる未来しかない。
シャルーアを守るためにはこの場合、むしろ一緒にいる方が安全なのだ。
『ハァー、ハァー……』
身を起こしながらリュッグを睨むラハス。
怒るよりもむしろ冷静に “ この人間は手強い ” と見たようで、その場で立ちあがった後は、翼を鳴らすことなく慎重にこちらを伺いはじめた。
横に数歩。
二人との位置関係を慎重に吟味するようにジリジリと動くが、距離を詰めて来ようとはしない。
猛烈に攻撃を繰り返してこられないだけマシだが、だからといって状況が好転しているわけでもない。リュッグは苦々しい気分で奥歯を噛み締めた。
「(こんなヒリつくような戦闘はいつぶりだ? しかも武器も道具もなしの上に、護る対象アリ。こちらの条件は最悪ときている……どうする?)」
また蹴るか、掴み合いをして地面に叩きつけるか、シンプルに殴り飛ばすか……
どれを選んでも勝ち目がなさすぎると苦笑する。
ここが俺の最後になるか―――転がっている町人の、血だらけの死体と自身が重なる不吉なイメージが、生々しく彼の頭にこびりついて思考を阻害する。
死の恐怖が沸き立ち、強い緊張が内側から彼の身を焦がしても、リュッグは強く精悍なる表情を保つ。
決死の戦闘を覚悟すると、長く深い息を一つ吐いた。




