第37話 妖精の君
ドッドッドドドッドドッ……
それは心臓の音。
激しく、そして不整脈とも言える鼓動だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……と、とんでもないものを見てしまった。何たることっ!」
淡黄色に近い薄褐色肌の大男が、治療院の外でしゃがみ悶えている様は、通りかかる誰の目から見ても怪しい。
しかし今の彼に、そんな大衆の視線を気にしている余裕はなかった。
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数日前。
ジウ王国の将軍、サーレウ=ジ=マーラゴウ将軍は、国境付近の一個師団を束ねる身として上層部に偵察のための潜入計画を奏上。
そして部下に任せるのではなく、自ら敵国であるファルマズィ=ヴァ=ハールへと入り込んでいた。
そしてリュッグ達に先んじること昨日、このワッディ・クィルスの町に到着。
天然の要害たる地形を詳しく知ろうと真面目な目的で訪れたこの町で、彼は迂闊にも怪我を負ってしまった。
100mの断崖絶壁からうっかり滑落し、途中20mほど下がった場所の出っ張りに着地。
結構な身体の広範にわたって擦り傷を作ってしまったが、それをものともせずに崖をよじ登り生還。
そして今、治療院に怪我の手当をお願いしようとやってきたわけなのだが……
「ぐううう……何たる、何たること……っ、この世で最も尊いものを拝んでしまったっ、我としたことが何たるっ」
鼻血が両の穴から流れる。打ち震える我が身を懸命に奮い立たせ、しかし慎重に、そして怪しまれないよう――すでに十分怪しいが――もう一度、さりげなく窓から中を伺わんとしてしまう。
彼が見てしまったもの、それは――――カーテンの隙間に垣間見えた治療院の中の様子。
しかも、シャルーアが上半身裸の状態で注射を受けて喜悦の表情を浮かべている姿が、そこにあった。
―― 再び妖精の君に会えたという感動。
―― そのバストを拝んでしまったという罪悪感と興奮入り混じる衝動。
―― 無表情な事が多い彼女の、恍惚とした表情を直視した感情の昂ぶり。
「(いかん、いかんぞ……祖国の命運を左右する立場にある者としてこのような不埒な真似は! し、しかしっ!)」
心臓がドックンドックン打ち鳴らされる。時間が1秒にも1時間にも思えてくる。
目の端だけで、怪しまれないように目の端だけで今一度……
しかし、偶然の奇跡を望み過ぎるのは愚かだと言わんばかりに現実が付きつけられる。
「おい、そこの! そんなところで何をしているッ?」
「!! あ、いや……何というわけでは、これから治療院にご厄介になろうと向かうところで……」
巡回中の町の兵士に声をかけられ、マーラゴウ将軍は慌てつつも、自分の擦り傷を見せた。
「なんと手ひどい。魔物にでもやられたのか?」
鍛えられた大男たる姿を見て、兵士は彼を傭兵か何かと思ったのだろう。まさかうっかり崖から落ちて怪我をするような類の人間だとは思いもしない。
「あ、ええ…まぁ。し、退けはしたんですがね、ハッハッハ。では私めは治療に行きますのでこれで!」
シュタッと片手を挙げ、兵士の前から去る。
治療院に来たのは本当だし、そそくさと入り口の方へと回る。しかし……
「(? ……なんだ、感覚が……おかし、い―――――)」
そこで彼の意識は途絶えてしまった。
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『……ウさ……、ゴ…さん……、……ぅぶ…すか……ゴウさん……?』
誰かが彼の名を呼ぶ。遠くなった意識が徐々に引き戻されて――――
「ハッ?! ……こ、ここは…―――!!? よ、妖精の君っ!?」
ベッドの上。自分の右手を握る褐色の美少女。
マーラゴウ将軍の全身の熱が一気に沸騰する。
「お目覚めになられたようで何よりです、ゴウ様。うなされていらっしゃいました、お怪我の具合は大丈夫ですか?」
違う意味で大丈夫ではなかった。
本日何度目か分からない、心臓の激しい打ち鳴らしに晒され、頭もよく回らない。
「なななな、なぜ、あ、あな、貴女がこここ、ここに???」
「お、意識が戻ったのか。よかったですね、ゴウさん、お久しぶりですがこんなところでまたお会いするとは」
病室に入ってきたリュッグが何やら荷物を運びこむ。それは他でもない、マーラゴウ将軍の手荷物だった。
「そ、それは!」
「ええ、外に散乱していたあなたの荷物です。覚えていますかね? 大量出血で倒れてたんですよ、この治療院の前で」
ようやく彼の頭に理解の色が浮かんでくる。
そして自分の身体を確認すると真新しい包帯で覆われており、怪我の治療は済んでいた。
「医師の話じゃあ出血多量で普通なら結構危なかったらしいですよ。ですが体力があるので輸血と怪我の処置だけで済んだと言ってました。もう大丈夫だそうですが、血の量がしっかり戻るまで2、3日は安静が必要だと」
リュッグの説明で自分の状況を把握し、一気に落ち着きが戻ってくる。すると今度は気になることが彼の頭の中に沸き立ってきた。
「そ、そうですか……ご迷惑をおかけし、申し訳ない。ところでその、我……私の荷物の中を見たりは……?」
「ああ、ご心配なさらず。見ちゃいませんよ。雇われ仕事の身としては誰かに見られたくないものもあるでしょう。こちらも傭兵を生業にしている身、そこらへんは分かっていますよ」
マーラゴウ将軍はホッとする。手荷物の中には正体を辿られかねないような品物も入っている。敵国の軍人と知られるわけにはいかない。
「それでゴウさん……彼女も怪我で2、3日はここで安静しなければならないんですが、私が留守の間はどうか仲良くしてやってください。シャルーア、ゴウさんに迷惑をおかけしないようにな」
「え? は、へ……あ、はい……」
大男の容貌からやや間の抜けた返事が返ってくるが、リュッグはまだ目覚めたばかりで意識がおぼつかないのだろうと、たいして気にしないことにする。
「はい、リュッグ様。いってらっしゃいませ」
シャルーアもリュッグの言いつけをしかと守ると、仕事で治療院を後にする彼を見送った。
マーラゴウ将軍だけが状況に置いてけぼりだが、要するにリュッグがシャルーアの傍から離れてる最中は、入院中の同室者としてよろしくというだけの話。
しかし、マーラゴウ将軍にとっては再び気を失うレベルの出来事であった。
妖精の君と一方的に慕っている異性と同じ部屋で過ごす―――退院まで彼の精神が果たしてもつのか。
その気持ちを微塵も知らないシャルーアは、自分のベッドの傍らからリュッグが差し入れで持ってきた果物の一つを手に取っておすそ分け精神で差し出し、知らず知らずに、さっそくクリティカルダメージを彼に与え始めた。




