7 水の都
一カ月後。
予定よりも早く、私はフランシスカに旅立つことになった。
「エレーヌ元気でね。アルフレッド様を困らせないようにね。あまり我が儘を言ったらだめよ」
両手を握り、泣きじゃくるエレーヌを宥めながら、姉として伝えられることを口にする。
「うん、ノエルも元気でね。絶対に遊びに来て。何かあったら、すぐに手紙をちょうだい。意地悪されたら言って。助けに行くから」
こんな時でも、私を心配してくれるエレーヌが可愛くてたまらない。
これが最後になるかも知れない。王妃ともなれば、公務でないと他国へは簡単に行けないだろう。フランシスカとアルフォンスでは、馬車で二週間はかかる距離だ。
気軽に行き来出来ない。
――最後に、可愛い私の分身を脳裏に刻み込む。
「ええ、ありがとうエレーヌ。大好きよ。絶対に幸せになって」
私の分まで――。
声に出せない気持ちを心の中で強く願ってん抱き締めた。
でも、この時間も長くは続かない。
「……もう行くわ。お兄様とブランカ様にも、大好きだと伝えて」
そう言うと、エレーヌは怪訝な顔をした。
この場にお兄様達はいない。
前日に隣国へと急に出向く用事が出来たのだ。
数時間前に、私がフランシスカに旅立つ時刻に戻れないと、早馬で知らせがきた。
どうしても会いたいから、待っているようにと手紙には書いてあった。
だが、顔を合わせても、お互い気まずい思いをするくらいなら、会わない方が良い。
だから待たずに行くと決めた。
「ノエル様!」
モリーが泣きながら引き止めるように、私の腕を取る。
泣き晴らした目は、あの時の事情を知っているモリーだから。
エレーヌには言わないと言う約束は守ってくれた最高の侍女だ。そのモリーが、訴えるように私の腕を強く引く。
「エレーヌを頼むわね。天真爛漫すぎて気づかない子だから、モリーが支えてあげて。今までありがとう。たった三年間だけど楽しかったわ」
モリーはエレーヌと一緒にアルフォンス王国へ行くことが決まっている。お兄様に、私は侍女はいらないと申し出た。
私に何かあると巻き込んでしまう可能性がある。出来るだけ身軽な方が良かったから。
困ったように微笑むと、二人がまた泣き出した。
その後ろからも侍女達のすすり泣く声が耳に届く。
「お兄様に伝えて。ごめんなさいと。そして、あの時、助けに来てくれて本当に嬉しかったと」
私がなぜ謝るのかわからないと、エレーヌが不思議な顔をする。
「ブランカ様にも、ごめんなさいと。お兄様を頼みますと伝えて。もう行くわ。幸せになってエレーヌ。今のままのあなたが好きよ」
最後に、私にそっくりな分身に、憎んでも憎みきれない可愛い妹の額に口付けを落とす。
そして見送ってくれた皆に、泣くことなく最高の笑みを浮かべ、優雅に馬車へと乗り込んだ。
いつまでも聞こえるエレーヌの泣き声を聞きながら。
「ノエル様、ご説明をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
アゲートを出発してしばらくすると、馬車の中で向かい合わせに座っていた女性が、にこやかに口を開いた。
私よりも少し年上のふわふわとした甘いお菓子のような、可愛らしい女性。淡い栗色の髪に深い緑の瞳が印象的だ。
「はい」
言葉少なに返事を返す。
「三日ほどで、我が国フランシスカへと到着します。もうしばらくすると今夜の宿泊先であるシャトーへと到着致します」
女性を見つめながら話を静かに聞いていた。
これから一生囚われることになる国の話を。
女性によると、フランシスカは海と山、両方に囲まれる非常に珍しい地形だと言う。
それにより海からの侵入は渦潮によって阻まれ、フランシスカの漁師でないと船ごと海に沈むらしい。
山は奥深く、常に霧が立ち込める自然の要塞だと言う。
迷いの森と呼ばれるほどで、他国からの侵略を今まで許したことはないと、女性は胸を張った。
海と山、その恵みにあやかり、食べ物に困ることもなく、独自の文化が発達していた。
街中に水路が造られ、主な移動手段は船やゴンドラ。建物は頑丈な石造り。
人々は陽気で音楽が溢れている。
「フランシスカでは、貴族の皆様が日頃から仮面を身に付けております。それぞれが個性的で楽しませてくれますよ」
にこにこと誇らしげに話してくれるこの女性は、自分の名前を名乗るのも忘れるくらい、国の説明に熱心だ。
だが、ずっと気を張っていたからか眠くなってきた。
頑張って女性の話を聞いていたが、いつの間にか、馬車の揺れに身を任せ眠ってしまった。
そして、三日が過ぎた。
すると、目指していたフランシスカが見えて来た。
「あれがフランシスカ……」
馬車の窓から遠くに見えたのは、海に浮いて見える石造りの建物の数々。
鮮やかなコバルトブルーの海に、灰色や真っ白な石造りの建物。それが積み重なるように斜面に建てられていた。
「はい、一番上の大きな建物が王宮でございます」
にこにこと、何かある度に説明してくれる女性はシシィと名乗った。
三日目の朝、やっとで名前が判明したのだ。
私がシシィの名前を呼ばないのを不審に思ったらしく、シシィが不思議そうに聞いてきた。
それに対し、私が、ただ一言『聞いていません』と返すと、自分の失態に気づいたのか、顔色をなくし、床に頭が付くほどの低姿勢で謝まってきた。
その後、名前と年齢を教えてくれた。それによると、自分より五歳上の二十四歳だと言う。
「もうすぐフランシスカの領内に入ります。そこに行くには……もうすぐです。ここを抜けなければなりません。常に監視の目が光っております。不審者は通れませんのでご安心下さい」
シシィが教えてくれた途端、辺りが影で覆われた。
外を見ると左右はごつごつとした崖に囲まれている。その崖に囲まれながら進むのは、見通しの良い一本道。
これが、フランシスカが他国から侵略されない理由だと言う。
フランシスカに行くには、国の正門へと蛇行しながら続くこの道と、もう一本別の道しか手段がないとのこと。
左右の崖は圧迫感さえ感じるが、道幅は広く、馬車も余裕で行き来出来る。
だが、もしも、崖の上から襲われたらと思うと気が気ではない。
「心配いりませんわ。ノエル様。崖の上には兵士達の宿舎になっておりますので、不審者はすぐに捕まります」
心配していたのが顔に出ていたのか、シシィが丁寧に説明してくれた。
しばらくは、草花すら生えていない、岩肌が向き出しの道をひたすら走り続ける。
すると、聞こえてくる鳥の鳴き声に、身体がびくりと反応した。
落ち着かなくなり、馬車の小窓から恐々と外を確認する。
実は、お兄様達にも言えなかったことがある。あの舞踏会以来、誰かに見られている気がしてならないのだ。
それも、アゲートを早く出たい理由だった。
これ以上、大切な人に何かあったら大変だから。あの日聞いた鳴き声は、確証はないけど、あの男の飼っていた鷹に良く似ていた……。
赤い瞳の鷹に。
「ノエル様は動物はお嫌いですか? 怯えなくても大丈夫ですわ。人を襲って来るような獰猛な猛獣はいませんから。ご安心下さい」
シシィに、気づかれているとは思わなかった。
「……ええ。嫌いです」
体が震えているのを悟られないように、細心の注意を払う。
のんびりしている侍女だと思っていたが、もしかしたら、今までの姿は、私を探るための演技かも知れない。
気をつけないと……。また、あの時のように裏切られるかも知れない。誰も信じない。味方はいないのだから、一人で頑張らないと。
「ノエル様、もうすぐ王宮です。王宮に着きましたら、まず湯浴みを。衣装合わせをしてお食事になっております。その後は予定はありませんので、ごゆっくりとお休み下さいませ」
考え込んでいたら、シシィが、この後の予定を教えてくれた。
「すぐに、皇帝陛下や王太子様に謁見ではないのですか?」
まだ太陽が真上に上がったばかりで、時間はたっぷりとあるはずだ。なのに、どうして、予定に組み込まれていないのだろう。
怪訝な顔をシシィに向けると、困ったように苦笑した。
「実は、皇帝陛下と皇妃陛下は、隣国へ行ってらっしゃいまして、フランシスカにはいらっしゃいません。毎年、この時期はワインの出来栄えを確認に行っております。あと、三日はお帰りになりません」
いない?
毎年のことなら仕方ないわ。でも、なら、どうして、私はこの日にフランシスカに来ることになったのだろう。陛下達が不在なら別の日でも良かったのに。
あ……もしかして。お金と引き換えに迎える花嫁は、やはり、必要ないのかも知れない。
考えれば考えるほど気持ちが重くなる。
「ノエル様。それと、王太子様も急遽、国境へ向かわれたそうです。今日はお帰りになるかわからないと。先ほど、早馬で連絡がございました……」
シシィが申し訳なさそうに頭を下げた。
「……大丈夫です。問題ありません」
そう言うと、また窓へと視線を戻すと、困ったようなシシィの声がかけられた。
「ノエル様。私に敬語を使う必要はございません。侍女達にも同様です。ノエル様はフランシスカにとって大事な方ですから」
その言葉が本当だったら良いのにと心から思う。
でも、頑なな私の心は、信じられることが出来なかった。
「わかりました……」
淡々と返事を返すと、今まで明るかったシシィの表情が曇るのを見逃さなかった。だが、それも一瞬で、すぐに微笑みを浮かべた。
それから、当たり障りのない話を続け、フランシスカで一番見晴らしの良い場所に建てられている白亜の王宮へと馬車は止まる。
先にシシィが馬車から降りる。
ゆっくりと深呼吸をすると「大丈夫」だと自分に言い聞かせた。
シシィに促され、緊張しながら馬車から降りる。
すると、アゲートでは感じなかった暑さが肌に突き刺さり、潮の香りがする爽やかな風が髪を巻き上げた。
その風に促されるように視線を崖下に向ける。
そこには、宝石のようにきらきらと光る青い海原が広がっていた。
「……綺麗」
初めて見る光景に目を奪われる。
書物や人づてには聞いていたが、こんなにも広大で美しいとは思わなかった。
空か海かわからなくなるくらいに広がる一面の青。太陽の光が降り注ぎ、きらきらと輝く水面は、ずっと見ていたいと思ってしまう。
しばらく、その場から動くことが出来なかった。
「ノエル様」
どのくらいそうしていたのだろう。
シシィの声に我に返る。慌てて振り返ると、王宮の入り口には、出迎えてくれている大勢の人の姿。
景色に見惚れ気づかなかった。
「慌てなくても問題ありませんわ。フランシスカの景色はいかがですか?」
「とても、綺麗です」
率直に感想を述べるとシシィが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。この国では、雨が降ることは滅多にございません。ですので、毎日のように、この景色が見れますわ」
シシィに説明されながら王宮内へと進んで行く。