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29 天使の歌声②

 涙が頬を伝う。幾度となく流した涙は、まだ枯れることを知らない。止めどなく溢れるそれは、ユーリの頬を静かに濡らす。


「ええ、あなたが私を呼ぶから雨が居場所を教えてくれるのよ。あなたは……ここにいるのだと」


 降り続く雨は、ポツリポツリとジェイドの顔も濡らしていく。それを指で優しく拭った。


「ノエル、約束を守ってくれて……ありがとう。辛かっただろう?」


 苦しそうに胸を抑えるユーリの手もまた血で染まっている。


「気にしないで……ユーリのためですもの。大丈夫よ」


 雨なのか、自分の涙なのかわからない雫が、ユーリの頬をいくつも流れる。血で染まっている手に、そっと自分の手を重ねて強く握りしめた。


「まだ、やり残していることがある……。それをやり遂げないと、逝けない。あいつの元へは」


 私ではなく、遠くを見つめたその目はひどく穏やかだ。

 最後までユーリの心は、別の女性のものだと教えられる。これもユーリの優しさなのだろうか。自分のことは忘れろと、前を見ろと言われている気がした。


「……ええ、わかっているわ」


 ぎゅっと強くユーリの頭を抱え込み、周りに話が聞こえないようにする。

 傍から見れば、別れを惜しむ愛し合う二人に見えるだろう。誰もが誤解をするはずだ……。囚われた王女は、本当は自分の意志で男の元に残っていたのだと。


「ノエル。……耳を澄ませるんだ。聞こえてくるはずだ。あいつが、この状況を把握していないはずがない。この体から離れることはまずない。矢は……何本ある?」


 苦しそうに息を乱しながら、二人にしか聞こえない声で会話を交わす。


「一本だけよ……外せないわ。ジェイドはどうしたの?」


 ずっと疑問だった。ジェイドが出てこない。あの男なら真っ先に今の状況を楽しむはずだ。それに、器となる身体をここまで傷つけられて黙っているとは考えられない。


「矢の力だ……。ノエルが放った弓矢の力で抑えられている。その分、鷹の力も弱まって、鷹自身も深手を負っているはずだ。狙うなら今だ」


 それなら、私でも仕留められるかも知れない。同じ失敗は許されない。


「覚えているか。教えたことを……雑音を聞くな。風と会話しろ……ただ、求めている物だけを心に留めろ」


 苦しげなユーリを更にきつく抱きしめ、うんうんと首を縦にふる。


「もうすぐ闇が訪れる。迷わずに射抜け」

「簡単に、言わないでよ」


 最後は小さな悲鳴になった。


 ずるい……ずるいよ、ユーリ。私の気持ちも、わかっているくせに。

 私がどれほどユーリを大事に思っていたか知っているくせに……。残酷なことを 淡々と言うなんて。これが最後になるかも知れないのに。

 鷹がいなくなると、ユーリもいなくなると知っているから。


「すまない、ノエル。辛いことばかり頼んで。君と過ごした時間は、楽しくて、とても充実した日々だった」

「本当に……?」


 嘘でも嬉しかった。愛した女性の姿を私に重ねていたとしても、あの日々は、私にとってもかけがえのない思い出となったから。


「――聞こえるか? ノエルなら出来るよ」


 顔を上げると、ユーリが弱々しく笑った。その笑顔が、大好きだったあの日を思い出させる。


「……愛していたよ、ユーリ」

「ああ、わかっていたよ。ノエルの気持ちは……応えることは出来なかった。そして、今の気持ちも知ってるよ」


 ぎゅっと、もう一度抱き締める。


「ノエル……伝えないと、言葉にしないと、相手はわからないよ」


 知っている……エレーヌにも言われたから。黙っていては何も変わらないって。


「そんな顔をするな。大丈夫だ、あの天使ならノエルを受け止めてくれる」


 アンリのことは何も言っていないのに……いつもそうだ。ユーリは何も言わなくてもわかってくれた。私を理解してくれた。だから何も伝えなかった。


「話し合え。そしたら……来たぞ、ノエル。チャンスは一度だ。頑張れ……」 


 苦しそうに重ねていた手を握られる。

 もう少し話したかった。でも、もうユーリの体も限界だった。


「見ていてユーリ。戻ってくるから、それまで必ず待っていて」


 頷く力もないのか、ユーリは私を見て目を静かに閉じた。

 もう一度ユーリを抱きしめた後、ゆっくりと地面に寝かせる。

 弓を拾い立ち上がる。振り返ると、その場にいる大勢の視線が私に突き刺さった。私が何かするのかと、緊迫した空気が辺りに満ちた。


 そんな中、あの忌まわしき鷹の微かな鳴き声を、神経を集中して声を拾う。

 じっと耳を澄ましていると、太陽が姿を完全に隠し暗闇が支配し始めた。

 あれほど強く降っていた雨も上がり、月明かりが重い雲の合い間から差し込み始めた。


「ノエル! 大丈夫? あのね、話があるの。凄く大事な話なの」


 エレーヌが血相をかいて駆け寄って来るのを「こっちへ来るな」と制止した。


「ノエル……?」


 私の纏っているピリピリとした空気に気付いたエレーヌが、恐々と歩みを止めた。

 風に乗り微かに、ピ――と言う独特な泣き声が耳に届く。

 矢筒から最後の矢を取り出し弓に固定する。手には、ユーリの流した血がこびりついている。その血に心を痛めながら、弓を構えて弦を思いっきり引いた。


 その先には……驚き、目を見開くアンリの姿。


 月明かりに照らされる不思議な色合いの、白銀とも金色とも見える見事な髪。フランシスカの空のような濁りのない青い瞳に、何度癒され助けられたか。

 そして、片目が違う色のない透明な白は、殻に閉じこもっていた私に、そこから何色にでも変われる力があると、力強く教えてくれた。


 あなたのその優しさも、たまに見せる悲しそうな笑顔も、日を追う事に愛おしいと、傍にいたいと思ってしまった。

 許されはしないのに……少しだけでも望んでしまったの。


「ノエル! 何をしているの? 誰に弓を向けているのかわかっているの? ノエル! 違うのよ……その人は」


 悲鳴を上げるエレーヌを、周りが危ないと強引に引き止め、安全な場所へと連れて行ってくれた。

 アンリの前にも騎士達が庇うように集まろうとするが、アンリ自らが首をふって止めた。

 アンリ自身は動揺すら見せずに、ただ静かに見守っているだけ。

 私を見つめるだけで目を逸らさない。まるで、私が何をしようとしているのか、わかっているかのように。


「……ごめんなさい」


 消え入りそうな声で呟くとアンリが笑った気がした。

 ひどく優しく、そして切なく……。

 涙が溢れそうになるのを必死で我慢した。

 ふわりとそよぐ風は、私の髪を優しく巻きあげる。その風が収まるのをじっと待つ。弦のきしむ音を限界まで引き出しながら。


一瞬だった――。


 弓矢を放す瞬間、弓自体が淡く光輝き、すべてを闇へと落す黒から、新たな希望が生まれる白へと姿を変えた。

 パン――と言う、こきみよい弾ける音と共に、一歩も動かず逃げないアンリの右頬を矢がかすめる。


 狙いは……アンリの後ろの木の枝に止まっている赤い目の鷹。

 直接狙っても、また逃げられる。なら……別の誰かを狙っていると思わせて矢を放った方が油断させられる。

 すぐに、ピ――と言う苦し気な泣き声が静かな湖に木霊した。

 一斉に人々が、その方向を確かめようと振り向いた時、駆け出した。


「やっとで……捕まえた」


 暗闇に、一本の矢が突き刺さった鷹は、その羽を大きく広げ忌々しげに私を睨む。その瞳は血のように赤く染めていたが、徐々に暗く濁っていく。


「あなたのせいよ。あなたが来なければ誰も傷つかなかった」


 それ以上、言葉にならなかった。

 泣いて喚いて、罵ってもユーリは元には戻らない。もう遅いのだ……。

 鷹は何かを言おうと羽を動かそうとするが、呆気なく、すぐに力尽きて瞳を閉じる。しばらく見ていると、鷹の身体から赤い光が放たれ、炎に包まれる。


「なによこれ! ノエル……これは一体何なの?」


 後からは、護衛達が止めるのも聞かずにやってきたエレーヌが、炎に包まれている鷹を見て小さく悲鳴上げた。騎士や兵士達にも動揺が走り、辺りは騒然となった。

 これで、すべてが終わる……。あの悪夢からやっとで解放される。

 鷹の姿が跡形もなく燃えつき、黒い塊へと姿を変えたのを確認すると、ユーリを思い出した。


 慌てて踵を返し湖のユーリの元へと向かう。


 途中、アンリの姿を視界の端で捉えたが、苦い気持ちを押し込め、最後の瞬間に立ち合うためにユーリの元へと走る。

 倒れたままのユーリの体にもまた、赤い光が集まっていた。


「ユーリ!」


 まだ逝って欲しくなかった。最後にユーリの幸せな笑顔が見たかった。

 赤い光を気にすることなく抱き抱え、ユーリの名前を叫び続ける。すると、弱々しくユーリが目を開いた。


「ユーリ、終わったよ。すべてが終わったよ……。だから、だから……」


 何と言えば良いかわからなかった。最後に何を伝えれば良いのかわからない。

ユーリの頭を抱え、子供のように泣きじゃくる。


「ノ……エル」


 私の頭に触れたのはユーリの手。その手に驚き顔を上げる。


「ユーリ。私……私ね」


 私の言葉に、最後の力を振り絞るようにユーリが頷いた。その顔はとても穏やかだった。


「ノエ……ル。歌を、歌って、くれないか」

「……うた? 上手く歌えないよ。それでも、良い?」


 ゆっくりと頷くユーリを見て、思わず笑みが零れる。

 いつも私の歌を好きだと言ってくて、どんな時でも励まし包み込んでくれた。

 ユーリが上手だと言う度に、もっと上手くなりたいと練習した……。あなたに褒められるためだけに。


「大好きよ、ユーリ」


 今にも消えてしまいそうなユーリの額に、最後の口づけを落とす。

 赤い光がユーリの全身を包み込み赤く染め上げた。

 精一杯息を吸い込むと深呼吸をし、そして口を開き声を風に乗せた。風が歌声を助けるように重なり合い、光の粒となりユーリへと届ける。


 歌うのは、ユーリが幼き頃から歌い継がれていた子守唄。


 ユーリが、いつも褒めてくれた大好きな曲。これを聞くと良く眠れるからと、毎晩必ず歌い、ユーリの幸せな寝顔を眺めるのが大好きだった。

 良く眠れるようにと、悪夢にうなされないようにと、ユーリのためだけに歌い上げる。あなただけを見ていた時間、私は幸せだったと。

 その歌を聞きながら、ユーリが満足そうに目を閉じるのを見届けると、一粒の涙を流した。


力が抜けたその様子から、すべての生を終えたことを感じ取った。



 悲しみを乗せた天使の清らかな歌声は、暖かな風に運ばれ街へと流れる。

 人々はどこから聞こえてくるのかと、家中の窓や扉を開け放ち、声の主を一目見ようと外へと姿を現した。


 一人の少年が空を指差し、一斉に人々が見上げたそこには金色に輝く月。その月に重なるように、白い丸い太陽が隠れるように見下ろしている。

 その姿が、暗闇に揺れる運河を照らし出した。

 祭りを恐怖で染め、人々の心に忌わしき出来事として語り継がれようとしていた仮面舞踏会は、この歌声により他国へと次のように伝わる。


 絶望が国を覆った時、清らかな天使の歌声が、すべてを浄化し光の中へと導いてくれた。

 月と太陽の光が交わる奇跡の瞬間は、その天使の浄化により、人々に幸せを運んだと伝承される事となる。


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