15 現れた天使
いつものように、窓際の床で横になり寝ていたら、ふいに目が覚めた。
誰かの足音に反応して目が覚めたのかと思い耳を澄ます。だが、何も聞こえない。
「ジェイドと会ったから……気になって眠れないのかな」
神経が高ぶっていて眠れないのかと息を吐く。
気を紛らわせようと外を眺めた。空には青みがかった神秘的な月が浮かんでいた。
「……綺麗」
その月に導かれるように立ち上がり、扉を開け階段を静かに下りる。
シシィ達も休んでいるのか、珍しく誰の姿も見えない。
裸足のまま中庭へと出た。
外へ出ると、気温が下がったせいか少し肌寒い。薄い夜着のまま出て来たことを、少し後悔しつつ歩き出す。
石橋を目指しながら月を眺めた。
フランシスカに来て、こんなにも穏やかに空を見上げたのは、初めてかも知れない。それくらい余裕がなかった。
月を見ていると無性に泣きたくなる。
この気持ちを、ぶつけられる人がいないから、憎いくらい綺麗に光る月に聞いて欲しかった。
「誰か……助けて。私を助けてよ」
頬に伝う涙は誰にも届かないと知っている。でも、叫ばずにはいられなかった。
しばらくフラフラと歩き、辿り着いたのは、アーチ状の石橋。
そこに腰を下ろし、足を投げ出すように水面に下ろした。
足が、水に付くか付かないかの距離に、もどかしさを感じた。それでも、足を動かし、つま先を水にひっかけ、水面に波紋を浮かばせる。
そのくだらない遊びが面白くて楽しくなってきた。
言えない思いをぶつけるように、水を遠くへと蹴り飛ばす。
辺りに水音が響き、風に揺れ木々が囁きあう。
「――楽しそうだけど危ないよ。意外と水の中は深いから気をつけて」
誰もいないと思っていたのに、ふいに、背後からかけられた声に身体が強張った。
……こんな夜中に庭に誰かいるなんて。この庭は、シャルワ様と私しか入れないと聞いていたわ。なら、この声は誰? シャルワ様の声でもないわ。……誰。
「眠れない? 大丈夫。ここは安全だから」
その声は、私を叱るでもなく、優しく語りかけてくる。
意を決し、恐々と振り返ると、そこには会いたかった……美しい天使がいた。
あの時と同じ、月明かりに照らされる姿は、白銀にも見え、金色にも見える不思議な髪色。瞳は右が青、左が――色のない白。
神秘的で無機質な色彩は人の匂いを感じさせない。
「……天使様」
気が付いたら泣いていた。
会いたかった……。あの時も、そして今も、孤独な時、天使様は私を見つけてくれたから。嬉しかった。
「天使……?」
私を見て、少し困ったような笑みを浮かべた天使様は私の隣へと座り込む。
「泣いていたの? 何が不安なのか天使に相談してみたら?」
天使様が、私の頬に触れ、流れる涙を拭ってくれた。
他の人なら逃げ出すが、天使様は私を助けてくれた人。安心出来る人。そう思うと、肩の力が抜けて心が揺れ動く。
天使様に伝えても良いだろうか? この人は私を助けてくれた人。優しくて強い人。でも頼っても良いの? 会ったのは二回目なのに……天使様は迷惑ではないだろうか。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
それに、確認したいことがある。大事なことを。
「天使様は、フランシスカの方ですか?」
「あなたが天使と言うのなら、それで良いのでは? 私は、あなたを絶対に傷つけません」
力強い青い瞳と神秘的な白い瞳……。すべてを包み込むような、その双玉を見ていると、今まで耐えていた辛い気持ちが抑え切れなくなった。
「助けて……助けて。どうか、あの男から助けて下さい」
堰を切ったように零れ落ちる悲痛な叫びは、天使にどう届くのか、わからない。でも、止まらなかった。
「どうしたら良いのかわからないの。私のせいで、エレーヌが、皆が不幸になる。でも、あの人も助けたいの……」
こんな説明だと天使様は理解出来ないだろう。でも叫ばずにはいられない。
本当はわかってる。全部を手に入れることは出来ない。どちらか一つだけしか選べないことを。
私は、選択しなければならない。
「エレーヌ様と誰を助けたいの?」
涙でぼやける視界を必死で我慢する。すると、天使様が私の肩を優しく抱き寄せた。薄い夜着を通して、天使様の体温を感じる。
心地よい腕の中はフランシスカに来て、初めて安心出来る場所だった。
優しく包み込んでくれる、その温もりに涙が零れる。その温もりが、私の冷え切った心をとかしていく。
「……ユーリを、ユーリを助けたい。あの男から解放してあげたいの」
「ユーリ……それは誰?」
私の背中に回されている天使様の腕に力がこもる。
「ユーリは、私が人質として囚われた時に優しくしてくれた人。一人ぼっちで、寂しい時に守ってくれた人」
「……ジェイド・インペリアルから守ってくれた?」
ジェイドの名前に身体が震えだす。
怯えたように天使を見上げて、やっぱり止めようか伝えようか逡巡する。
ずっと、私だけの心に中に留めておこうと思っていた。でも……誰かに聞いて欲しい、もう胸が押し潰されそうだから。
「違うの。ユーリはジェイドなの。ジェイドがユーリなの」
そう伝えると、色の違う天使様の瞳が驚いたように大きく見開いた。
「もう少し詳しく話してくれる? ノエル」
これは懺悔であり罪の記憶……。私が止めていれば、動いていれば、違う道があったのかも知れない。
誰もが幸せになる道が――。
天使様なら、きっと受け止めてくれる。だから真実を伝えないと。
「一つの身体に二つの人格があるの……。囚われていた一年と半年はユーリだった。優しくて穏やかな人。人はジェイドと呼ぶわ。ユーリは子供の頃の愛称だと教えてくれた。その名で呼んで欲しいと言われたの」
告白し出すと止まらなくなる。
すべてを聞いて欲しくて。あの時何があったのか……私の罪も一緒に。
「人質として囚われている間ユーリは優しかった。他の人質達と同様に、三年経ったら、世界が落ち着いたらアゲートに返すからと約束してくれた。ユーリだった頃は、人質と言っても穏やかな生活だった。でも……あの弓がすべてを変えてしまったの」
この世界を手に入れる聖なる秘法。
それをユーリは望んでしまった。
「あの弓を手に入れれば世界の王となる。そう言われたわ……あの鷹に。王になれば争いがなくなる。平和が来るとユーリは信じたの。そのために弓が必要だった」
世界がまだ、いくつもの勢力に別れて覇権を争い、戦いは終わらなかった。それを終わらせるために、ユーリは鷹の言葉に魅入られた。
弓の話を聞かせてくれるユーリは真剣で、期待に満ち自信に溢れていて……。
でも、いつの間にか現れた怪しい鷹の話を、疑うころなく聞き入れるユーリに、戸惑いを隠せなかった。
何度も考え直してと訴えたけど聞き入れて貰えなくて、私は見ていることしか出来なかった。
「弓に執着し始めたの。鷹の指示通りに動いて、私が止めても聞いてくれなくなって、ユーリの態度が変わったわ。別人のように」
心配だった。ユーリがユーリでなくなることに。
「そして弓を手に入れたあの日……ユーリは消えてしまった。新しい人格ジェイドが誕生したわ。秘密を知った私に、ジェイドは容赦なかった」
ユーリが消えた、あの日。
新しいジェイドの傍には常に鷹が居て、私の行動を制限した。
……真実を知っている私を逃さないために。
「ノエル。ユーリの人格は完全に消えたのか? それに鷹は弓とどう関係があるの?」
それまで、私の告白を静かに聞いてくれていた天使様が初めて口を開く。
「……ジェイドに体を乗っ取られてから、ユーリには二度会えたわ。その時に……」
伝えようとして言いよどむ。
迷ってしまった。これを伝えていいのか。
「その時にどうしたの? ノエル……」
俯き黙り込んだ私に、天使が優しく頭を撫でてくれた。
「もう大丈夫。すべて上手くいくよ。あとは任せてくれれば良いから。一つだけ教えて欲しい……フランシスカでジェイドに会ったんだね?」
天使様は何でもご存知なのね。
左右で違う瞳の色を見ていると安心する。天使様の傍にずっといたいと思ってしまう。そんなこと出来ないのはわかっているのに。
「会いました。ジェイドに弓を渡せと言われて……」
「弓を? あの弓をノエルの持っているの?」
驚きに満ちた天使様の声を聞いた時、その表情が誰かと重なった。
天使様と会うのは二度目。一度目は話すこともなかった。今日が言葉を交わした初めての日。なのに、誰かに似てる。
「ノエル……」
口を閉ざし黙り込んだ私に、優しい天使様は、それ以上聞いてこかなった。
髪を撫でてくれる大きな手も、守るように抱き締めてくれている力強い腕も、全てに心を許してしまう。
「フランシスカでの生活は楽しくありませんか?」
ふいに聞かれ考え込んだ。
「……私は人質ですから楽しいと思うのは罪です。アゲートの王女として役目を果たすのは当然です。皆が幸せなら、私はそれ以上望みません」
本音は私も幸せに穏やかに暮らしたい。だけど、王族として生まれた立場上、そう出来ない。
「人質? 誰がそんな偽りをノエル様に伝えたのですか」
天使様の口調が険しくなる。
不思議に思って天使様を見上げると、怒っているようで不安が渦巻いた。
「お兄様が言ったのです。アゲート王家の財政難と引き換えに、私をフランシスカに嫁がせると。お金のために……」
自分で言っていて悲しくなって、また涙が頬を伝う。
「フィリップがそんなことを? ノエル様。あなたは人質でこの国へと来たのではありません。もう少し自信を持って。そして周りに心を開いて下さい。見えていなかった真実が見えてきますから」
私は人質じゃないの? なら、なぜお兄様はあんな話を……。
頭が混乱した。それに、心を開くことは出来ない。
「いいえ。周りを信用すると裏切られます。前に、信じていた侍女に裏切られて、 ジェイドに酷い目にあって。それなら最初から信じない方が良い」
昨日まで信じていた人が、次の日からは敵になる。あんな思いは、もうしたくない。
「大丈夫。ノエルは人質でこの国へ来た訳じゃないよ。それに今、ノエルの周りにいる人達は裏切らないよ。私が保証するよ」
天使様の言葉は、卑屈になっていた私の心に、すっと入り込んできた。頑なだった冷たい氷を溶かしてくれるように。
宝石のような瞳で見つめられると、暗示がかかったように、信じてみようと思いが湧き上がる。
「でも、シシィに、皆に、酷い態度をとってしまって、どう接して良いかわからないの」
どうやって関係を修復すれば良いのかわからない。シシィも私を煩わしいと思っているかも知れないもの。
「大丈夫。アゲートにいた時のように普通に接して居れば、シシィは助けてくれるよ。彼女もノエルを心配しているから」
何度も大丈夫と、安心してと言われ、ぎこちなく頷いた。
「――もうすぐ夜が明ける。もう行かないと」
天使様が見上げた視線の先を追うと、空が少し明るくなっている。
「もう行くの? また会える?」
寂しかった。一人にしないで欲しかった。だから何度も尋ねた……また会えるのかと。
「明日また来るよ。夜にしか会えないけど、悩んだらまた、ここにおいで」
「……ありがとう、天使様」
嬉しかった。また会えることが。
「ノエル、天使はちょっと。アンリ、そう呼んで」
考え込んだ天使が、照れくさそうに名前を教えてくれる。
「アンリ? それが天使様のお名前? ええ、また会えるのを楽しみにしています」
ふわりと微笑むと、天使様が目を細めた。
「ああ……待ってるよ。だから少し眠ると良い」
あの時と同じように、アンリが顔に手をかざした。
すると、眠りたくないのに、アンリと離れたくないのに、瞼が下がり意識が遠のく。
その時、天使様からエキゾチックな心地よい香りが私を包んだ。
「アン……リ」
最後に呟いた天使様の名前は、小さく風に乗って消えて行った。