浮遊
君とよく行ったあの店が昨日行ったらなくなっていた。
随分年月が経っているから当たり前か。
僕らだって離れ離れだもんね。
あの店はとても薄暗くて、居心地が良かったことを今でも鮮明に思い出せる。
彼女はいつも僕の右斜め前に座って、アイスコーヒーを飲みながら本を読んでいた。僕はその背中を見ているだけで幸せだったのに、どうして声なんてかけてしまったのだろうか。
「おもしろいですか?」
なんて、言ってしまったのだろうか。僕の性別は女だから、彼女の警戒心を解くのはお手の物だった。こんな時に性別を利用するなんてずるいのはわかっているけど、どうせ彼女は男が好きだろうから、近づくためには必要なずるさだって、この世の中にはあるだろう。
「おもしろいですよ。でも、タイトルがわからないの。これ、亡くなったおじいちゃんからもらったものだから、聞くに聞けなくて」
振り返って少し驚いた顔をした後、彼女は笑いながら言う。
その顔はあまりにも可愛くて食べてしまいたくなった。
今思えば、食べてしまえばよかったと思う。
それから僕は彼女のテーブルに移動して、二人で他愛もない会話をした。
本当に今となっては何を話したのだろうって思うくらいの会話を延々としたんだ。
そうこうしていくうちに僕のブレンドはどんどん冷えていって、彼女のアイスコーヒーは氷が溶けて汗をかいていた。けれど、僕らはそんなことお構いなしに話し続けて、流れるように唇が重なり合っていた。
「どうして、したのかしら」
生温い唇が離れた後、彼女は心底不思議そうに笑う。その無邪気な笑顔はまるで少女で僕は驚く。どうして彼女はこんなに無防備なのだろうか。
それから僕らはいつもこの店で待ち合わせをして、コーヒーの香りを間に挟み、テーブルの上に置かれた手を繋ぎ、時々キスをした。他愛もない話は二人にとっては永遠に似ていて、誰も邪魔なんかできないと思っていた。
だけど。
どれだけ「好き」と言っても、君には何も届いていなかったんだなあ。
「私ね、幸せになりたいの」
唐突に彼女に言われたのは、出会って一年が経とうとしていた時。
言っている意味がわからなかった。
僕らが一緒にいることが幸せなんじゃないのか。
「結婚をね、しようと思うの」
「誰と」
「あなたの知らない人」
「なんで」
「幸せになりたいから」
「僕と一緒じゃ、幸せになれないってこと?」
「だって。私達、何もできないじゃない」
愛があれば全てを超えられるかもしれないじゃないか。
吐いて出てしまいそうな言葉を堪えた。
今だってその考えを否定しないししたくもない。
でも今、目の前にいる彼女を僕の愛だけじゃ幸せにできないのも事実。
僕らは女同士だから。
色んな方法があるだろう。結婚についても子供についても。でも、それは見ている先が同じ二人だからこそ成り立つもので、彼女の普通は僕の普通じゃなくて、僕の普通は彼女の異常なんだといまさら気付く。
「わかった」
そう言うしかなかった。
言いたかったわけでもないし言いたくなかったわけでもない。さっき堪えた言葉が変化して出て行ったというのがきっと正解。
「ごめんね」
テーブルに突っ伏して泣いている彼女の長い髪の毛を撫でる。さらさらの黒い髪をいつも僕はこうして撫でるのが好きだった。彼女の無防備な笑顔が好きだった。彼女の細い指を強く握るのが好きだった。彼女の少し甘えたような声が好きだった。彼女の……。もう僕らの全てが『だった』に変わってしまうことが、ひどく悲しかった。
「もっと一緒にいたかったよ」
ああ、と思う。
言ってはいけないと知っていたのに、僕は、僕は。
彼女の涙が加速していき、息が荒くなる。
どうか、泣かないでと願うのに、今度は何も言えなくなっていた。
とめどない、というのはこういう時に使うんだって、初めて知った。
彼女といると時々感じていた不安感。
離れちゃいけないって僕が思えば思うほどに僕らは離れ離れになっていたんだ。
今でもキスをした記憶は鮮明に映すことができるよ。
でも、どうしても簡潔に口にすることができないんだ。
そんなに人間の脳って簡単にはできていないようだ。
君は、いつかキスをした僕の唇を覚えている?
僕は、今だって覚えているよ。
君とよく行ったあの店が昨日行ったらなくなっていた。
随分年月が経っているから、君はもう、笑ってる?