美しい歌姫の話
若者は酒に溺れるようになりました。
世の中、誰かを信じても所詮は裏切られるだけです。もう誰も信じないぞ、という思いを、夜ごとお酒と共に飲み下す日々でした。浴びるように酒を飲んでは酔っ払い、泣きながら食べたものを吐き出す日々でした。
お酒で喉が焼けてしまったせいで、もう満足にうたえません。若者は再びうたうことをやめていました。やはり自分の歌にはなんの価値もないのだと、すっかりそう信じ込んでおったのです。
ところがある日のこと。いつものように酒場で酒を飲み、泥酔した若者のもとへ、ひとりの勇気ある娘が近づいてきました。凛と咲き誇る花のような、磨き抜かれたつるぎのような、そんな美しい娘でした。
娘は金色の眉をキリリと吊り上げると、酒くさい若者の隣へ腰かけます。そうして取り澄ました顔で自らもお酒を頼み、琥珀色の飲み物が出てくると、景気づけにぐびっとやって言いました。
「ねえ、あなた。前に笛のひとと一緒にいた旅芸人でしょう? 最近すがたを見ないけれども、もう歌はうたわないのかしら」
若者はすうっと酔いがさめていくのを感じました。どっちが天でどっちが床か、それもわからなくなるくらい愉快に酔っていたというのに、突然つまらない寸劇を見せられたような気分になって、のそりと席を立ちました。
「僕はもううたわないよ」
としわがれた老人のような声で吐き捨て、美しい娘に背を向けます。この声を聴けば娘もきっと、ああ、このひとはもううたえないのだな、とわかるはずでした。けれども娘は食い下がって言いました。
「待って、いかないで。わたし、あなたの歌が大好きなのよ。あなたの歌に救われたのよ。だってあんな綺麗な声とこころでうたう人を、生まれてはじめて見たんだもの。ねえ、お願い。どうかこのわたしのために、もう一度うたってくれないかしら。お金ならお支払するわ。だから、どうかもう一度」
若者はやれやれと首を振りました。猫のように背が曲がり、髪もボサボサになったそのすがたは、もはや以前の彼とは別人のようでした。
「残念だけども、僕はうたわない。だってうたえばうたうほど、悲しい思いをするんだもの」
「だけどあなた、今も歌が好きでしょう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって時折ひとりのときに、鼻歌をうたっているんだもの。そうしてとっても悲しそうに、夜空を見上げているんだもの」
若者はおどろきました。娘は若者があの日の旅芸人ではないかとにらんで、ずっと傍から見ていたのです。そして若者が歌声をつむいでくれる日を、今か今かと待っていたのです。
若者は立ち尽くして泣きました。こころを凍らせていたものがゆっくりと溶け出して、汚い泥水と一緒に洗い流されていくようでした。
娘の言うとおり、若者は今も歌が好きでした。
切なくて切なくてどうしようもないくらい、今も歌が好きでした。
「わかった。三日後、またこの酒場においで」
若者は娘と約束を交わして、馴染みの酒場を去りました。その日から一滴たりとも、若者はお酒を口にしませんでした。もう一度娘と会うために猫背を直し、床屋へ行って、喉にやさしい果物をいっぱい食べます。
すると若者の声は魔法のように、みるみる澄み渡っていきました。ためしに小歌をうたってみると、喉が美しい音色を奏でて、ああ、僕の歌はまだ死んではいなかったんだなあとこころが震えます。それが嬉しくて嬉しくて、若者はまた泣きました。
三日後、若者は約束の酒場へおもむき、娘のためにうたいました。
若者を迷惑な酔っ払いだと思っていた店主や手癖の悪い酒飲み仲間、そしてたまたま居合わせた町の人たちもみんな、みんな、若者の歌声に酔いしれました。ようやく願いが叶った娘もまた、涙を流して若者の歌を聴いています。
それから若者は、来る日も来る日も娘のためにうたいました。いつしかふたりは恋人のようになり、肩を寄せ合って、ひとつ屋根の下で暮らすようになりました。
娘は若者の歌声を羨ましがって、わたしにも歌を教えてちょうだいとせがみます。だから若者もうたいました。
旅芸人をしていた頃のように、たくさんのひとに聴いてもらうことができなくたって、たったひとり自分の歌を聴いてくれるひとがいれば幸せ。若者はそう気がついたのです。
とても幸せな日々でした。とても満たされた日々でした。
若者はもうすっかり、うたうことの楽しさを取り戻しています。
あの日旅芸人に踏みにじられた愛の歌も、今では娘のためにうたいました。娘はそれを喜んで、若者がなにかうたいはじめると、うっとりと寄り添いました。
ところがある日、娘は若者の前から姿を消しました。
若者が働きに出て帰ってくると、娘はもうどこにもおりません。まったくの突然に、娘の持ち物や洋服まで、すべてが幻のように消え失せていたのです。
不安に駆られた若者は、必死に娘を探しました。町中を巡り、気のいい知り合いを何人も当たって娘の行方を尋ねましたが、誰も彼女の居場所を知りません。
若者は悲しみで胸が張り裂けそうでした。けれども諦めませんでした。ついには自分も荷物をまとめ、住み慣れた町を出て、娘を探しに旅立ったのです。
常闇の国は今日も大吹雪。でも若者はくじけません。誰かを愛するということは、それだけで計り知れないほどの力をくれるものなのです。
娘に対する想いはずっと、若者の中で赤々と燃え続けました。おかげで若者はちっとも寒さに凍えませんでした。この炎が燃え盛っている限り、どこまででも行ける、と思ったほどです。
若者はついに国境を越えました。
広い広い、途方もなく広い常闇の国を出て、生まれてはじめての外国へやってきました。大陸の南の方にある、緑豊かな海辺の町でございます。
そこはとても暖かで、若者はおどろきました。色とりどりの花に豊富な食べ物、崖に立ち並ぶ白い家。こんな楽園のような場所が世界に存在していたなんて、若者は少しも知らなかったのでした。
若者はその国で、ついに娘を見つけました。町をひとつひとつ巡って娘の話をしたところ、よく似た娘を知っているという、親切なご老人と出会うことができたのです。
若者はご老人に案内されて、とある広場へいきました。愛らしい花が咲き乱れる広場には、たくさんのひとが集まっていました。なんでもこれから、めでたく王子様に見初められた歌姫が、自慢の歌を披露しにやってくるというのです。
若者は胸が弾みました。それほど素晴らしい歌姫ならば、ぜひ自分も彼女の歌を聴いてゆこうと、人だかりに加わりました。
ところがやがて舞台にあがったひとを見て、若者はあっと目を疑いました。
だって歌姫と呼ばれたそのひとは、若者が探し求めていたあの娘だったからです。
「さあ、みなさん。これからお聴かせする歌は、わたしが真心込めてつくった歌です。ちょっぴり恥ずかしいけれど、胸に愛しいひとを思い浮かべてつくりました。どうぞお聴きください」
しかし歌姫は若者に気づかず、舞台の上でにこやかにうたいはじめました。彼女がうたったその歌は、若者が贈ったあの愛の歌でした。
若者は真っ青になって立ち尽くします。歌姫がうたう愛の歌は、若者がつくったものとはちょっとずつ詩や旋律が違いましたが、でもやっぱり若者の愛の歌なのでした。
けれど広場に集まったひとびとは皆、そんなことは知りません。誰もが素晴らしい歌だと涙を流し、喝采を贈っています。
若者にはそれが耐えられませんでした。歌姫がうたい終えるや否や、すぐに舞台へ飛んでいって、どういうことか尋ねました。
「あれは僕がきみへ贈った歌だ。きみがつくったんじゃない。そうだろう」
歌姫は若者のすがたを見ておどろきました。まさか彼がこんなところまで追いかけてこようとは、夢にも思っていなかったのです。
されど自分の歌を侮辱された歌姫は不快でした。ですから酒場で若者と出会ったときと同じく、ツンと取り澄ました顔でこう言います。
「言いがかりはやめて頂戴。確かにちょっと似ているかもしれないけれど、ぜんぶ偶然似ただけよ。だってあなたがうたっていた歌なんて、わたしはちゃんと聴いていなかったし覚えてもいないもの」
せっかく暖かな国へ来たのに、若者は氷づけにされた気分でした。
歌姫はあれを自分の歌だと言い張って、どこまでも平気な顔をしているのです。
「ねえ、そんなことよりせっかくこうして会えたのだから、他の歌も聴いていかない?」
と、歌姫はそのようなことまで言い出しました。
若者はめまいがして首を振ります。
「……ごめんよ。今はそういう気分になれそうにないんだ」
「あっそう。じゃあもうあなたに用はないわ。さようなら」
あんなに燃え滾っていた赤い炎は、誰を照らすこともなく消えてしまいました。
* * *
さて、それからというもの、赤い眼の若者を見たという者はひとりとしておりません。
彼がはじめて愛したひとは、大富豪と結婚してふたりの子をもうけました。
笛吹き男の旅芸人は、今もたくさんのひとに囲まれて笑っています。
歌姫は常春の国のお城へのぼり、王子様の妃となりました。
かくしてふたりの娘とひとりの男は、みんなみんな幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。