やさしい恋人の話
昔々あるところに、年中雪に覆われた真白い国がありました。
ほんの数日、太陽が気まぐれに顔を出す日を除いては、ずうっと黒い雲に覆われた常闇の国でございます。
そんな王国の都にひとりの若者がおりました。
若者は生まれつき眼が赤く、母親はその奇異なる瞳の色を恐れました。人と違うということは、それだけで罪でございましたので。
若者はとても孤独に育ちました。
みな彼の赤い眼を不気味がり、母親すら手を差し伸べませんでした。
しかし若者には歌がありました。なぜなのでしょう、歌をうたっている間だけは、どんなにイヤなこともつらいこともふっと忘れられるのです。
凍えるときにはお日様の歌を。寂しいときには友だちの歌を。
来る日も来る日も歌をうたって暮らしておりましたので、若者が立派な青年に育つ頃には、その歌声は都でもちょっとした評判になっておりました。晴れの日の風のごとく伸びやかできらめく彼の歌声は、聴く者の心をあまねく魅了したのでした。
もちろん皆が皆、というわけではございません。
中には若者の歌声に嫉妬を起こし、心ない言葉を浴びせる者もおりました。
それでも若者が歌い続けたのは、いつも寄り添い、励ましてくれる娘があったからです。ちょっとそそっかしいけれど、感情豊かで心根のやさしい娘でした。彼女は若者の歌声が大好きで、常々このように話しておりました。
「ねえ、お願いよ、あなた。何があってもうたうことをやめないで頂戴。だってあなたの歌はいつだって、こんなにも素晴らしいのだから! 誰がなんと言おうと、わたしはずっとあなたの味方よ。本当よ」
若者はいつしか娘に惹かれ、恋に落ち、将来を約束し合う仲になりました。
王国に吹き荒ぶ風の冷たさは、日増しに厳しくなるばかり。されど若者は恋人と一緒ならば、寒さなど屁でもないのです。
ところがある日のこと、王様の暮らすお城からお姫様がやってきました。
雪と見まがうほど白い肌に、澄んだ湖を思わせる瞳。そして星で編んだような銀の髪を持つ、とびきり麗しいお姫様でございました。
都に住まう人々は、王様自慢の姫様を一目見ようと押し合いへし合い。その中から元気な男の子がぽんと飛び出して、お姫様に尋ねました。
「お姫さま、お姫さま。お姫さまは都になにをしにいらしたのですか?」
寒さで鼻を真っ赤にした男の子の問いかけに、お姫様は美しい顔をひらいて微笑まれます。それからすうっと爪先で滑るように歩み寄ると、しゃがんでこうお答えになりました。
「ぼうや、わたくしはこの都に、とっても歌の上手な若者がいると聞いてやってきました。その方の歌を、わたくしもぜひ聴いてみたいのです」
これを聞いておどろいたのが若者の恋人です。
お姫様はこの世のどんな言葉を掻き集めても褒めきれないほど麗しく、恋人は恐れおののきました。だってこんなに美しいひとを前にしたなら、若者もきっとお姫様の虜となってしまうに違いありません!
「ごめんなさい、お姫さま。彼は今ここにはいませんわ」
だから恋人は玄関先で、慌ててお姫様を追い返しました。
そうして若者とお姫様が出会わぬよう、あれこれ知恵を巡らせましたが、お姫様はついに若者のもとへやってきてしまいます。
案の定若者は、お姫様を見るなりぼうっと見とれておりました。それはそれは、恋人が呼びかけても気づかぬほどにほれぼれと見とれておりました。
そんな若者のすがたを見て、恋人は心底悲しみました。
「ああ、やっぱり! 彼もわたしみたいな平凡な娘より、優しくてお綺麗なお姫様の方が良いのだわ。僕もずっときみの味方だよ、なんて、あんなのは嘘だったのだわ!」
恋人の心は北風にひび割れて、じくじくと痛みました。
その日を境に、若者はふたりが暮らす家にあまり帰らなくなりました。
街が寝静まった頃にようよう帰ってきたかと思えば、日が昇る前に家を出ていってしまうのです。
恋人は若者の行き先が気になりました。お姫様は若者の歌をたいそう気に入ったご様子でしたから、お城へお戻りになってからも、若者を呼び寄せておいでなのかもしれない……という考えが、頭から離れないのでした。
このままでは若者をお姫様に取られてしまいます。
恋人はついにこころを決めました。
朝早く出かけてゆく若者のあとをこっそりつけて、行き先を確かめることにしたのです。
* * *
翌朝、恋人は早速若者のあとをつけました。
ただでさえ暗い冬の空が、まだずっと暗いうちに若者は出かけてゆきます。
恋人は寒さで凍えそうなのを我慢して、抜き足差し足、若者の後ろを歩きました。途中、薄氷を踏んでしまったときには慌てましたが、幸い若者はなにかがひび割れる音に気がついていないようでした。
やがて若者の行き先を知った恋人は立ち竦みました。
小雪の降る中、若者がまっすぐ向かった先は、やはりお姫様のいるお城でした。
そこから先は追いかけるのがこわくなって、恋人は身を翻しました。
その晩、若者は珍しく、月が昇りきる前に帰ってきました。
手にはほかほかと湯気の立つ、おみやげのアップルパイを持っています。
一緒に食べようと誘われましたが、恋人は断りました。あったかいココアもいれるよ、と言われましたが、ベッドにこもって出ませんでした。
今は嘘つきな若者の顔も見たくなければ、言葉も交わしたくありません。
だというのに若者は、恋人の横たわるベッドに腰かけ、このように言うのです。
「ねえ、きみ。何か怒っているようだけれど、僕が悪いことをしてしまったのかな。もしもそうなら謝るから、どうかこっちを向いておくれ」
恋人はいよいよ頭にきて、若者と口をききませんでした。
だって、無視をしないでおくれ、なんて言いながら、無視をしているのは若者の方なのですから。
* * *
さて、一方若者は雪の中、かじかむ両手をこすりあわせてその日も働いておりました。せっせと働いておりました。
朝な夕な、お金を稼ぐためにあくせく働き、くたくたになって帰るのです。
若者は色々な仕事をこなしました。つらい仕事も汚い仕事も文句を言わずやりました。おかげで恋人と一緒にいられる時間は短くなってしまいましたが、それもあと少しの辛抱です。
なぜって、もう少しで恋人にとっておきのプレゼントが買えるから!
若者はあの日、歌を聴きたいと訪ねてきたお姫様の、白銀のお髪を飾る髪飾りにひとめぼれしました。
太陽みたいな色の花びらを、めいっぱい広げたまぶしい花の髪飾りでした。
冬が明けない常闇の国では、花はとっても貴重です。ずうっと雪が根を張っているせいで、花なんてどこにも咲かないのです。
だから若者はお姫様に、そのお花はどこで買ったのですかと尋ねました。若者は自分の恋人にも、ぜひ同じ花を贈りたいと思ったのでした。
お姫様は親切に花のありかを教えてくださいましたが、とても高価で簡単には手に入らない品だとおっしゃいます。けれど若者は諦めずに働きました。働いて働いて働きました。だって大好きな恋人の喜ぶ顔が見たかったから。
「彼女に内緒でお金をためて、花を買い、びっくりさせよう。そしてこう言うんだ、僕と結婚してください、って!」
来る日も来る日も雪の中、そう思ってがんばりました。
来る日も来る日も風の中、そう願ってめげませんでした。
そんな若者の健気さに胸打たれたお姫様がお城での仕事を紹介してくださると、若者の財布はどんどんふくらんでゆきました。
若者は毎日ちょっとずつもらえる銀貨を大切に数えては袋に詰め、恋人に見つからないところにそっと隠しておりました。
そうしてどれほどの月日が流れたことでしょう。
若者はついに、あの日見惚れた太陽の花を手に入れました。真白い世界に燦々と輝く、鮮やかで生命力に満ち満ちた花でした。
大きな花びらに鼻を寄せれば、若者の知らない春のにおいがします。若者はそれがもう嬉しくって嬉しくって、弾むような足取りで家へと駆け戻りました。
「やあ、きみ、ただいま! 今日はきみに贈り物があるんだよ!」
その頃、若者はひたむきに信じておりました。近頃なぜか口をきいてくれない恋人も、この贈り物を受け取れば雪解けみたいに笑ってくれるに違いない、と。
だってしもやけで真っ赤になった両手に溢れる太陽の花、それは若者にとって、いつも自分を照らしてくれる恋人そのものでしたから。
ところがどういうわけなのでしょう。
若者が家へ帰ると、そこには楽しそうに笑う恋人と見知らぬ男がおりました。若者と恋人がふたりで暮らしていた家で、恋人と知らない男が暮らしておりました。
若者にはさっぱりわけがわかりません。ですのでぼんやり立ち尽くしていると、若者に気づいた恋人が、なんでもないことのように言いました。
「あら、おかえりなさい。あのね、わたし、これからはこのひとと一緒に暮らすことにしたわ。このひとは都で一番の大富豪。ほしいものはなんでもくれて、わたしをぜんぶ許してくれる、とってもやさしいひとなのよ」
話を聞いても、若者にはやっぱりわかりませんでした。
恋人がどうして急にそんなことを言い出すのかも、どうして自分を見てくれないのかも、なんにもわかりませんでした。
「だってあなたは、わたしに嘘をついたじゃない!」
と、にぶい若者に苛立って恋人は叫びます。彼女は若者がお姫様と恋に落ち、自分を裏切ったと思い込んでいたのです。
事情を知った若者は、必死でわけを説明しました。両手いっぱいの花を差し出して、お姫様に見とれていたのも、毎日出かけてばかりいたのも、すべてはこの花をきみに贈るためだったのだと伝えました。
けれどもう、恋人のこころは動きませんでした。
「あらまあ、そうだったの。だけどわたし、このひとと結婚の約束をしてしまったわ。だからわたしのことはひどい女だともう忘れて、あなたはしあわせに生きて頂戴。ごめんなさいね、さようなら」
太陽の花は、誰の手にも渡ることなく枯れてしまいました。