1話 始まりはいつも突然に
暑い。
快適な睡眠には快適な環境が必要不可欠だと思う。
俺が今こうして心地良いまどろみの世界から、気温と湿度が我が物顔で支配する不快指数が振りきれちゃってる現実世界に容赦なく叩き落とされたのも、ひとえに快適な環境を完備できていなかったせいという訳だ。
つまり何が言いたいかと言うと……
「もう無理!! こんな真夏にエアコン無しで生活なんてできるか!! 決めたぞ、俺は今日エアコンを買いに行く!! 止めても無駄だぞ、この夏の気温よりも昂ぶるこの思いは何者にも止められねぇ!!」
「別に、止めはしませんが。今うちの、天柳探偵事務所にそんな物を買う予算があるとお思いですか?」
「ぐっ!?」
俺の事務所の数少ない自慢の一つである、クール系黒髪美人秘書、兎楽璃亜さんのクールな一言で俺の心の背景に燃え盛る真っ赤な炎が一瞬で沈下されかける。
いや、まだだ!俺のエアコンに対する熱い気持ちはそんなに簡単に消えるものじゃねぇ!
「そうだ!前回の依頼の報酬!確か結構もらってたよなぁ30万ぐらい!」
「26万4800円です。所長、事務所の収支や経済状況は常に把握しておいて下さいと普段からあんなに……」
「分かった分かった! 今度家計簿でもつけてみるさ。それよりその30万近い報酬があるんだエアコンの一つや二つ余裕で買えるぐらいの予算は――」
「26万4800円です」
璃亜がピシャリと言い放つ。
「その26万4800円があるんだ。確かに多少使っちまったけどエアコンぐらい――」
「所長」
氷のように冷たい声と表情だ。あれ? お前って雪女だったっけ? と思わせるほどの冷たさだった。
「私は収支も把握しろと言いましたよね? 大雑把で構いません、所長の言う約30万を一体に何に使ったか言ってみて下さい」
ふっ、この俺天柳相一の記憶力を舐めるなよ!自分が何に金を使ったかなどそらで言えるわ!!
「まずは……食費ガス水道通信なんかの生活費だな、これがまあ5万ぐらいか」
「正確には4万7830円です」
と璃亜が訂正する。
「次に……そう! その今俺が寝ていたソファ、それが8万ぐらいしただろ」
「8万6700円です」と再び璃亜が訂正する。
ええい細かい奴め。
「後は……新しいデスクを一つ、まあ3万ぐらいだろう」
「3万9800円」
ついに金額だけ呟くようになってしまった。
チラリと璃亜の顔色を伺うと、それで終わりかという表情をしている。
ここまでは合っていたらしい。
「どうだ! 俺の記憶が正しければ、これに昨日買ったプラズマテレビを足せばぜん――ッ!?」
そこで気づく、璃亜の瞳から光が失われている事に。なんだ!?俺の秘書がダークサイドに落ちようとしている!?彼女の呆れとも怒りとも取れない微妙な表情を見て俺の脳内に電流が駆け抜けた。
違う!これで終わりじゃない!俺は何か大事なものを見落としている、それは一体何だ?
狭い事務所の中をぐるりと見渡す。そして玄関に視線を向けた際にそれ、に気づいた。
入り口にある戸棚の上、現在花瓶として飾っているいわくあり気なその壺に。
「その壺」
ゾッとするほど冷めた声色に背筋が氷つく。
「そ、それは商売繁盛にご利益がある……と言われる有名な」
「で、またそんな胡散臭い話を信じて10万もする骨董品を買ってきた、と」
「…………確かに、今まではたくさんの偽物を掴まされた事もあった。が!! 今回ばかりは本物なんだって! その証拠に、ホラここ、底の部分に有名作家の名前が――」
その時玄関の扉が勢い良く開かれた。ちなみに入り口の扉は内側に開くようになっている。そして俺は商売繁盛にご利益がある(と思いたい)ありがたい壺の底をあらためるため、玄関で、扉に背を向け、壺を頭上に掲げている状態だった。
どんっ、と勢い良く開いた扉が背中に直撃する。
「あ」
ガシャン、という音がその場に虚しく響いた。
「え?」
扉の向こうでは少女が困惑しながら立っていた。