血に飢えしモノ
夜の帳が下りると、ゼアード帝国の中央に位置する首都ミランドスは、闇に包まれた。
魔石の力を利用した街灯が、冷たい石畳を照らす。反射する僅かな光。レンガ造りの家々が並ぶ大通りは、夜中でもある程度は灯りがともるが、裏通りは違った。
修道女であるエレットは、ランタンの灯りを頼りに、暗い裏道を歩いていた。
聖職者の証である白いローブには、赤い糸で聖印が刺繍されている。
「うわ孤児院で子ども達と遊んでいたら、つい遅くなってしまった。早く教会へ帰らなければならない。その為には、大通りを行くよりも、裏道を通った方が早いのだ。
「大丈夫!私には神の御加護があります!神よ。迷える亡者を、我が身より遠ざけたまえ!」
早い話が、お化けが怖いのである。
「か、神よー。我が身に魔除けの加護と祝福を……」
亜麻色の髪は、肩の辺りで切り揃えられていた。その肩は細く華奢であり、小刻みに震えていた。小動物を思わせる大きな瞳も涙で滲んでいる。
見ているだけで可哀想になるほどのビビリっぷりである。
「や、やっぱり大通りから……。いや、だけど早く帰らないと神父様のお仕置きが……」
エレットの脳裏に、神父の顔がよぎる。厳格な聖職者であるモーリス神父は、厳しくエレットを指導してきた。時に厳しく、またある時には厳しく。厳しさの中にも厳しさが見えるのだ。そんな彼は、門限にも厳しい。
「もし門限を破ったら、今夜の夕飯抜きは確実だし。いや、夕飯だけでは済まないよね」
残念な事に、今朝方モーリスの大切にしている壺を割ってしまっていた。合わせ技で明日のおやつも抜きだろう。エレットにとっては死活問題だ。
「よし、このまま行こう。余計な事を考えずに、早足で行けば大丈夫」
その時であった。
エレットの耳元で、獣の慟哭が鳴る。細く白い首に、鳥肌が立った。
ニャオーン。
「はぁぁぁぁうぁぁぁぁ!神様ぁぁぁぁぁぁ!」
腰が抜けた。
その場ですっ転び、ランタンを落としてしまう。ヒビ割れた石畳の上を滑り、ランタンが転がって行ってしまった。
エレットの目の前に、黒猫が降り立つ。恐怖のあまり気付いていなかったが、道脇に酒樽が積まれていた。
この酒樽の上で休んでいたのだろう。慌てふためくエレットに話しかける様に、もう一度鳴いた。
「ニャー」
「び、びっくりした……。早く帰りたいぃぃ」
悲痛な声を出すエレットは、ランタンを取ろうと手を伸ばす。
「シャアアア……」
「え?猫ちゃん?」
一瞬、聞きなれない『音』が聞こえた。
猫が喉を鳴らしたのだろうか。彼女は、黒猫がいた場所に目をやる。
黒猫の姿は、影も形もなくなっていた。
「シャアアア」
違う。猫の鳴き声ではない。もっと低く、しゃがれた『音』だ。
そして、とてつもなく不快な『音』である。聞いているだけで鼓膜の奥を揺さぶられるような、妙な嫌悪感を覚える。
その『音』は、次第に大きくなり、裏道にこだまする。
「な、何?……人なの?」
音が止んだ。
急に訪れる静寂に、修道女は思わず首から下げたロザリオを握り締めた。
「……」
声には出さない。いや、恐怖のあまり出せなかった。
しかし、それでも心の中で神に祈る。
「シャアアア」
今までで、最も大きく聞こえた。これは『音』ではない。
『声』だ。
続いて、金属を打ち付けたような、甲高い音。
「シャアアア!」
酒樽の影から、路地の影から、エレットの背後から、続々と人影が現れた。
どの影も、手には錆びた斧を持っている。影達は、刃を石畳に打ち付けながら、彼女を囲んだ。
「シャアアア」
耳まで裂けた口から、あの不快な声が漏れる。
「だ、誰なの……」
その姿は、小柄な老人であった。口からは汚らしくヨダレを垂れ流し、蛇の様な長い舌がチロチロと動いている。顔はシワだらけで、その眼に理性の光はない。
醜悪で、狂気を纏ったモノ達だ。
腰が抜け、動く事の出来ないエレットは、一瞬で恐怖に支配された。カタカタと歯が鳴り、心臓が早鐘を打つ。
心の中で、咄嗟に神に祈る。ロザリオを握る手に力が入る。
醜悪なモノは、ゆっくりと、エレットへにじり寄る。
月光に照らされ、そのモノ達は皆、ボロボロになった赤い帽子を被っている事が分かった。
着ている服も穴が空き、ほつれ、薄汚れた不潔な物である。
帽子は、その服以上に汚らしい物であった。場所によって、色にムラが出来ているのである。染色の技術が拙いのか、汚れなのか。
エレットの正面に立った一体のモノの、裂けた口の端が釣り上がる。不気味な笑顔を浮かべ、赤茶けた斧を振りかぶった。
「神よ!」
縋るように握り締めたロザリオを、エレットは突き付けた。
特に考えがあった訳ではない。聖職者である彼女にとって、今出来る唯一の抵抗なのだ。
「我が身をお護り下さい!」
「!?」
偶然か、気迫に押されたか。老人は斧を振りかざしたまま、動きを一瞬止めた。
エレットの手に、言葉に力が籠もる。眼には光が宿り、心に火が灯った。
「悪しき群よ、怖れよ。我が血と魂は神と共に。我が身を照らす威光にその身を灼かれん!」
「良い祈りだ。シスター」
突如、男の声が聞こえる。
背後で、再び金属が打ち付けられた様な音が響いた。
先程の斧の音ではない。より響き、斧よりも重量を感じる音だ。
「だけど、後ろにも注意してな」
振り返ると、そこにはいつの間にか白銀の鎧を纏った騎士が立っていた。手には長い柄の長剣を持ち、刃からはドス黒い血が滴っている。足元には、両断されたモノの死骸が転がっていた。
背後からエレットを襲おうとしたモノを、この騎士が斬り殺したのである。
「大丈夫か?」
騎士はよく通る、優しげな声で話しかけた。なかなか凛々しい、男の声だ。
「あ、えぇっと……。ちょっと、腰が抜けて……」
「怪我は無さそうだな。そこから動かない方が良い」
動こうにも、腰が抜けているのだから動きようがない。
「こいつらは、レッドキャップだ。強烈な殺戮衝動で、本能的に襲いかかる。殺した相手の血で、帽子を染めるのが楽しみだっていうヘンタイみたいな奴らだ。下級の魔物だよ」
「レッドキャップ……」
「ところが、聖なる力に弱い。さっきのロザリオと祈りで動きが止まったのは、それが理由だ」
月光に照らされ、白銀の鎧が神々しく輝いた。アーメットという、頭だけでなく顔も覆う兜のせいで、表情は分からない。
しかし、その眼には、強い意志を感じさせる光が宿っていた。
「もし近付いて来たら、また祈ってやりな。そうしたら、また斬り伏せてやるからさ」
純白のマントが風にたなびく。銀糸で剣と盾をモチーフにした紋章が刺繍されていた。
帝国が誇る、平和と秩序をもたらす守護者の紋章だ。
「ゼアード帝国騎士団第四小隊ヴァルナ班、民の危機にカッコよく参上」
口上と同時に、エレットの向かいに立つレッドキャップへ剣を振った。首が断ち切られ、傷口からはドス黒い血が噴水の様に吹き出す。振り向き様に斬りつけた為、マントが大きく翻り、彼女を覆った。
純白のマントが、血で染まる。
「とりあえず、そこなら安全だよ」
優しげに騎士が話すと、同時に金属音が再び響いた。
慌てて、エレットがマントの裾を持ち上げると、レッドキャップの死骸が二体も増えていた。
「つ、強い……」
そして、彼女は更に呆然とする事となった。
闇夜の彼方から、白銀の閃光が放たれ、レッドキャップを貫いたのである。それは、鎧と同じ色の、矢だ。
そして、その矢を追うように、彼女を護る騎士と同じ鎧を纏った、二人の騎士が現れた。一人は、刀身が広く身の丈程の長さの大剣を両手で構えている。もう一人の武器は、槍であった。騎士の背丈よりも長く、漁師の銛のように返しが付いた槍だ。
「遅いぞ、お前等!」
「君の報告が遅いからだよ」
槍の騎士が、ため息混じりに、答えた。
「全速力で駆け付けたんだぜ。後でメシおごれ」
大剣の騎士は、言いながら武器を構える。
三人の騎士は、互いの背を護るように、円陣を組んだ。
同時に、更に一人一体ずつレッドキャップを斬り伏せる。
「さっさと片付けようぜ。血の匂いを嗅ぎつけて、仲間が集まってくるぞ」
大剣の騎士が、低い声でそう話す。
「相手にしていたら、切りが無いからね」
槍の騎士がそれに応える。
そして、再び白銀の閃光が放たれた。正確にレッドキャップの頭部を射抜く矢は、二人の騎士が駆け付けた闇の奥から射たれたようである。
「やっぱり凄ぇな、班長の射撃」
「この上なく頼もしい援護射撃だよな」
闇の奥から、声が響いた。
「ヴァルナ班、状況を報告!」
まるで、鈴の音の様に透き通った女の声だ。しかし、その響きは力強く、頼もしさを感じる。
「レッドキャップの集団と交戦中!保護対象者一名です!」
最初にエレットの元に現れた騎士が答えた。
「対象者の避難を最優先!クリス、ロイドは道を拓け。アレクは対象者を連れて離脱。私が援護に入る」
「了解!」
「行動開始!」
女の声を合図に、三人の騎士が動いた。
アレクと呼ばれた騎士は、エレットを最初に助けた騎士であった。彼は軽々と彼女を持ち上げると、そのまま駆け出す。
その動きに反応した二体のレッドキャップが、進路を塞ぐ。
そして、そのレッドキャップ達を、仲間の騎士が切り伏せた。
吹き出た血が、赤い霧となる。アレクは、速度を落とさずに霧中へ飛び込んだ。
後を追おうとするレッドキャップ達の前に、二人の騎士が立ち塞がる。
更に、雨のように降り注ぐ銀の矢。立て続けに撃たれる矢は、風切る音と共に、魔物の命を刈り取った。
「もう、大丈夫だ。シスター」
走りながら、アレクは声をかけた。呼吸は乱れていないうえ、とても冷静な話し方だ。
「……」
「あれ、気絶してる?」
腕の中で、エレットは目を回していた。
「そのまま送ってやれ」
闇の中で、弓を構える女とすれ違った。白銀の鎧を纏っているが、アーメットは身に付けていない。凛々しい眼の女だ。
「了解、隊長」
そして、アレクは闇の中へ溶けていった。
翌朝、エレットは修道院の扉の前で目覚めた。
引きつった、モーリス神父の顔が視界に飛び込んでくると、悲鳴にならない悲鳴を上げるのであった。