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恋慕

作者: 四季咲樹

「恋慕」

              四季咲樹

夏の朝早くのことだった。男は東京から神奈川県のとある場所に建てられた団地の二階の部屋に住まう事になった。引越し屋の運送トラックから荷物を降ろして部屋にすべて運び終わってからの事だった。

もう夜の八時を過ぎた頃だった。部屋のチャイムが鳴り、寝ていたベッドから男は身をお越し、玄関の扉に向かいドアノブを掴み押した。

開かれた扉のその先には薄いピンク色のネグリジェの上に薄い羽織ものを着た長い黒髪でシャンプーの匂いを漂わせた妖艶な美女が笑みを浮かべ立っていた。

「どうも、隣の部屋に住んでいる者です。宜しくお願いします」

どうやら彼女は引っ越してきた男に挨拶をしに来たようだ。男は挨拶と軽い会釈だけした。女性は笑みを浮かべたまま男の目をじっと見つめていた。男は女性の瞳に吸い寄せられそうになったと同時に目の前に立っている美しい女性を前に緊張していた。

女性は男が会釈をしてから男に背を向け下の階の部屋に入っていった。男は女性が去ってから扉を閉めた。しばらく心臓が早鐘のように高鳴っていることに気づいた。男は今の自分が感じているこの感覚が一目惚れによって生じた「恋心」だと云う事を理解するのは容易な事だった。

次の日の朝の事だった。男がゴミ出しをするためにゴミ集積所に行ったら、昨日挨拶に来た女性が一足先にゴミ集積所でゴミを捨てにきていたようだ。女性は昨日とは違いネグリジェ姿ではなく、白いワンピースを着ていた。

「おはようございます。いい天気ですね」

「あ、おはようございます。ええ。そのようですね。ですが午後から大雨が降るようですよ」

女性が何気ない挨拶をしてきたので男は挨

拶を返した。女性は昨日挨拶に来た時と同じネグリジェ姿だった。男は前屈みになりそうになり、慌てて女性に背を向けて団地にある自室に戻ろうとしたところ背中の方から声をかけられ女性の方を振り向き声の主である女性に対して「はい?」とやや首を傾げて返事をした。

「昨日は夜遅くに挨拶に来てしまい、すみません。それに名前も名乗りませんで。私の名前は間宮詩織と申します。宜しくお願いします。」

「こちらも昨日は名乗らずにすみません。俺の名前は須郷累と言います。こちらこそ宜しくお願いします。」

詩織は累が挨拶をしてから会釈をした。 

 その後、累と詩織は互いが住まう別々の部屋に戻った。午後の六時頃のことだった詩織が云っていた通り大雨が降ってきた。それも一階の部屋の靴置場にまで雨でできた水嵩が入り込む程に。

それから程なくしても雨の勢いは衰えず、三〇分を過ぎても雨は降り続けていた。そんな時、累の部屋のチャイムが鳴り累は玄関の扉を開けた。扉の先に居たのは詩織であった。

「どうしたんですか」

「突然訪ねてすみません。私の部屋の玄関に大雨によってできた水たまりが侵入してしまい危なくなってきたので、しばらくの間、須郷さんの部屋にお世話になってもよろしいでしょうか」

累はこの状況で断れるわけもなく詩織の申し出を承けるしかなかった。

「構いませんよ」

「ありがとうございます。お礼に夕食をお作りしますね」

「そんな、いいですよゆっくりしていてください」

「そういう訳にはまいりませんお世話になる以上このくらいの事はさせてください」

累は彼女の強い申し出に了承する以外の言葉は無意味だと判断した。つまり押し切られてしまったということである。

それから、午後の七時三〇分を過ぎる頃のことだった。

「須郷さん夕食の支度ができました」

「わかりました」

累はテーブルに並べられた料理を見た。そこに並べられた料理は白米、御吸物、冷奴、ほうれん草の胡麻よごし、秋刀魚の焼き魚に大根おろしを添えたものだった。

「とても美味しそうです。では頂きます」

「どうぞ」

「詩織さんとても美味しいです」

「ありがとうございます。亡くなった主人以外に食べてもらうことになるだなんて思いもしなかったので正直味の方に不安があったのですが、お口に合ってよかったです」

彼女は微笑みながらそう云った。

「すいません辛いこと思い出させてしまったみたいですね」

「いえ。そんなことはないですよ。亡くなった主人との思い出は楽しいものばかりだったので、辛いことはほとんどなかったので気に病まなくても大丈夫ですよ」

「そうですか。なら良いのですが」

累は顔には出さなかったが内心では驚いていた。詩織が未亡人だということに。そしてもう一つ驚いたこと、それは彼女が薬指に指輪をつけていたからだ。それはつまり、詩織は今でもご主人を想っているという一途な気持ちを抱いているという証に等しいものだからである。

「このようなことを聞いていいのかわからないのですが」

「どうぞ、何なりと聞いてください」

「何故、ご主人が亡くなられた今でも薬指に指輪をつけているのですか」

累は詩織に思い切って指輪の事を聴いてみた。内心では理解しているつもりではあるが、累は本人の口から発せられる声で聴いて知りたかったからである。

「まだ主人に対して未練があるからなのではないでしょうか。もう一つの理由としては主人への償いです」

「償いとは」

「主人が亡くなったのは私を交通事故から己を挺して守ったからなのです」

累は詩織の話を聞いて次に彼女の口から出される言葉が解ってしまい、先んじて累は彼女に言葉にして云った。

「つまり、償いとはご主人が自分自身を犠牲にして詩織さんの命を守ったという事実を記憶から忘却してしまわないようにすることですね」

「はい」

詩織は涙を流しながら返答した。

ご主人が亡くなった原因が自分にあるのだと彼女は自分を責めている節があるようだ。言葉にははっきりと出していないが表情と涙からそれが伝わってきた。

「詩織さんが事故の原因だとして、それで自分を責めてもご主人が喜ぶと思いますか、俺がご主人の立場ならとても悲しくなります」

「ありがとう。そう云ってくれるだけで私は嬉しいです。きっと私は誰かにそう云ってもらえることを望んでいたのかもしれないわね」

詩織は涙を流しながら微笑んだ。その時の詩織の微笑は自分を縛っていた呪いという呪縛から解き放たれて自由の身になった人間のようであった。

時間は九時を過ぎた頃だった。未だ雨は止まず、ひどくなる一方だった。

「詩織さん、今夜は家に泊まっていかれますか」

「いいのですか。ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

累は窓の外を見て彼女に云った「今夜の雨は何を洗い流しているのでしょうか。この雨は時間を増すごとに激しくなっています。まるで濃くて洗い流すのに雨が苦労しているように見受けられます。もし、この雨が流しているものが詩織さんの抱えているものだといいのですがね」

「え……」

詩織も窓の外を見て、小さく笑った。

「ええ。そうだといいですね」

累と詩織は数秒間窓の外を二人で肩を並べて見ていた。

そしてしばらくした後、二人が居る部屋から灯りが消えた。



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