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後に祭り

作者: 須賀

 



 ビールはあまり好きじゃない。


 幼い頃に父親が美味しそうに飲んでいたものを好奇心でこっそり舐めてみたら、悶えるほど苦かったからだ。


 それなのに何故、私の目の前にはジョッキになみなみと注がれた生ビールが置かれているんだろう。世のビールのお手本みたいに泡のバランスが完璧だった。


 混み合った居酒屋に入って三十分、頼んだ覚えのない生ビールを輝く笑顔で置いた店員は、「……え、あの、これ、」と社会不適合者ばりに言葉をもそもそ小出しにする私に気がつくことなく、忙しそうに空いたグラスを持って身を翻していった。


 意味のある言葉を吐き出し損ねた口は「ふあー」と抜けた声を出す。騒がしい店内では誰の耳に届くこともなかった。


 直後、さっきの店員が横を通ったから声をかけようと思ったが、思ったときには既に通りすぎていて、彼が入り口で数人の社会人にいらっしゃいませーしているのをぼんやり見つめる。


 元気ないらっしゃいませだ。私がバイト先のコンビニで言っている「ぁっしゃーせー」とは大違いである。きっと客にいらっしゃってよかったと思わせられるレベルの高いいらっしゃいませなのだろう。


 考えているうちにいらっしゃいませの免許皆伝確実な店員はキッチンに引っ込んでいった。また声をかけるタイミングを逃した。私とあの店員では時間の速さが違うのかもしれない。


 元々、私は人より行動がワンテンポ遅れているようで、人より行動がワンテンポ速い実家の母親は、娘との時差によく苛々していた。


 父親は目立つ特徴はなかったけれど、そんな二人の中心を生きているような人で、急ぐ妻をやんわりとたしなめ、鈍間な娘の手をやんわり引いてくれていた。


 きっと我が家の(かすがい)は子じゃなくて父だった。私たちは父がいたから成り立っていたのだ。


 だから、事故により彼を亡くした親子はバラバラになって当然といえる。珍しく父が母よりもせっかちにこの世を去ったものだから、私は通っていた短大を卒業するタイミングで家を出た。


 足並みを揃えさせてくれていた夫と足を引っ張る娘を失ったあの人は、今頃どこまで生き急いでいるのだろう。


「俺が頼んだのはこれじゃねえよ!」


 酷く攻撃的な怒鳴り声が私の思考を止めた。いやいや、ビール一杯で何を浸っているんだ私は。


 この場に母がいたならぼけっとしている娘を見て不愉快そうに顔を歪めるだろうし、さらに父がいれば「まあまあ」と困ったような曖昧な笑みで間に入っていただろう。


 しかしカウンター席に座る私は一人だ。誰も思考の宇宙旅行を咎めないし、誰も怒る母をなだめない。幽霊になった父が隣にいる可能性は否定しきれないけれど、見えないのではいないと言っていいと思う。


 隅に座る私の右隣は壁なので、偉大なる父が壁埋まりフェチでないことを信じ、左隣の空いた席に手を伸ばしてみた。念のためだ。酔っているからかもしれない。


 もし父がいたなら頭部ほどの高さであろう位置で手首を振ってみたが、何かにぶつかることはなかった。自分が一人であることを再確認。


 それから興味本意で、今も怒鳴り声が響く後方の席を振り返り見てみた。


「さっさと生持ってこいっつってんだろ!」


 四人掛けのテーブル席を一人で陣取る、目付きの悪いやくざが、店員を目と表情と声と、あと雰囲気とかで威圧していた。ちらり、見ただけの私もついでに威圧された。


 彼の前にはどこかの誰かが先程頼んだはずのカシオレがあって、私はいつにない俊敏な動きで首と体を正面に戻す。


「う」


 泡が随分減ってしまったビールが、ようやく気づいたかと言いたげにこちらを見ていた。





 震える足ながらも両手で持ったジョッキを彼の元に届けたのはきっと普段に増して摂取してしまったアルコールのせい。


 別に私が悪いわけじゃないのだから働き者な店員の対応を待てばよかったということに、彼の正面の席に座らされたときにようやく気が付いたのは、どう考えても私の性格のせいだった。


「あのデブのせいで俺がクビになりそうなんだぜ? ふざけんなっつー話だろ」


「……はぁ」


 誰が見ても機嫌が悪いとわかる彼の愚痴を、遅ればせながら私の元にやってきたカシオレと一緒にちびちび飲みこむ。


 やくざ、とろくにその方面の知識を持たないくせにその言葉で彼を表したのは、スーツ姿の彼が健全なサラリーマンにはとても見えなかったからだ。


 着崩したシャツの下から覗く鎖骨のあたりにはまるでネックレスのように英字が彫られていて、思わずグラスを歯にぶつけた。タトゥーをこんな近くで見たのは初めてだ。いけないものを見たような気になって目を逸らす。


 私の無謀な勇気の成果であるビールを美味しそうにごくごく飲む彼は何者なのだろうと勘繰っていたら、聞いているのかと睨まれた。聞いてなかった。


「ったくよー、どいつもこいつも……」


「……すみません」


 苛立ちを孕んだ舌打ちが耳に届き、びくびく、肩を震わせ、そしてじりじり、椅子を後ろに下げてテーブルから申し訳程度に距離をとった。もし殴りかかられても出来るだけ逃げられる可能性を高めるためにだ。その行為に意味があるかどうかは実際に殴りかかっていただかないとわからない。明かされない謎って魅力的だよね。永久に謎であれ。


「職場の女が金持って逃げたのよ」


 ほんのり赤らんだ顔でメニューを見つめる彼は、忌々しそうに吐き捨てた。あれ、私が聞いていなかっただけなのにもう一度話してくれるなんて、そこまで酷い人じゃないのかもしれない。


 カシオレを飲みきってから、体ごと椅子を前に動かした。なんとなく、彼は怖くないと思ったから。通路側ゆえに後ろを通る人の邪魔になっていたからでもある。ご迷惑かけてごめんなさい。


「えーと、何のご職業で……?」


「そこから聞いてなかったのかよ。酔ってんのか?」


 多分あなたよりは酔っていません。顔と耳だけでなく首元まで赤みに侵略されている様子からして、見かけによらずお酒に弱いようだ。


「デリヘルだ」


「成る程」


 彼は砂肝と獅子唐の炒め物をぱくぱくり、口に放り込んでいる。あ、それ美味しそう。自分も頼もうか。それともお願いしたら少し分けてもらえるかな。


「俺、焼酎頼むけどあんたはどうする」


「あ、私、赤ワイン頼もうかなって」


 メニューを見終わったらしい彼から予想していなかった気遣いを受けて、しかし反射的に返事を返す。


「そうか。あとは……焼き鳥でも食うかな」


「は?」


「あ? 鳥、嫌いかよ」


 焼き鳥に文句があるわけではない。聞き慣れない単語をようやく頭が理解しただけだ。


「で、でりへる?」


 絞り出した声が裏返った。ここで普通のサラリーマンだと言われてもどうせ信じはしないだろうけど、その職業は予想の範疇から三キロメートルほど離れた答えだった。マラソンレベルである。


 そして脳内で小さな私が必死にゴールテープを切っていた。長距離走は学生時代、授業毎にクラスメイト全員から応援されながら感動的なゴールをしていたから苦手だ。あの、ビリの人に「頑張れー」と最初に言いだす人は一体どんな恨みがあってああも残虐な行為に手を染めるのだろう。しかも大抵普段話したことない人だ。クラスの中心キャラは末端にまで優しさを配布することをノルマに過ごしているのかな。


「反応遅えな」


「よく言われます」


 目をぱちくりされて、居心地の悪さにお冷やに口を付けた。彼がそれを見て、早く注文してやらないと目の前の女がみみっちく水を啜ることになる、と思ったかは知らないが、よく通る声で店員を呼んだ。


 一度怒らせた客だからか、店員は一瞬でやってくる。私の三倍くらい俊敏だ。手早く注文を済ませると彼は砂肝の炒め物を完食して、お冷やをじゅるじゅる吸い込む妖怪お冷やじゅるじゅる女との会話を再開した。あ、砂肝なくなっちゃった。


「あー、知ってるよな。デリヘル。デリバリーヘルス。男が女を家とかホテルとかに呼んで、」


「や、説明は、いいです」


 こんなところで事細かに説明されてもなんだか居た堪れない。お冷やから口を離してそれだけは拒否した。


「そうか? んで俺受け付けやってんだ。電話受けて、女を確保すんのが仕事。結構大変なんだぜ? 今まで十分数こなしてるくせに直前になって生理なっただの、胃が痛いだの。そんな奴ばっか」


「……」


 縁のない世界の話とはいえ、女性側からするとそう言い訳つけて逃げたくなる気持ちもわかるような気がしたけど、口には出さない。所詮、縁のない世界だ。


「数日前に、ある女が二日分の売り上げ持ち出して消えやがって」


「え、犯罪じゃないですか」


「うちのボスが大事にしたくないから本人見つけて連れてこいっつっててな」


 上司をボスと呼ぶあたり、いかついなあと思った。でもこの人が言えば大抵何でもいかついような気もした。


「それは、……連れていったらその人どうなるんですか?」


「……それはこんな人の多いところじゃ言えねえな」


 神妙な顔で言い淀むものだから、背筋が冷える。


 デリヘルの説明に一切躊躇わなかった人が口を噤むなんて、一体その逃げた人はどんな処分を受けるのだろう。想像もつかない。そしてそれは大事ではないのか。


「冗談だよ。ユズは、あー、そいつのことな、ユズは逃げるの二回目なんだわ」


 どんな表情をしていたのか、私の顔を見て彼はけらけらと可笑しそうに笑い、丁度運ばれてきた焼酎を口に含んだ。


 ユズ、さん。ユズさんねえ。二度も逃げ出すなんて、肝が据わっているというか、なんというか。何も言えなくて私も赤ワインのグラスに口をつけた。


「若いうちからホスト狂いでよー、家族からは縁切られて、それでうち来たんだけど、ホストに貢ぐための金がなくなって売り上げ持ち出し。まあすぐひっ捕らえたけどな。ホストに呼び出させたらすぐ飛んできやがんの」


 それはユズさんもホストの人も恐ろしい思いをしただろうなあ。


「そっからは他の女より低い単価で働かせてた」


 可哀想、とも言えるが、仕方ない、とも言える。そんな処遇を受けても働き続けることに甘んじた彼女は、家族の元に戻るという道をどうして選ばなかったんだろう。就職をするでもなく、無意味に家を出た私が言えることでもないかもしれないけど。


「じゃあ、今回も同じように呼び出せばいいんじゃないんですか?」


「そう思うだろ? でも他で男出来たらしくホスト通いやめてて、どこ探しゃいいのかわっかんねえんだよなあ」


 職場の他の同僚にもその恋人のことは話していなかったらしく、思い当たる場所を探しつくした今、手詰まりだ、と彼は重い溜め息を漏らした。


「理不尽なことに俺の責任になりかけてんだ。あーくそ、少し指名多いからって調子乗りやがって……絶対見つけて、そんで殴る」


 凶悪な顔でグッと拳を握る様は震えあがるほどには恐ろしかった。相手が女性でも関係ないようだ。男女平等を実践しているところに尊敬の念を抱いたりしたいところだけど、自分に正直な私は体を縮こまらせてポテトフライを摘まむことしかできなかった。美味しい。


「……指名多いってことは、その人美人なんですね」


「そうでもねえ。ただのデブだデブ」


 訊いた私に、彼は片手をひらひら振ってあっさり否定した。その酷評は今回の件があってこそなのでは、と思ったが、淡々と貶める言葉はあくまで彼の素直な評価のようだ。


「化粧濃いだけだし。そうだな……あんたのがよっぽど美人だろ」


「ほあ」


 美人なんて言われたこともない。女性経験の豊富そうな彼からしたらただのお世辞だろうけど、ほんのり照れる。


「あんた何歳? 学生じゃないだろうし、でもOLには見えねえ。仕事は?」


 急な質問に、先に続く流れを予想して、照れやら嬉しさやらはサッと温度をなくして嫌な汗をかく。


「はっ働かないですよ」


「勧誘じゃねえよ。ただの世間話」


 呆れたように笑われて、唸りながら背中を丸めた。過剰に反応して馬鹿みたいではないか。


「……フリーターです」


「プーかよ」


 馬鹿にした笑み。地元の知り合いに十分笑われたので間に合っている。就職がそんなに偉いのか。結婚して子ども産めば勝ち組なのか。自分の幸せは自分で決めるものだろう。泣いてないもん。


「バイトはしてますから」


「うちのが稼げるぞ」


「……」


 結局勧誘なのか。人数減って困ってるのかな。助ける気はないけど。人には出来ることと出来ないことがあるんだって私は知っている。それと知らない人についていくなって教訓も私は知っている。賢い。


「冗談だって。彼氏悲しむもんな」


「彼氏?」


 私に彼氏がいることに確信を持っているような言い方だった。そんな話、しただろうか。


「ペアリングだろ? それ」


 彼は掴んだポテトで、怪訝そうに首を捻る私の手を指し示した。ケチャップがつきそうになったのでそっと手を引く。


「え? あ、あー」


 シンプルなリングは、確かに彼氏と二人で買ったものだ。随分長い期間つけているからか、全く意識していなかった。


「外すの忘れてました。一昨日別れたんですよ」


「忘れんなよ……。気づくの遅えな」


 ぴったり嵌っていた指からするりと抜き取り、店内のオレンジっぽい明りに当てて眺める。常に身につけていた割には傷などはない。


「うーん、高く売れますかね」


「うわ、未練ないのか。あんたが振ったの?」


「私が振られました」


「ぶふっ」


 噴き出すと、彼は酷く噎せながら大笑いした。何がそんなに面白いんだろうと思いつつも、当人の私までつられて少し笑ってしまったから、これはもしかして面白い出来事なのかもしれない。


「理由は?」


「半年浮気されてました」


「なんでそれであんたが捨てられるんだよ」


 何故か彼が不愉快そうに唇を曲げた。


 それを訊きたいのは私なので、答えられない。曖昧にへらり、笑って返したら、彼は何か思いついたように頬杖をつき、ニッと妖しく口角を上げた。


「な、仕返ししてやろうか? 結構顔は広いんだ。色々伝手はあるぞ」


 その伝手とやらは絶対に健全なものではないんだろうなあ。優しさか、哀れみか、それとも面白がっているのか、彼の真意はわからなかったので首を横に振った。いや、きっと私は何が理由でも断るだろう。


「私も大事にしたくない派なんで要らないです」


「ふうん? 相手の女には? 腹立ってねえの?」


「どうせよく知らない人なので」


 本当は、知らないこともないけれど。一昨日、彼から別れを告げられた時に話は聞いたし、なんならその後に実際に会いもした。何故か私がビンタされた。


 彼とは三年の付き合いだった。別に時間の流れが好意を薄れさせたということもなかった。私ののんびりとした性格を少しも厭わず、受け入れてくれていたのだ。彼に対して、確かに愛情はあった。


 しかし、何故だろう。彼に頭を下げられた時から今この瞬間まで、不思議と怒りが湧かないのだ。


 いつも通りコンビニでぼけっと働いて、いつも通り無趣味で退屈な日常を送っている。ただ、一人で居酒屋に来るのはいつも通りの行動ではないから、私の中では私の気づかない感情の動きがあるのかもしれない。でも自分が気づけない感情なら意味がないと思う。


「私の話は別にいいんですよ。パスします」


「あ? じゃあ……あのデブな、うちは本番禁止が決まりなのに、」


「そういえばおいくつなんですか?」


「聞けよ。別にあんた相手にそんな際どいこと話す気もねえって。……二十七だ」


 もっと年上かと思った。老けてる、というと少し語弊があるけど、雰囲気からして貫禄があるものだから、三十はいってると思っていた。


「どうしてそんなお仕事やってるんですか?」


「……本当に聞きたいか?」


「やっぱいいです」





 彼は伝票を渡してはくれなかった。もたもたと財布を取り出す私を余所に、カードでさらっとスマートに会計を済ませた。ううむ、大人の余裕。


「振られた慰めだよ。怖がらせたのに愚痴聞いてもらったし、気にすんな」


「う……ありがとう、ございます。ごちそうさまです」


 未だにほんのり顔周辺が赤い彼は、最初に見たときより柔らかな表情をしていた。お酒弱いし、酔っているのかな。これがギャップというやつか。


「家どこらへん? 駅まで送るか?」


「……」


 ずっと悩んでいた。そんな偶然あるはずもないと思ったけど、それを確信してしまってから、私は迷っていた。


「あの、」


「ん?」


「明日の朝、東京駅、八時十二分発、金沢行きの新幹線、です」

 でも、これが私の答えだった。





 彼は私をゆずと呼んでいた。


 彼は彼女をユズと呼んでいた。


 その呼び名に、意味はあったのだろうか。彼はゆずとユズのどちらを選んだのだろうか。


 ゆずに頭を下げ、ユズの手を引いてどこかにいなくなったことから、それは明白なのだけれど。


 同じ呼び名はややこしくならなかったのか、考えてみるけれど、違う呼び名よりその方が楽なのかもしれない。同じ名前なら、間違えないもんねえ。


 私と過ごしているときに呼んでいた「ゆず」は本当にゆずだったのかなあ、なんて、どっちでもいいか。


 もうすぐで、父の命日だったのだ。


 その日だけは母を一人にするつもりはなかった。流石に実家に帰るつもりだった。


 彼は一緒に行くと言ってくれていた。二人で新幹線の指定席を予約して、デパ地下を散策し手土産を考えていた。


「あなたには、彼は必要ないじゃない」


 あのとき、彼に寄り添うユズさんに言われた言葉を呟いてみた。最低限の家具しかない静かな部屋にはやけに響いて、リビングにいる母に聞こえてないだろうな、と眉を顰めてから絨毯の上でごろんと寝返りを打った。


 必要だった、はず。不要ではなかった。彼が一緒に行くと言ってくれたから、実家に戻ることへの躊躇が和らいだのだ。


「……いや、微妙か」


 結局、予約した新幹線の切符を私が使うことはなく、しかし特に苦悩することもなく私は元々行く予定だった日の翌日、自由席の切符を買って一人で実家に帰ってきた。手土産は東京駅で東京ばな奈を買った。


 ここに来るのに彼がいなくては駄目だったかと言われると否だ。だから彼は自分を必要としないゆずの元を離れ、強く求めてくれるユズを選んだのだろう。


 二人はどうやって出会ったか、知りたいような知りたくないような。流石に別れ話をされているときに馴れ初めをインタビューする気にはならなかった。


 危険な人に追われている。彼はユズを支えながらそう言った。だから私は、じゃあ有効活用してくれと二人分の新幹線の切符を渡した。別れ際くらい、心の広い人間を気取りたかったのかもしれない。


 まあ、結局、その行為の意味をなくしたのは私なんだけど。どうして、私はあの人に、


(ゆずりは)


 名前を呼ばれて、もぞもぞ立ち上がる。小腹が空く時間だし、おやつかな。甘いものに目がない母は東京ばな奈に目を輝かせていたから、すぐに行かないと全部食べられてしまう。


「わ、高そうな紅茶だ」


「馬鹿そうな発言ね」


 リビングで母は紅茶を淹れていた。知らない間にそんな趣味を得ていたのか。お洒落でいいな。私も紅茶マニアになって、趣味は何ですか、って訊かれたら、最近は紅茶に凝ってますのって優雅に答えたいな。


「うーん、この香りは……、アールグレイ!」


「ダージリンよ」


 適当言うものじゃないな。というかアールグレイしか知らなかったんだよ。


「そういえば、前に電話したときに彼氏と一緒に来るって言っていなかった?」


 のんびりティータイム、と思いきや触れてほしくなかったことに触れられ、顔が引き攣る。


「突っ込みがお母さんにしては遅いね」


「遅いんじゃなくて、タイミングを窺っていたの」


 その言い訳いいね。私もこれから使っていこう。


「振られました」


 紅茶を啜った。緑茶だとズズーと音を立てても許される気がするのに、紅茶だと雰囲気が許してくれない。日本と外国の文化の違いをしみじみ感じながら、日本人の私はズズズー、音を立てて飲んだ。


「ふうん。だから楪、機嫌悪いのね」


「へ」


「お父さんが困っちゃうから機嫌戻しておきなさい」


「は」


 機嫌が悪い。機嫌悪いのか、私。


 機嫌が悪いから、居酒屋に一人で行ったりして。


 機嫌が悪いから、あの人に彼らの乗る新幹線と時間を教えた。


「……そっかあ」


「これ、東京ばな奈、美味しいわね。また買ってきて」


 そっか。そっかあ、私、怒ってたんだ。


 彼の裏切りにちゃんと怒っていた。浮気されて悲しんで、怒っていた。私は彼を必要としていたのに、突然現れた知らない女の人にそれを否定されて怒っていた。


 我ながら、気が付くのが遅いなあ。それなのに、無意識に怒りを人に預けるとか、たちが悪いよ。





 実家に一泊して、一人で住むアパートに戻った日の夜、私はあの居酒屋に行ってみた。


 ここに来れば会える、というより、ここ以外会えないだろうと思った。


 会ってどうしたいかはわからないけれど。


 数時間粘ったけど、やくざみたいなあの人には会えなかった。


 客に女の子を派遣してお金を稼ぐ彼と、ぼんやりおでんを見つめてお金を稼ぐ私(語弊あり)はやはり世界が違って、やはり接点はなかった。

 




 ビールはあまり好きじゃない。


 全員の意見を聞くでもなく、「とりあえず生」なんて、一体何がとりあえずなのかわからない注文を通されてしまうからだ。


 仕方がないのでビールはただの乾杯用の道具と見なし、役目を終えたらテーブルに置いて、料理のみに手をつける。タイミングを見てカクテルか何かを注文しよう。


 店長が皆に茶化されながら、長々とよくわからない多分前向きな感じの言葉を連ねている。一度しかシフトが被ったことのない大学生の送別会に来た私は、隅で唐揚げを頬張っていた。


 送別会の参加の是非を問う連絡が来たのは実家から戻ってきた次の日だ。連絡をくれた幹事の人に普段なら不参加を決め込む私が参加の返事をすると、そこまで変だったのか店長から心配のメールが届いた。


 就活に専念するためにバイトを辞めるらしい大学生にフリーターの呪いをかけるため、なわけはなく、会場予定の店の名前に聞き覚えがあったからだ。


 あの彼と会った場所。今日はあの日から六日後だ。当然、彼とはあれ以来会っていない。


 今日も、私の手元にあるビールは取り違えられたものではないし、後ろの席から怒鳴り声が聞こえることもなかった。


 ……まあ、そんなもんか。


 誰かが頼んだ砂肝と獅子唐の炒め物が目に入ったので、箸を伸ばして食べてみた。獅子唐が苦くて、一人で悶えた。


「なあ、あんた。俺間違えてカシオレ頼んじゃってさ、そのビール、飲まないなら交換しようぜ」


 肩を叩かれ、口内に広がる苦みと格闘しながら振り返る。


 飲んでもいないビールを噴くかと思った。





 私が一人で飲んでいなかったように、彼も一人ではなかった。どことなく彼と同じような雰囲気の人たちと、美人でスタイルのいいお姉さんたちが奥のテーブル席に見える。


「岸さん。知り合いっすか?」


 目を丸くする私がカシオレのグラスを持たされているうちに、彼の知り合いが呼びに来た。


 岸さん、というのか。そういえばお互い名前も知らなかったなあ。


 訊きたいことはあったけれど、パートのおばさんが何か言いたげにこちらを見ていることに気が付いたから、あ、あ、どうしよう、と挙動不審になる。取り乱す様がそんなに面白かったのか、彼は楽しそうにげらげら笑うと、スーツの内ポケットから何か取り出した。


 拳銃でも取り出しそうな仕草だ。やっぱやくざだ。小学生みたいな感想を心の中で感想文に書き込んだ。脳内コンクール、応募者は一名。金賞を貰った。あほか。


「いい額になったら、次奢れよ」


 内ポケットから出てきた何の変哲もないハンカチを押し付けられ、反射的に受け取ると、彼は自分の席に戻っていった。


 何のことだろう。


 その後、今日の主役の大学生に向けて一人ずつ言葉を送ることになり、私がマイク代わりのうまい棒を持たされ青褪めているうちに、岸さんとその集団はいなくなっていた。





 薄ら寒い空気が酔った体をいい具合に冷ます。


 二次会には参加しなかった。うまい棒を片手に混乱して「強く生きてくださいいい!」と涙目で叫ぶ私に大爆笑した店長は何度も誘ってくれたけど、丁重に断りを入れた。


 家の前に着いてポケットから鍵を取り出すと、一緒に入っていた例のハンカチも引っ張られて、何かがキン、と音を立てて地面に落ちた。


 あれ、鍵は手に持ってるし、小銭でも入れていただろうか、と目を細めて落ちたものを探す。


 きょろきょろと慌ただしく周囲を探したくせに、それは私の足のすぐ横に落ちていて、人差し指と親指で摘まみ上げた。


 銀色の、リング。見覚えはあった。見覚えしかなかった。あのハンカチはこれを包んでいたのか。


 それから、家に入って風呂を沸かした。普段使わない入浴剤を入れてみたりして、ビバノンノン、鼻歌を歌う。


 風呂上がりには、いつ買ったかは忘れたけれどずっと楽しみにしていたアイスを食べた。多分高いやつ。お高い味がした。


 そして、寝る直前。明りを消す寸前。アラームをセットして、布団に潜って、そこでようやくマラソンしていた思考がゴールした。


 ああ、成る程。つまり。


「ざまあみろ!」


 遅い、と声が聞こえた気がした。その声は、母の声にも聞こえたし、あの彼──岸さんの声にも聞こえた。


 うん、その通りだ、と声をあげて笑った。






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[良い点] 面白かったです。続き気になる。捨てるよりは売り払う方が良いよね!浮気男の思い出など不要!泣くだけ泣いた後にパーッと騒いでしまおう。その為にも高値ついたらラッキーw 奢る約束…つまり続きあり…
[良い点] 遅い! [一言] この遅さ…俺といい勝負やな! 事が起きてから期間空いてようやく言葉に出てくるのがあまりにも共感出来てしまった… ガツガツしてなくてこの緩さが好き
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