成程、世界には境界線が引かれている
「ごめんなさい。申し訳ないけれど、貴方の気持ちには答えられない」
微塵の申し訳なさも感じない表情で、僅かに眉を顰めた彼女は緩く頭を下げた。
何となく予想していた答えに、悲しくはあっても落ち込むことはなく、そっか、と眉を八の字にする。
顔を上げた彼女はやっぱり眉を顰めたままで、眼鏡の奥の瞳をこちらに真っ直ぐに向けていた。
答えられないけれど、真摯なんだよなぁ、と思えば愛おしくなってしまう。
だが、次の瞬間には茂みの中から何かが飛び出して、そんな思いも吹き飛んだ。
「文ちゃん!この後雨だって……」
飛び出して来たのは人間で、表情の薄い割に元気そうな声が響いた。
髪の毛には緑色の葉が巻き付いていたが、本人は気にしていないようで、俺に見向きもせずに彼女に寄っていく。
俺に気付いて声が小さくなったはずだが、こちらの方に視線を向ける気配はない。
ぺったりと彼女に正面から抱き着いたその子は、それ以降動かなくなってしまった。
彼女は頭部を見下ろして、髪の毛に触れているが、その口元は綺麗な弧を描いている。
傘持ってない、持ってるわ、なんて二人分の声が交互に聞こえて、彼女は俺に目を向けた。
それから酷く曖昧な笑みと会釈を残して、お腹の辺りに巻き付いた子を連れていく。
巻き付いていた子を、俺は知っているけれど、きっと向こうは俺を知らないのだろう。
一度も向けられないと思った視線が、立ち去る際に向けられた時、何の感情も含まれていないことに冷や汗が出たけれど、ただ、それだけ。
***
あの子の言った通り、帰ろうと思った時には雨が降り出していた。
玄関へ続く廊下の窓から見た空は、どんよりと灰色に覆われ、ザァザァと雨粒を落としている。
何だかなぁ、なんて息を吐きながらスポーツバッグの中に入れてあった折りたたみ傘を取り出す。
それから顔を上げると、玄関で立ち尽くす女の子を見つけた。
それは紛れもなく、雨が降ると言って飛び出して来た女の子で、足音に気付いたのか、ゆるりと視線を向ける。
真っ黒な瞳に小さく俺が映るのが分かったが、その子は何も言わずに俺を見つめ続けた。
何かしただろうか、覚えはないのだが。
眉を下げて曖昧に笑ってみれば、その子は軽やかな足音を立てて歩み寄って来た。
プリーツの綺麗なスカートが左右に揺れる。
「……知ってる」
「え?」
薄い唇から放たれた言葉は、理解出来るような内容ではなかった。
圧倒的なまでに言葉が足りなさ過ぎる。
目を丸めた俺に、視線を一度足元へ落としたその子は、同じ言葉を繰り返す。
「文ちゃんのこと、好きなの、知ってる。知ってた」
何で、そんな疑問は浮かばなかった。
そりゃあ知ってるだろう、と口から飛び出そうにはなったが、その子は知ってて突然だ。
だっていつだって、その子は彼女の隣にいたのだから。
そこが定位置とでも言うように、ずっと彼女の隣にいたのだ。
ただ、疑問を浮かべるとするなら、こちらに一度も視線を向けられた記憶はないが、良く見ていたな、という疑問にもならない疑問だった。
それでもそれを口にすることはなく、俺は曖昧な笑顔を貫く。
「でも、駄目。文ちゃんはボクの、ボク達の。あげない、誰にも、あげない」
ガラス玉のような瞳が俺を映していて、上手く言葉が吐き出せなかった。
喉が乾いてヒリついて張り付いて、何も言わずにその子を見るしか出来ない。
可愛らしいと呼べる、人形とも称されるべき容姿をしているはずなのに、その実人間らしい温度を感じることもなく、まとう空気に押し潰されそうだ。
だが、そんな空気は直ぐに霧散して消える。
何かに反応したように、その子の視線は俺から外れて、俺よりも奥の廊下に向けられた。
それから「文ちゃん!」と僅かに跳ねた声。
折り目正しいプリーツが大きく揺れ、その子は駆け出す。
時間を掛けて振り返った先には、予想通り彼女の姿があって、その手には鞄と大きめの傘。
ぺっとりとまとわりつくその子を邪険にすることはなく、エスコートでもするみたいに玄関へやって来て、こちらを見ることなく靴を履き替える。
眼鏡の奥の瞳は、緩く下がり、その子に微笑む。
ボンッ、と音を立てて開かれた傘は成程、二人で使うには十分な大きさだった。
青紫の紫陽花が描かれたそれに、彼女とその子は並んで入っていく。
寄り添う二人を見ながら、いつの間にか詰めていた息を吐き出す。
くるりと回された紫陽花は、雨水を弾いて咲き乱れていた。