ニールの素敵な一日
旧アルマン王国首都ラウフ。現イダール王国領ラウフの中枢である王城に、今の城の主たる総督の声が響く。
「ニール! ニール、どこだい!?」
総督の呼ぶ声に午前の仕事に一段落付けてそろそろ昼食を取ろうか、と思っていたニールは執務室に飛んで帰る羽目になった。
「いかがなされました、閣下?」
内心ではどうせろくでもないことに違いない、と思いながらも完璧な外面を取り繕って総督の前に出ることができたのは、長年の付き合いあってこそである。……彼はこの総督の破綻的な人格と、その人格を補って余りある才能を誰よりも間近で見てきた一人なのだ。
「あぁ、良かった。もう昼食に出ていたら面倒なところだったよ」
それは自分の昼食の時間を丸々奪い取るほど面倒な用事を言いつける気満々だと言うことか、という心の声を押し殺してニールは命令を待つ。
「実はね、ちょっと申し訳ないんだけど……」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「やれやれ、まさか花を買って来いとはな」
ニールはつまらない用事を言いつけられたことを嘆くようにブツブツと文句を言う。……もちろん誰かに聞きとがめられない程度に。
なんでも、どうしても今日中に花が必要だったにも関わらず出入りの業者に注文を出すのをうっかり忘れていたらしい。しかも、あまり吹聴したいものでもないので他の使用人に買いに行かせたくもなく、仕方なくわざわざ総督の副官という立ち位置にあり口も堅いニールに頼まざるを得なかったとか。
(……まさか浮気じゃあるまいな)
自分でも否定しながらそのようなスキャンダルが頭から離れない。政略結婚とは思えない熱愛ぶりが話題に上がるほどのおしどり夫婦だが、今現在総督の妻は身重である。ひょっとすると、ひょっとするかもしれないが……
(いや、やはりないか。アレで意外と人間関係には真面目な人だから)
適当に買ったサンドイッチを齧りながらニールはかぶりを振る。仕事に関しては気分でサボったりサボらなかったりする総督だが、私的な付き合いには真摯である。……副官の立場からすると仕事の方にも同じぐらい真剣に取り組んでほしいものだったが。
「さて、花屋、花屋と……」
できるだけ王城からは離れた店がいい。ニールの顔を知らないような店で買った方があらぬ噂も立たないだろう。……ニールは無骨な軍人である自分をよく承知していた。自分が花束など買いに行ったらどのような印象を持たれるかも。
(全く、総督にも困ったものだ……)
内心では呆れ果てながらも、ニールはこうしてどうでもいい用事を言いつけられる自分が割と嫌いではなかった。戦場で勇猛に戦う英雄たる上官は、見ていてほれぼれするほどだったが……同時にどこか悲し気であることも知っていたから。良くも悪くも不器用な人なのである。「戦争なんて嫌いだ」とニールにだけ零す彼はしかし、英雄として周囲の期待を裏切れない。常勝不敗の英雄という仮面の上に道化の衣装を纏い、誰からも理解されない孤高の将軍として敵国の人間を容赦なく滅ぼすことに思い悩んでいた。せっかく戦争が終わったのだから、せめてその悩みを打ち消すぐらいには幸せになってほしい、とニールは願っていた。微力でもその手助けが出来ればいいとも。
(まぁ花を買うことがその幸せの一助と思わなければやっていけないがね)
結局、自分はなんだかんだ言ってあの破天荒で孤独な英雄が嫌いではないのだ。戦争に勝った彼は「これ以上功績を立てないように」という本国の思惑もあってお飾りの総督位に押し込められ、戦争から引きはがされた。それを憤る部下もいたが、ニールは「これで良かった」と思っている。彼が「戦争は嫌いだ」と語るのは、別に論理的理由があるわけではない。「嫌いだから嫌い」という子供っぽい理屈だ。だからこそ、彼の精神が壊れる前にこうして平穏な生活に引っこむことができたのは僥倖なのだろう。ならば今の幸せを維持すべく努力するだけだ、とニールは自分の仕事をこなすべく堂々と街の通りを歩く。
「……だからと言って、花屋が全くないとは思いもしなかったな」
赴任して1年以上が経つが元敵国の首都であるこの街の地理にはなかなか慣れない。特別用事がなければ王城周辺から離れないこともあり、辺鄙なこの地区にどのような店があるかなどまるで知りもしなかった。いつの間にか街並みはどことなくさびれたそれへと姿を変え、スラムとは行かないまでも貧しい身なりの人々が多くなる。
「……やれやれ。一度戻るか」
見れば周囲の家々から覗く人々の視線は決して友好的ではない。黒い肌の彼らは白い肌のニールを恨みか恐れを込めて睨みつけている。
「……そう敵視しなさんな。こちらも仕事だったんだ……まぁ納得はしてくれないだろうがね」
戦争などそんなものだ。運が悪ければ、自国の王都で町中を闊歩する黒い肌の彼らをニールの方が恨めし気に睨みつけていたかもしれない。勝った者は正義で、負けた以上は悪なのだろう……と、自分に言い訳をしながらニールはそそくさと来た道を戻ろうとする。余計なトラブルなど抱えないに越したことは無い。
「泥棒だー! 捕まえてくれ、そこの兵隊さん!」
と、とりとめのないことを考えていたニールの背中に叫び声が届く。
見れば必死の形相で駆けてくる黒い肌の少女を、身なりの良い中年の白い肌の男が追いかけているところだった。
ニールはとっさに身構えて少女を取り押さえようとし……何かに気付きヒラリと体を躱して少女をやり過ごす。そして全く変わらない勢いのまま駆けてきた男の方に立ちふさがり、そしてその両腕を極めて拘束してしまった。
「あぐぁっ! な、何しやがんだ、お前!」
「……アルマン相手なら何をしても言い逃れできると思っていたか?」
ニールが囁いた瞬間、ピタリと暴れていた男が動きを止める。
「着衣の乱れ、殴られたばかりの青あざ、泥棒にしては盗品らしきものを何も持っていない……大方彼女を無理矢理襲おうとでもしたのではないかね? 殴って言うことを聞かせようとしたが、不意を打って逃げられ、腹いせに追いかけてきた……そんなところだろう」
「…………」
ニールの言葉には何の証拠もなかったが、押し黙った男の様子が何よりも雄弁に真実を物語っていた。
「強姦未遂で逮捕する。……以前の罪も明るみに出れば、『未遂』じゃ済まなくなるかもしれんがな」
「へ、へへ……イダールの兵隊さん……同じ民族のよしみでしょう? そこの黒い肌の小娘一人助けなかったところで……アンタに損があるわけじゃない。ここは一つ見逃してくれやしませんかね……?」
急にしおらしくなった男は、へこへこと押し倒されたままに懇願する。
「……貴様、以前も同じ手口で見逃してもらっていたな?」
ニールの指摘に男はビクンと震える。
「その時の担当兵の名前を言え。厳正に処罰せねばならん」
嘆かわしいが、イダール兵の中には「イダール人の犯罪者だから」「アルマン人の犯罪者だから」と露骨に態度を変える者が少なくない。反乱予備罪としての武器の準備などを除き、アルマン人にも相応の自由が保障されているにも関わらず、だ。
「……な、なんだって言うんだよ、真面目腐りやがって! 所詮敵同士だったんだ! どんだけ綺麗ごと宣おうが、アルマンは絶対に俺たちを許しはしねぇんだよ! だったら支配者として振舞った方が得じゃねぇか!」
そう、彼の言うことは事実である。建前としてどれだけ平等を謳おうが、両国人の間にある溝はあまりに深すぎる。イダールがアルマンを滅ぼして支配したのは厳然たる事実であり、結局は「イダールがアルマンに押し付ける平等」という形にならざるを得ないのは間違いのないことであった。
だが、だからこそニールはその建前を何よりも大事にしなければならなかった。
「綺麗ごと掲げていなければやってられない商売なんだよ、支配者ってのは」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
男を近くの兵隊の詰め所に預けて吐かせた兵士の名前をしっかり記録させ、諸々の手続きを終えてニールが詰め所を出た頃には日はすっかり傾きかけていた。
(……やれやれ。これは総督に怒られるのは避けられん、かな)
総督は怒ったとしても声を荒げたりはしない。ただ「あ、そう」と特に気にした風もなくその場は流す。だが、2、3日したころ「そう言えばこの前の花束のことだけど……」などと時折思い出したようにぽつりとつぶやく。こちらがビクンとすると唐突に話題を変える。それを3月ぐらいねちねちと続けるのである。結構陰湿な怒り方だ、と思うがまぁ甘んじて受けざるを得ないだろう。
「あ、あの……」
ともあれ王城に帰りながら店を探すつもりでいたニールにぽつりと声がかけられる。
「ありがとうございました、兵隊さん……私なんか見捨てられても仕方なかったのに……」
襲われていた少女であった。そう言えば彼女のことをすっかり忘れていたことにニールは気づく。お礼を言うためだけにわざわざ待っていたのか、と困惑しながらも軽く手を振って彼女に応える。
「……別に構わない。犯罪に巻き込まれている市民を助けるのは兵士の義務だ」
肩をすくめて歩み去ろうとしたニールに、少女は縋り付く。
「あの……用事の途中だったんじゃないですか?」
「……まぁそうだが。花を買いに来たんだがね。意外と花屋に遭遇できなかったところだったんだ」
「それなら……ちょ、丁度いいです……わ、私の知り合いがやっているお店が……あるので……」
「…………」
怯えたように縋り付いてくる彼女に……ニールは強面を軽く緩めて少女の頭をクシャリと撫でる。きっとアルマン人が営業している花屋など、このご時世とても苦労しているだろう。ニールには、必死で生き抜こうとしている彼女の逞しさが好ましかった。
「商売上手なことだ……案内してくれ、贔屓にさせてもらおう」
少女に連れられ、ニールは夕暮れも近くなったラウフを歩く。道すがら少女は自分の事情を訥々と語った。ラウフ近郊の農村出身であること、歳は14であること、今は故郷での知り合いの花屋で下働きのようなことをさせてもらっていること。そして……自分の両親はイダールとの戦争で死んだこと。
「…………」
ニールは何も言わなかった。少女の方も、口を滑らせたかのように自らの家族が巻き込まれた戦火を口にしてしまい……後悔したように押し黙ってしまった。
「……私は謝罪しない」
ややあって、ニールはポツリと呟いた。
「私は決して君に謝罪しない。君の身に訪れた不幸について私が謝ることは……勝利を信じて戦場に散った数多の同胞を愚弄することだから」
「…………」
少女はギュッと拳を握りしめる。やりきれない怒りを感じているのかもしれない。
「だからその代わり、私は約束する」
見えてきた花屋の看板をじっと見つめながらニールは言った。
「押しつけがましいと言われようが、傲慢だと言われようが、綺麗ごとだと言われようが……私は必ずイダール人も、アルマン人も問わず幸せになれる国を目指す。それが……勝者の特権であり義務だろうから」
「……夢想ですか?」
少女は冷めた口調で問うた。
「いいや」
ニールはかぶりを振る。
「単に目の前に事実があるだけさ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「誕生日おめでとう。この花束はニールが選んできてくれたんだよ」
「まぁ……ありがとうございます、ニールさん」
(あぁ、誕生日だったか……そう言えば)
1年前のこのぐらいの時期にも確かお祝い事をやっていた。赴任直後でドタバタしていた時だったので、すっかりニールの記憶から抜け落ちていたが。
来年からは忘れないようにしよう、と思いながらニールは花屋の少女の助言を受けながら選んだ花束を抱えてにこやかに微笑む総督夫人を見る。
(全く……総督の癖につまらない気を回し過ぎなんですよ)
結局、総督夫人の誕生日のことをすっかり忘れている様子だったニールに、総督の方が気を遣ってプレゼントを買いに行かせたのだ。実際ささやかな内輪のパーティー会場にはちゃんと花が用意されていることからも、「花を買って来い」がそういう建前であったことは理解できた。
だからニールは総督に感謝したりはしない。今日あったちょっとした出会いのことも胸の内に隠し、口では祝い事を述べながら「全く総督にも困ったものだ」といったいつもの表情を作るだけだ。
そしてニールのそんな言葉を、アルマン総督とその総督夫人はやはりにこやかに聞いている。
総督と、総督夫人は。白い肌の美男子と、臨月のお腹を抱えた黒い肌の夫人の夫婦は。勝者と敗者の夫婦は。ニールが知る「夢想でもなんでもない、ただ事実としての理想」は。
ただただ幸せそうにニールの言葉を聞いている。