姫りんごじゃなきゃいやだ。
クオリティ的には何も言わないでください。
ぬるま湯みたいな風が、それでもここちよく思える夏の夜だった。
僕が自転車を停めたのは、人気のない神社の横で。昔よく学校の先生に、不謹慎だとヒステリックな声で咎められた。そんなこと、構っていられない。じっとりと皮膚の表面を覆い始める汗は、とてもよく僕をせきたてた。
ここで彼女と待ち合わせをしている。その事実が、暑さと一緒に僕を急かしていた。
神社の近くに、彼女の姿はない。僕は暑さからか少し息を荒くしながら、石段を降りる。その途中で、彼女を見つけた。
石段に座って、彼女は空を見上げている。暗い空の下では、不思議に茶色く見える瞳で。彼女は空を見ている。
「あけちゃん」と、僕は呼びかけた。振り向く彼女は、髪を揺らしながら微笑った。短い髪は、うなじを隠さない。ただ小さくて形のいい耳を、庇うようにくるまっていた。
「遅かったね」
「ごめん……バイトがさ」
「過労死しなけりゃ、いいよ」
僕はもう一度、ごめんと謝る。彼女はといえば、もうすました顔で僕の隣に立っていた。白と薄紅色の浴衣。対して僕は、アルバイトから真っ直ぐここへ来たことがわかる、ツナギのままだった。釣り合わない、僕と彼女。付き合っているのでもないし、友だちでもない。僕らは、とても不安定なシーソーゲームを楽しんでいた。今日、もしかしたらその一線を超えるかもしれない。だけれど明日からはまた元通り。シーソーゲームをやるしかないのだろう。僕はそういったことに自信を持っていた。
石段を弾むように降りていく。賑やかさが増していき、夜店の灯りが眩しかった。
「林檎飴が食べたい」と彼女は独り言をいう。独り言にわざわざコメントをつけるほど、僕は無粋じゃない。だけれど黙って林檎飴の夜店を探し始めるくらいには、僕は無性に彼女のことが好きだ。
「ねえ、早乙女くんは、金魚をすくえる?」
今度は僕に向けた言葉。もちろん僕はそれを拾う。
「救えない」
「やだ、そんなに自信たっぷりに」
「すくっても飼えないから。だから僕は金魚を救えない」
「わたしのことは?」
「救う」
「困ってないからいいわ」
じゃあ、聞かなけりゃいいのに。
そう思いながら僕は、誰かにすくわれるのだろう金魚を見ていた。安っぽい灯りの中で、彼らは美しく輝いていた。
まとわりつくような暑さが、僕の思考を内へと向かわせる。じっとりと汗ばんで、僕は目に入りそうな塩辛い滴を手で拭った。
僕は無断でラムネを買って、彼女を拗ねさせた。
コロコロとビー玉の音がする。でも、出口が見つからないようだ。いつまで待っても出てこない。僕は唐突に、そのラムネ瓶を叩き割ってしまいたくなった。ビー玉を自由にするにはそれしかないのではないかと、僕らが自由になるにはそれほどの激しい衝撃がなければだめなのではないかと、そう発作的に思ったのだ。
「一口ちょうだい、それ」
ずっと膨れていた彼女が、試すように僕を見る。青い衝動はどこかへ消え去り、僕は途端に消極的になってしまった。
「でも、これ、飲みかけだよ……」
彼女は僕を見る。僕は彼女を見られない。
それからついに彼女は、「バーカ」と言って背中を向けてしまった。僕は慌てて追いかける。
「あげるよ」
「いらなーい。飲みかけなんて」
コロコロと音がする、ビー玉のように。誰かが吹いている笛の音のように。人ごみに流されて泣く子どものように。
ただ手を伸ばしただけでは、手の届かないものなのに。僕は何度も、チャンスを逃し続けている。
林檎飴の屋台は、いくつかあった。彼女は「姫りんごじゃなきゃいやだ」と言って、僕のことも屋台のおじさんのことも困らせた。なんせ彼女は、小さい林檎飴を差し出したって「これは姫りんごじゃなくて、ただの小さい林檎」などと乱暴なことを言って許さないのだ。正直に言って、僕はもう帰りたかった。アルバイト帰りの疲労困憊な青年としては、至極まっとうな意見だったと思う。浴衣まで着てきてくれた彼女には、申し訳ないけれど。
ようやく彼女の満足する林檎飴に出会えたころに、花火の打上げは始まった。林檎飴をくわえながら、彼女は空を見る。
低い空気の揺れが、僕の耳まで届いた。僕はこの音が好きだ。開いた花に高鳴る胸を、鎮める低い音が。
ずっと空を見つめている彼女の指先を伝って、赤い液体が地に落ちた。小さな黒いシミを作る。
「溶けてきてるよ」と僕は言ってあげた。だけど、少し遅かったみたいだ。林檎飴は外側が剥がれ落ちて、ぼとぼとと地面に大きなシミを作る。
また、花火が咲いた。
「あのね、私」
空を見上げたまま、彼女は口を開く。独り言か、それとも僕に向けた言葉なのか、とても判断に困る雰囲気だ。
「もうすぐ引っ越すの。この夏祭りも、最後だね」
咲いたあとの花火は、光がばらばらに散って消えていく。空は一瞬、何物の余韻も残さずただの暗闇と化した。
僕は、何も言えずに立ち尽くす。
落ちた林檎飴の破片は、だれかが踏んでいって粉々になった。彼女はそれを憂うように見てから、僕に背中を向けて歩いていく。足早に、人ごみに紛れるように。きっと、花火に照らされることを恐れたのだろう。
僕はようやく動き出して、彼女を追いかけた。
ああ、なんて不器用な人なんだろう。彼女は、人ごみに紛れるどころかぶつかって足止めを食らっていた。
僕はその手首をつかむ。浴衣の上からでも、あまりに細い手首だとわかった。指先に、林檎飴の紅がついている。白い手に鮮やかな、朱だ。
花火が響く。僕は何かを言おうとして、躊躇してしまった。
彼女はまばたきもせず、ただ、何かに耐えるように小さく震えている。彼女は何も言わない。僕も何も言えない。
ようやく彼女が口を開く。溢れでた一滴の涙が、僕を責めた。
「好きだった、とっても」
僕は手を離す。彼女は逃げていく。白と赤の浴衣が、ゆっくりと遠ざかる。
僕はもう、金輪際彼女に「好き」と伝えられないことを悟った。とても遠くに、花火の鳴っている音が聞こえる気がした。
それが、十五歳。僕の中学時代の、一番苦い思い出だ。
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あれから僕も、学校を卒業して地元を離れた。二十五歳。就職を地元でするか、他の地でするか、決めかねていた。
だけれど僕の気持ちは、随分地元に向いていて、だからこの年、この町の夏祭りに来てしまったのだろう。
幼いころよりは、人ごみをこわいと思わなかった。それは僕が大人になったからなのか、それとも人ごみ自体が少なくなっているのか、僕にはわからない。
あの時よりはましな、よそ行きの格好で、だけれど溶け込めないような格好で、僕は歩く。
子どもが泣いている。それさえ祭りの音楽に組み込まれているような、懐かしい響きがした。僕は驚かせないようにゆっくり歩いていき、その女の子に声をかける。
「大丈夫?」
大丈夫では、なさそうだ。女の子は泣いているだけで、何も言わない。否、喋ろうとしても声が出ないようだった。
その子はどことなく彼女と似ていた。
「名前は?」
答えない。
「お母さんと来てるの?」
答えない。
「……林檎飴は好き?」
ようやく少女は、小さくうなづいた。僕はその手を取って、歩き始める。確か林檎飴の屋台は、何軒もあったはずだと思いながら。
しかしすぐに、林檎飴の屋台を探す必要はなくなった。女の子がいきなり「あっ」と声をあげ、走っていってしまったからだ。子どもの衝動というものには、ついていけない歳になってしまったようだった。
少女が走っていったほうを見て、僕は目を疑う。
泣きながらすがる子どもを、あやしながら笑うその人は――――
まぎれもなく、彼女だった。
忙しく走り回る心臓をなんとか落ち着かせて、僕は誰にも見せないくせに笑顔を作る。
(君は、幸せになっていたんだね。よかった)
彼女たちに背を向けて、僕は歩き出した。
あの日みたいに花火が鳴り始める。僕は一層みじめになった。
途中で、僕の視界に林檎飴が入り込む。
「林檎飴ください」
無意識にそうつぶやいてた。屋台のおじさんが、二百五十円を要求してくる。僕は小銭を出しながら、言った。
「姫りんごじゃなきゃ、嫌です」
はあ? とおじさんが顔をしかめる。
「こりゃあ姫りんごだよ。男がそんな細かいことを……」
不意に、おじさんは言葉を止める。不思議に思って顔を上げると、どこか気遣わしげに顔を見られていた。
「泣いてんのか、兄ちゃん。彼女にでも振られたかい」
確かに僕は泣いているようだった。自分でも信じられなくて、何度も目をこする。
それから僕は、自分でもどうしてだかわからないけれど、声をあげて笑った。
「そうなんです、振られたんです僕。どうしようもないですよね、どうすればいいのかな」
呆然とするおじさんから林檎飴を半ば奪うようにして、僕は逃げる。
「待って」と声をかけられて気がして、僕は立ち止まった。そんなはずはない。そんなはずはない。そう唱えながら、僕は振り向く。
彼女が、いた。
「誰に振られたの?」
僕はたじろいで林檎飴をちらりと見る。
「誰に振られたのよ」
「あ、あけちゃん」
久しぶりだね。
僕はそんな気の利かないことを言って、また逃げようとする。
「それ、ちょうだい」
唐突に彼女はそう言って、僕の林檎飴を指さす。「まさか食べかけだから、なんてことないでしょうね」と付け加えて。
僕は混乱していた。「子どもが」と口走る。
「子どもがいるじゃないか」
「姪っ子よ、バカね」
僕の頭はもっと混乱した。一度必死に整理したものを、深く掘り返されている気分だ。
だけれど、僕に残された選択肢なんて、きっと数少ないものだった。
僕はようやく動き出して――――あの頃と何も変わっていない。ようやく、動き出した。そうして、彼女のことを捕まえた。腕の中に、彼女の存在すべてを捕まえたんだ。
「好きだった。今も変わらず大好きだ」
「目を真っ赤にして言われたくないわ」
くすくすと彼女は笑う。「だけど」と彼女も僕のことを抱きしめた。
「知ってた。私も同じだったから」
花火が咲く。落ち着くような音は、花火なのか彼女の心音なのか。低い空気の揺れ。網膜に焼き付く幻のような光。人々の話し声。屋台の呼び込み。橙色の提灯。射的の音。夜の匂い。湿った空気。また、花火が咲く。
僕らはずっと抱き合ったままでいた。
「プロポーズ?」と例の少女に言われて、僕はやっと彼女を離した。
「だ、抱きしめましたが大丈夫ですか?」
「事後承諾ですがいいでしょう」
「だめだよー! あけちゃんのだっこはみゆのものだよー!」
まあ、そうね、と彼女も言う。それから、顔を赤くしている僕の林檎飴を奪った。
「溶けちゃうでしょ、早く食べないと」
確かに、と僕も思う。「あの時の君みたいに」とつけ加えると、彼女は怒った。それを見て女の子も怒る。どうやら僕は、彼女たちに勝ってはいけないルールらしい。
気づけば、先ほどの屋台のおじさんが走ってきていた。
「な、なんだい兄ちゃん」
肩で息をするおじさんは、林檎飴を差し出す。
「心配してきてみりゃあ、もう彼女と仲直りしたのかい。めそめそ泣くんじゃねえよ、まったく」
僕と彼女は目を見合わせて、同時に笑った。
きっと僕は、この町で生きていく。もう彼女を離さないように、しっかりと捕まえながら。
彼女「振ったのはそっちでしょー」
僕「えっ」
彼女「だってあそこで何も言わないってそういうことでしょ」
僕「ち、違うよそれは。そういうことじゃないよ」
彼女「言い訳しない!」みゆ「いいわけしなーい」




