アリアとローズ
部屋の隅にはリボンの結ばれた箱が積みあがり、山をなしていた。
床はダークブラウンのフローリングで、よく磨かれている。
部屋の中央には黒光りのおおきなグランドピアノだけがあって、それを奏でる青年がいた。
今では青年という言葉は青年期の男性を指すことが多い。だが彼女は男性ではない。彼女は既に少女ではなく、成人でもなかった。
彼女には若い肌があった。髪は黒曜石よりも艶やかで黒く、瞳は流血の血よりも赤く、黒く、光沢がある。彼女の名はアリア・フォル・レイン。帝国本土の都市フォルを統べる貴族レイン家の娘であった。
『コンコン』
樫の扉を叩く音が響く。アリアは鍵盤から両手を下ろし、その蓋を閉じる。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開いたのはローズ。姓はない。アリアと同齢に見える女性で、肌は氷のようにみずみずしく、色は陶器のように白い。身にまとっているのは使用人の着用が義務付けられた白黒のワンピース。アリアはそのスカートの中に短銃を忍ばせていることを知っている。
ローズは入ってきた扉を慎重に、きっちり締め切ると、アリアへ歩み近づき、耳元でささやき封書を渡した。
「リッテル様からです」
アリアは慎重に封を切り、中に入った一枚の赤い紙切れに目を凝らす。そして小さく息を吐き、ローズを見た。
「アイゼン騎兵学校への入学が許可されたわ」
ローズが息を飲む。
「ようやく……ようやく……。おめでとうございます」
「早速支度しなさい。明日には出発するわ」
「はいっ。失礼します」
扉の閉じる音が響く。
アリアはおもむろに立ち上がると、一息にリボンの箱の山を叩き崩した。
これから新しい人生が始まる。アリアの瞳はいつにも増して、紅に染まった。
◇
馬車を降りると、ローズが自身とアリアの荷物を降ろして駅舎へと向かう。
駅前は既にフォル市の統治者であるアリアの兄、ザイン・フォル・レインの働きあって数千の群衆が駅前広場を埋め尽くし、数百の群衆がホームを埋め、レイン家の手旗を振っていた。
「アリア」
一等車の乗車口前で、ザインがアリアの肩にその手を置く。
「くれぐれもレイン家の為、帝国の為、学業に精進し、リッテルのような立派な士官となるのだぞ」
兄の背後に立つ両親も私に別れの挨拶をする。
「こんな娘にも仕事を与え賜う皇帝陛下のお慈悲に、感謝せねば」
「体に気を付けて、手紙もちゃんと書くんだよ」
「母上、父上、兄上、ありがとうございます。精一杯、お勤めを果たしてまいります」
「行って来い」
「はい。行ってまいります」
アリアは乗車口に上がると、群衆へ振り向き、手を挙げる。
途端に歓声。レイン家の手旗が激しく振られ、皆の顔に笑顔が満ちる。
列車に乗り組むアリアに続き、二人分の荷物を抱えたローズが、アリアの両親と兄の三人の前で深々と礼をし、列車に乗り込む。
車内は通路と個室に分かれており、アリアは手元の切符に書かれた個室番号を探し、室内に入る。
室内には向かい合うようにソファが置かれ、それに挟まれるように置かれたローテーブルには新鮮な花々が活けられた花瓶とお菓子が置かれている。
広々と開けられた透明なクリスタルガラスの窓には、母と、父と、兄と、無数の群衆が写っていた。
汽笛が鳴る。
アリアは窓の向こうに笑顔で手を振り、列車は動き出す。
旗が激しく振られ、アリアの母は白のハンカチで涙を拭く。
「ローズ。私はもう、ここへは帰らない」
「もう、後戻りはできません」
フォル市の街並みは遠く遠く後ろへ流れ、やがて家々もまばらになり、景色は荒野だけになる。
ユーレミド都市同盟領のアイゼンに向かう二人。彼女らに待ち構えているのは幸か不幸か、まだ誰も知らない。