第三章㉛
「……ん? クラインさん、そちらの見た目麗しい御嬢さんは?」
「ネウよ」
クラインは危うく声を出しそうになった。
他人の自己紹介に対してこれ程、冷や汗の出る思いはクラインの記憶上、他に無い。
ネウは、クラインが口を開くよりも早く、小さく笑みを作ってあっさりと自分の名前をアルメンダリスに伝えたのだ。
いや、実際はクラインがただ単にアルメンダリスの問いに答えるのが遅かっただけかもしれない。勿論、答えが遅くなったのには理由があった。
セウタでの取引であれば、ネウの名を告げても、何ら問題は無かった。なぜなら相手のジョアンはクラインと同じ紹介に属しているのだから、たとえ相手が吸血鬼と分かっても、自分の紹介から宗教裁判で火あぶりの刑になった者がいると、今後の紹介の活動に支障が生じる。
相次ぐ十字軍の失敗と宗教改革の影響で教会勢力の力が衰えてきた今でも、教会は未だに多くの人々の信仰を集めている。だから、教会がクラインを異端として刑に処されれば、クラインが属する商業同盟にも異端の疑惑がかかるわけだ。流石に組織解体とまではいかないが、勢力の大幅な縮小を余儀なくされるだろう。クラインは、自分から外部の人間に漏らすようなことが無い限り、ネウの名を身内に話しても安全だと言える。現に、クラインも誤って使えば商業同盟の屋台骨をぐらつかせるほどの情報をいくつか知ってしまっている。
だが、ネウがほかならぬ吸血鬼であることは、紛れもない事実だ。ネウが多くの人々を襲ってきたのであれば、その分だけネウの名は知れ渡っていたはずだ。当然、商館長であり、情報通でもあるアルメンダリスが知っていても何らおかしくは無い。
もし、アルメンダリスがその名前が吸血鬼を指すものだとわかっていた場合、これからの関係にずれが生じる。勿論、それが仮に分かってしまったとしても、その場ではアルメンダリスはそのことを表情や口には出さないだろう。
しかし、お前が吸血鬼を連れていることを教会に摘発するぞ、と一度脅されでもすれば、途端にクラインはアルメンダリスの奴隷も同意義の存在に落ちてしまう。
これは同伴者であるライサにしてみても、同じことが言えてしまう。もう、ライサに二度と奴隷としての貧しい生活は歩ませまいと自身の胸に誓い、約束している手前、それだけは是が非でも避けたい。
だが、そうなってしまえば、クラインに残された選択肢は二つ。奴隷も同じ存在で、命を賭けさせられるような危険な商売をやらされ、バッサリと切り捨てられるか、自ら命を絶つか。もし仮に、教会に摘発されて、刑に処されても生き残って商業同盟に戻れたとしても、クラインは商業同盟の名を汚した「厄介者」として追放されるか、暗殺される。
ネウに至っては、人質としてアルメンダリスが監禁して、クラインを縛りつける鎖とするだろう。だがネウは千年もの間、人間を呼吸をするかのように、さも聖職者が毎日教会に行き礼拝するようにごく当たり前に人間を喰ってきた吸血鬼だ。
ネウ自身が語るように人間から嫌われたくはないと思っていても、そんな状況になれば、ネウはさっさとアルメンダリスを殺してから逃げ、どこかへと去っていくだろう。
決して、ネウがその際に自分を助けてくれる、なんて砂糖菓子の様に甘いことは思わない。




