第三章⑮
クラインがふと視界の端に見たネウは、激しい憎悪の意思を込めた、憎々しげな表情に変わっていた。子供が泣くのを必死に我慢しているようにも見えるし、悪口を言ってくる相手に反論できずにほぞをかむ様子にも見える。
それは、どこかで見たことがある。強い恨みが籠った、形容の仕方が無いほどの、静かな、憎悪という感情そのものを絵にしたような顔。そう、それはまるで……。
あの時、クラインがネウと初めて会った、あの時の夜。ネウは同じように恨みのこもった言葉を発していた。まさか。
というと、ネウに人間の優しさを教えたのも、裏切ったのも。
「コンラルト」
ネウはクラインの考えていたことを見透かし、クラインが発しようとしていた文章に人名を付け加えた。
「流石、商人だけあって感づくのも早いわね。そう。その通りよ」
クラインは何も答えてはいないが、目で気付いたのだろう。相手の心境が手に取るようにわかるネウだ。それくらい、容易くできることなのだろう。
ネウの顔から、ほんの一瞬だが、表情が消えた。まるで戦士が戦に負け、敵にとどめを刺される寸前の顔だ。もう、考えるのを止め、全てを無に帰したときのその一瞬を切り取ったような顔だ。
「彼が初めから私を殺そうと計画していたのかも、途中で気が変わったのかも、私には解らないわ。どうして私の血を吸って化物になってしまったのかも。ただ、私には一つだけ解る」
「なんでしょう」
ライサは言葉を喉の奥から引っ張り出すように重たい言葉を吐いた。クラインはごくりと唾を飲み込み、ネウの話に聞き入った。
「私は、彼を二つの意味で打倒さなくてはならない。一つは、彼が他人を自分の部下にして、吸血鬼化させているから、これ以上増やさないために倒すこと」
「手下を、増やしているのか」
その時、クラインは背筋にぞっとするものを感じた。ネウのような、恐ろしい吸血鬼なる化物が今もコンラルトによって増え続けているとしているのなら。
それならば、今までクラインが聞いた猟奇的な殺人事件のいくつかも、理屈が付く。ただでさえ、聞いただけで背筋が凍りそうなほど奇怪な殺し方をされているのに、その犯人が異形の怪物であるというのなら、さらに恐怖が増す。
「もう一つは、初めに貴方に言った通り。私怨ね。リベンジ、っていったところかしら」
「リベンジだけなら、どんなにこっちも気が楽だったか。なあ」
「ええ」
クラインもライサに続いて唇を少し吊り上げ、乾いた笑いをした。コンラルトが一体どれだけの手下を増やしているのか、そして当のコンラルト本人が何処に居るのかもわからない。出会った当初の契約通り、「コンラルトを殺す」までが契約の範囲であれば少しは早くネウの呪縛から逃れられそうであったのに、「その手下も殺して回る」となれば、途方もない時間がかかる。
無論、ネウは手下も殺して回る、という事を言葉では口にしていない。だが、これまでの会話から推測すれば直接口で言っているに等しい。今更気付いていなかった、とは言わせてくれそうにもない。
例えコンラルトを倒しても、契約が自動延長されることも、目に見えている。
「さて」
「?」
気難しいことを考えていたのだが、不意にネウがクラインに向かってかすかな笑みを浮かべてきては、思わず顔がたじろぐ。顔は確かに笑ってはいるが、真紅の瞳の奥にはこちらの心の内を見透かしているように透明な鏡があるかのように思えてならない。いや、実際にはもうクラインとライサの考えていることなど、分かりきっているのだろう。
ネウは妖艶な笑みを浮かべつつ、再び口を開いた。
「貴方達は、私を裏切ってくれるかしら?」
「そんなことは、無い!」
「!」
刹那の出来事だった。自分の意思か、はたまたそうではないのか。しかし、そうに関わらずクラインは、ネウを裏切らない、と言ったのだ。反射的ではあったが、そうでないにしても、それも、強く。ライサはいきなりのクラインの発言に目を丸くして、クラインの方を向いた。
その瞬時、それまでネウに向けていた目を逸らす。
自分でもなぜこんなことを口走ってしまったのか、理由も付けられない。それまで、今後の航海の事や商取引のことを考えていたはずの頭には何も残っていなかった。
ネウは、一瞬呆気にとられたようにぽかんと口を開けたまま、静止していた。だが、クラインが小さく咳払いし、改めてネウに向かうと、ネウは川の堤防が決壊したように悲しげな表情を崩した。




