第三章⑭
「今の俺には、そんなに大きな儲けは出せないな」
ネウはジョアンが扉の奥に入るのを見届けた後、不意に言葉を発した。クラインはそれに快く答えたが、「今の俺」とわざわざ付け加えたのは、「これからは」大きな儲けが出せるだろうとネウに分からせるためだ。
「でも、私が見たのは、一つ一つ計量だのなんだのを大きい天秤と小さい天秤を使い分けて、長い場合じゃ、何日もかかるのが商取引だったのだけれど」
「それは百年ほど前の取引方法ですね」
「人間はお前みたいなのと違って寿命が百年とないからな。より短い時間で、より多くの利益を求めた結果、簡略化されたわけだ」
その分、少し大雑把にはなったがな、とクラインは付け加えたが、ネウは既に興味を失っていたようだった。
クラインは軽い冗談を混ぜてネウに答えた。するとネウは「ふぅん」と愛想のない返事で返した。自分から話題を振っておいてその態度はなんだ、と問い詰めたくなったが、その思考はネウが次に発する言葉で遮られた。
「思い返せば、短いものよ」
「二十余年と千年、桁違いに歳月の差があるが?」
「二十分の一と千分の一の違いよ」
ネウはそう言い切り、クラインの方を見ないまま、黙り込んだ。握った手には、ネウの吸血鬼としての力の一つなのだろうか、ネウの手のひらから放たれる熱でドロドロに融解した、銅貨であった液体がわずかな煙を放ち、そして瞬時に消えた。
銅貨の消失を終始見つめていたネウは、心なしか少し苛立っているように窺えた。
ほんの冗談のつもりが、ネウを傷つけてしまったようだ。クラインはどうしたものか、と思案した。
これまでネウを見ていて分かったのは、機嫌が良い時と悪い時の調子の差が激しいという事。特に、食事前や起床後数分はほぼ確実に。目を細め、愛想と言う愛想が無くなる。逆に、食事後や、意外なことに船に乗っているときは比較的機嫌が良いという事。
そして、人類の過去や歴史、人間のこれまでの半生なんかにはとても興味を示すが、自分の過去に関わることを聞かれると途端に口をつぐみ、黙る。何か裏がありそうだが、とても今の状況ではこれ以上詮索することはできなさそうだ。少なくとも、今は。
ネウには言えないが、そんな俯いた顔でさえ、常に凛とした花を思わせるように可憐であった。
「……私が吸血鬼になった当初は、良かったわよ。人間なんて、私にとっての餌でしかなかったんだもの」
「……」
ネウは、ふと、何かを思い返すかのようにぼそりと呟いた。
「今でも思い出せるわよ。泣き喚く女。絶望に打ちひしがれる男。親を失って言葉も出なくなってしまった子供。老い先短いのに、生存本能を丸出しにして逃げ出そうとする老人。どれも見ていて快感だったわ」
クラインは、初めはネウの方から話してくれるとは思わなかったために思わず声を出しかけたが、すぐに堪え、それを聞いていつつも、聞き流す姿勢を取った。こういう時は自分から進んで首を突っ込んでいくと、やがて煙たがられて相手は何も話してくれなくなる。ネウの場合、恐らくクラインに聞いてもらいたくて話し始めたのだろうが、あえて聞き流す。
「けど。私も、次第に空虚な気持ちになってきたの。いくら人間を喰っても、いくら村を襲って悲鳴を聞いても。今までできていたことが。一片のためらいもなく人間を喰うことが、少しの躊躇もなく戦場を蹂躙することが、何もできなくなったわ」
ぽつり、ぽつりと少しずつ、ゆっくりと時計の針が時を刻むように、ネウの口からそれまでほとんど語られることのなかった過去が、語られていく。
「私が初めて人間を好きになったのは、百年くらい前の話よ」
「百年前……」
クラインは、音も無く静かに相槌を打った。初めは少し俯いて悲しげであったネウの表情は、段々と柔らかいものへと変化していった。
「空腹になったから、とある村で人間でも食べようかと思ってね。その頃はまだ人間を「餌」と思っていた頃だったから、まだ人間を喰えたわ。
……でも彼だけは、人間を喰おうとやって来た私に、優しく接してくれた。多分、遠い村から来た旅人だと思っていたのかしら。滑稽な話よね。他の彼の村の人間が私をよそ者として追い払おうとしたけれど、彼だけは私を守ってくれた。当然、いざとなれば奴らを食い殺すこともできたのだけど。初めてよ。本来、餌である人間に守られたのは」
ネウはどこか過去の思い出を懐かしがるように遠い目をしていた。その表情は、得も言われぬほど魅力的で、これほど男の本能の奥にある「守ってあげたい」という感情を引き出さずにはいられない顔は無いだろう。
「でも、彼は裏切った」
「えっ」
柔らかい言葉の中に、ちくりと棘が刺さるような言い方をしたネウ。それにライサは反応し、少し身を乗り出した。




