第一章②
南方大陸北岸に建てられたポルトギア王国の都市セウタは、ポルトギア王国の東方貿易においてとても重要な位置を占める。元々、金や銀といった貴金属が採れるわけでも、肥沃な草原があるわけでもなかった。むしろ、セウタの背後にそびえたつ山脈を越えた向こう側からは砂漠を越えてきた熱風が吹き荒れ、まともに農業ができるような土地ではない。西方の重要な国々が港を開く内海の出口でもなければ、とても発展はできなかっただろう。そこに今、その都市の方角に向かって、艦長クライン率いるアルベルト商業同盟のガレオン船は美しい形に整えられた船首をセウタの方角に向けていた。
日は遥か西に沈み、西にわずかに残った朱色の空も、黒のインクをぶちまけたかのような、虚無を思わす東の空に飲み込まれていった。
「風はどうだ? 順調そうか?」
「はい。風は順風。このままいけば、予定通り明日の夕方にはセウタに着きます」
「そうか。ところで、そろそろ船員たちには船倉に入って十分な睡眠をとるように命令しておいてくれるか? 全員に指示が行き届いたなら、ライサも寝ていいぞ」
「はい、わかりました主人様。ですが」
クラインは、光を失った暗い海を南に進むソル・ブリージョ号の中で唯一明かりが灯る艦長室で、ゆらゆらと揺れるランプの灯りを頼りに机の上に積み上げられた報告書に目を通し、航海日誌を書き記しながらライサに命令した。
ライサは夜になってもなお眠気に襲われないのか。言葉は昼と同じようにはきはきとしていて、持ち前の礼儀正しさを保ち続けている。
「主人様はどうするのですか?」
「俺はあと少ししたら寝る。気にしないでおいてくれ」
クラインはライサの顔が視界の端にぎりぎり見える位置に顔を持ち上げてライサに小さく笑いかけ、再び視線を机の上に戻した。
クラインはふと、書類の傍らに置いてあった握り拳より少し大きめの瓶に手を伸ばした。ライサが、さも不思議そうな顔つきでその瓶を眺めた。
「それは……何でしょうか?」
「梨の蜂蜜漬けだ。食うか? 美味いぞ」
ガラス瓶の中には、とろとろとした琥珀色の蜂蜜の中に、透明感のある梨の果実が三つほど、適度な大きさに切られて浮かんでいた。
「それでは、ひとついただきます」
そういうと、ライサはクラインが差し出した瓶のふたを開け、蜂蜜に浸っている梨の中の一切れを取り出し、蜂蜜が垂れないようにそそくさと口の中に運んだ。
「! 甘いですね! こんな美味いもの、私初めて食べましたよ」
「だろう? こいつはな、もともと果樹農家の農奴や村人なんかが虫食いの物や形の悪い果物を潰して、こんな感じで冬の作物が取れない間の保存食に食べていたものなんだが、一昔前にどうしても税が治められなくなった領主が、農奴からこれをぶんどって国王に献上したところ、国王が大いに気に入ったらしく、今じゃ教会の枢機卿も御用達の蜂蜜漬け、なんてのもあるらしい」
クラインは頬が落っこちないようにと頬に手を当てて、本当に美味しそうに梨の蜂蜜漬けを食べるライサに話しかけた。こんなに幸せそうな顔をして食べてくれるのだから、こちらとしても食べさせたかいがあるというものだ。クラインにも思わず笑みが零れ落ちる。
「枢機卿ご用達だなんて、主人様も昔と比べて随分儲けましたね。私も艦長になれば、毎日こんなに美味しいものが食べられるんですかね?」
ライサは梨を瓶から摘み上げて口へ運ぶクラインを見つめながら、半ば羨ましそうに呟いた。
「いやいや、これは自作の物だ。元手はタダに近い」
「タダ、ですか?」
クラインは、小さく笑みを作って、蓋を絞めた瓶を机に置き、指で差した。
「形のいびつな果物を店から格安で引き取ってな。店側も、このまま捨ててしまうよりは、少しでも値段をつけて売れた方が良いと、快く了承してくれた。それから自分で蜂蜜なりジャムなり加えて、暗い所で漬ける。三ヶ月ほど経ったら、完成だ」
「なるほど……そうでしたか」
ライサは、不思議そうな顔で、砂糖を使わずに、蜂蜜だけでこんなに甘くなるのですか、と問いかけてきた。
「砂糖を使えばもっと甘く、おいしくなるんだがな」
「是非、そちらも食べてみたいですね」
ライサは、残り一つになった無しのジャム漬けを見て、呟いた。確かに、砂糖を使った漬物もいいかもしれない。食事の質を少し下げれば、砂糖は買えるようになる。
尤も、新大陸の発見で値段が安くなってきたとはいえ、砂糖の値段はまだまだ高い。クラインは一度だけ、砂糖漬けの桃を食べたことがあったが、それは蜂蜜漬けよりも断然に甘く、加えて東方の香辛料をふんだんに使っていたために、何ともいえない絶妙な匂いと味がした。どんな料理にも勝る、まさに至極の一品だった。無論、値段の方は言うまでもないだろう。
「そうだ、もう灯りは消しておいた方が良いか?」
「いえ、大丈夫ですよ。この付近じゃ海賊もそうそう出ませんし。……まだ灯りをつけていても大丈夫なのでしょう。クラーケンに襲われない限りは、ですが」
「クラーケン? まさか。そんなもの、出るわけがなだろう」
クラインは、ライサが帰り際につぶやいた一言に、出来の悪いジョークを聞いたように、苦笑いした。
クラーケンは巨大なイカの化物だ。その巨大な触手は船体を真っ二つにするほどの力を持っており、海の悪魔として恐れられる。
だが、神こそ信じているが、悪魔や化物の存在など微塵も信じていないクラインにとっては、そんな海の悪魔も恐れるに足らない存在である。
「そうですか。……では、こちらの書類と、この書類は単なる人数確認についてのものですので、こちらで処理させていただきます」
「ああ、頼む」
ライサには副艦長として船員たちの生活管理や指揮を取ってもらっているが、その一方でクラインの事務処理の仕事を手伝ってもらっている。
「すまないな」
「いえ、なんてことありません」
ライサだって本当はさっさと寝たいのだろう。元々、血色はよくても、体はそんなに強くは無いのだ。うっかり風邪でも引こうものなら、一ヶ月は長引く。体を弱らせてしまえば、ライサにとっても危険になるし、クラインとしても船の出港を遅らせなければならなくなる。
「もう、寝てもいいぞ。お前も疲れただろう」
「いえ、まだ、大丈夫です。前みたいに倒れたりはしません」
「前例があるから、指摘したんだが」
「は……ごめんなさい」
ライサはクラインに痛いところを突かれたのか、野菜に塩をかけたように小さくなった。前から不思議に思っていたことなのだが、何故ライサは自分の事より、俺の事を優先するのだろうか。自分だったら、とても信じられない。何よりも、自分が優先で、他の奴らの事は後回しだ。
この際だ。思い切って訊いてみようか。
「……そこまで俺はお前が奉仕するに値する主人か?」
「はい。主人様は私を地獄のような生活から救ってくださった、救世主ですから」
はっきりとした笑顔でライサは答えた。それこそ、屈託のない心の底からの百合のように美しい笑顔だった。それを見るたびに、クラインはその日に起こった嫌な出来事など、一瞬で心から払拭してしまえる。
ライサは、奴隷だった。
思い返せば六年も昔のことだ。その頃のクラインはまだ、今のねじれきった性格よりは多少ましだった。だから、ライサを買ったのだろう。