第二章⑯
第二章終了です。
ここから、三人で船旅を始めます。
「そう僻むことないわよ? 私が最後の旅に出かけようと決心して話しかけた人間で喰い殺されなかった人間は貴方だけ」
そのとき、クラインの背筋にひやりとした悪寒が尾骨から首筋までを一直線に撫でるのが分かった。もし、あの時にネウを殺そうとしたり命乞いしたりしてしまったら最後、自分は月を背に窓から飛び去ってゆくネウの背を、残った力の限り見開いた眼で追っていく姿を想像するのはそう難しいことではなかった。
「「交渉の余地をくれ」ですって? 今まで、どこの誰が自分の命を奪いに来た、残虐非道な吸血鬼を目前に、そんなことを口に出した人間がいたかしらあ?」
「! あ、あれはだな……」
焦りに表情をゆがませるクラインをよそ眼に、ネウは腹を抱えて満面の笑みを顔にき出させながら声を上げて大笑いしだした。
「ええ、あれがとっさに出た行動だってことぐらい、重々把握してるわよ。だから、今までの人間とは違うな……って。だから、ね?」
「最後の旅に……?」
「……付き合ってくれないかしら……?」
もちろんこれは、ネウの「頼みごと」ではなく、「最後の旅に付き合え」という命令形であるのは今までの会話の中で自然と理解できる。
ネウは眼尻に付いた涙を手の甲ですくい、クラインの目を見た。それは明らかに冷徹で老獪で畏怖に満ちた吸血鬼の表情ではなく、こちらに穏やかな笑みを投げかけている、見た目相応の幼い少女の柔らかい表情だった。こんなに魅力的な笑顔を投げかけられて、思わず顔がほころばない男性はいないだろう。
まさか昨日、吸血鬼の頼みを聞く羽目になるとは夢にも思わなかっただろうに。
今までにこれほどこんな少女が俺の娘だったら、とクラインは考えたことはなかった。それをさておいても、クラインにこれを断る術はない。となると、答えは一つだ。ため息交じりに、答えをはじく。
「……ああ、いいだろう。殺されずに、儲けながら交易を続けられるんなら、新大陸でも東方へでも行ってやろうじゃないか」
「主人様が、そうおっしゃるのであれば、私も同じです」
「……ほんとに?」
「交易のついでにだ。足手まといにならないんだったら、な」
「私の、でしょ?」
「俺の、だ」
クラインはまるで幼子の様に心からの満面の笑みでクラインに微笑みかけるネウにつられ、自然とわずかな笑みを作った。だが、そのわずかな笑みでも、ネウにとってはそれで十分だったらしい。
ネウはクラインとライサを交互に見、口を開いた。
「契約成立、よね?」
「そうだ。俺とライサは自分の命を賭けて、お前はこれからの一生を賭けた、壮大な取引の始まりだ」
クラインは「これでいいだろう?」と言わんばかりの表情を作り、クラインの答えを待ち望んでいたネウに向けた。
ネウは目じりについた、氷と比べても透明さと言う点においては引けを取らないほどきれいな涙を手の甲で拭うと、クラインの目をしっかりと見ながら、こう言った。
「せいぜい、約束を違えないように、私に喰われないような行動をとることね」
「お前から頼んでおいて、その言いようか」
他人から見ればなんて小生意気な娘だ、と誰もが思うかもしれない。現に、クラインだってこれまでの経緯なしにこの言葉を発せられたなら、はっきりとこの頼みを断っていただろう。だが、今は違う。それを断れない理由と、断りたくない理由が、今のクラインにはある。
ネウは、クラインに屈託のない笑顔を向けると、口を開いた。
「そういえば、貴方、名前は?」
「ドラガーナ・クラインだ。一緒に旅をするのなら、覚えておくべき情報だろう」
「ライサ・クラインです。主人様と同じ苗字ですが、これは与えられた苗字ですので、あしからず」
「クラインにライサ。覚えたわ。私の足手まといにならないように、気を付けることね」
「気を付けますとも。お嬢様」
そしてひと段落ついた、と頬を緩めて無言で手を結んだ三人の体を、窓から一日の始まりを告げる黄金の太陽が照らし出した。




