第二章⑫
「そうか……だから、その吸った命を一つ消されたから、「殺された」か……」
「一つどころじゃないわよぉ。全部よ。……私が持っていた、ただ一つの命を残して、ね」
ネウはクラインに振られた手を自分の胸に当てた。少々顔をクラインの視線から逸らし、俯けた。
「屈辱よ。そのまま殺されてしまえば敗けた、って思いだけだったんでしょうが、戦って、敗けたのに命が一つ、残されていたなんて。私は、絶対に奴を許さない」
気付けば、ネウは白く細い握り拳を力いっぱいに握りしめていた。
「別に、殺された命ならまた、人間の血を吸って命を奪えばいいわ。現に、一つまで減ったけれど、今の私にはまた二十万人近い命があるもの。でも、私が敗けた、って事実は消すことはできない。いくら血を吸っても、何百万人と殺そうと」
よく、古強者の傭兵や歴戦の剣士が同じようなことをよく言う。敵に命を救われるのは、戦士としての恥だ、と。
一方でクラインのような、武器を手に取って戦う戦場で行われる戦争にほとんど縁が無い商人にとっては、同じような状況にあったとしても、命が助かっただけでもありがたいと思って安堵のため息をつくだろう。
だからこそ、ネウの感情がよく分かったような気がした。勿論、全てまでとはいかない。生まれた環境も、これまでの半生も、全てが異なる。全て分かっていたのなら、クラインは今すぐ商人を辞め、白い布をまとって教会の門を叩くべきだ。
だが、クラインはわずかにネウと戦った人物に覚えがあった。
「七百年前、アッサトルという村での出来事よ」
「……おい、「奴」はもしかすると、コンラルトって名じゃなかったか?」
「! ……何故、貴方がそれを!」
ネウは眼を大きく見開き、歯ぎしりしていた牙をわずかに開いた。驚きにも怒りにも例えられぬ、獣の歯のように並んだ歯の奥からうめくようにして漏れた声は、クラインに吸血鬼の畏怖を植え付けるのには十分だった。
コンラルト・グラッシュ。歴史に疎い交易商人、敷いては歴史の勉強など一切したことのないクラインでも、その名は知っている。「コンラルト」は何者かと問われれば、多くの人々は口々に同じことを言うだろう。
「ああ、彼は本当に偉大な人物、いや、英雄だ。彼が居なければ、今頃西方諸国は異教徒どもと悪魔の手の内で醒めない悪夢を見ていたことだろう」と。
コンラルトは、七百年前に起こったとされる、聖都防衛戦で大成果を上げた将軍だ。エルラエルという、当時西方諸国の異教徒たちからの防衛の要である要塞都市を神から与えられた力を持って、邪悪な異教徒から都市を守ったとされている。
英雄としてたたえられる彼には多くの伝説や逸話があり、その中でも、荒野での魔物退治は有名だ。その英雄譚は、いまや必ずと言っていいほど教会の説法やミサで話される。
なぜならば、聖人は神と民衆との距離を近くするにはもってこいの存在だからだ。その聖人が有名であればあるほど、教会も人心を掌握しやすい。即ち、信者も増えやすいという事だ。
それで、聖人の代名詞とでもいうべき存在のコンラルトが主人公として語られる有名な話が、「最後の魔物」吸血鬼退治である。
コンラルトの荒野での七十日の修行最後の日、それまでに数々の試練を課し、魅惑的な取引でコンラルトを貶めようとしてきた悪魔は全く魅力的な取引になびかないコンラルトに対し、最後の試練を与えたという。
悪魔は、最後の手段として吸血鬼を召喚し、アサットルという小さな村に宿泊していたコンラルトと戦わせた。六日間にも及ぶ死闘の末、コンラルトは吸血鬼の腹に剣を突き刺して勝利したが、吸血鬼の命は助け、「神に仕えよ」とだけ言うと、神の御言葉によって修行を終え、エルラエルに向かったという。
「どんな生き物も神に創られたのだから、神に仕える心はある」とコンラルトの言葉は有名だ。けれども何より、その伝説のような存在に倒された吸血鬼が今、自分の目の前にいることが、少しだけ面白かった。だが、それをわずかでも表情に出したのなら、白い牙がクラインの視界に飛び込んでくることはネウの顔を見れば明瞭だ。
クラインよりも、そういった歴史に詳しいライサはネウに改めてコンラルトの名を告げた。
「聖人コンラルト・グラッシュ。今では、誰だって知っている名です」
「……! コンラルト……七百年たったこの今でも、その名前を聞いただけで……虫唾が走るッ……!」
元から募っていた恨みや念が、名前を改めて聞くことで一気に爆発寸前まで上がったようだ。ネウは何かをかきむしるかのように、実態を持たない空気を掴んだ。
「奴は、聖人と呼ばれるような存在じゃないわよ……」
「どういうことだ?」
ネウの顔色が急変したのはその時だった。怒りに狂って今にもとびかかってきそうだった勢いは消えうせ、変わっていつか来る、最後の審判に怯える死刑執行前の罪人のような表情に変わった。
「七百年前、小さく寂れた港町で私は奴と遭った。満月が怪しく光る、綺麗な夜だったわ。血を吸おうと思ってね。人通りの多そうな広い路地で、誰かが来るのを待とうと思ったのよ……。けれど」
ここでネウは、自分がクラインを襲おうとした時と態度が逆転していることに気が付き、もとの釈然とした態度へと切り替えた。もう千二百年も生きているのに、何を恥じることがあるのか。クラインにはそれが不思議でならなかった。
ネウは再び、淡々とした口調で、あたかも物語を読み進めるかのように続きを話した。




