第二章⑩
「素直に引き返していただけるのであれば、この腕とナイフは放します。ですが、貴女の答え方次第では、このナイフが首に刺さるかもしれませんし、或いは腕は放すかもしれません」
「そんな物騒な物……。でもね、私は問題が苦手なの。そんな難しい質問、私は答えられないわ」
自分の首にナイフが突き立てられているというのに、相も変わらずネウは微笑を崩さず、あいも変わらず小馬鹿にしているような口調だ。
「馬鹿にするのも大概にした方が身のためですよ」
「面倒くさいわねえ。そうだわ、貴方よりさきにこの娘を殺してしまおうかしら」
刹那の瞬間だった。ネウがぽん、と手を叩くと、今まで優位に立っていたはずのライサが、一転して劣勢に立たされたのは。ネウは瞬時にライサの手を掴み、自分の首にナイフが刺さることも恐れず、ライサの首に牙を立てた。
「でも、質問するのは好きよ?」
「……!」
「ま、待て!」
クラインが反射的に叫ぶと、ネウはさも不満げに、苛立ちを抑えようともしない目つきで、視線だけをクラインの方を向けた。
「何? この娘の解放かしら? 泣き言なら聞かないけれど」
「と、取引だ。交渉の余地をくれ」
クラインは、ここを商談の場だと自らに思い込ませることで、商人としての精神と冷静さを取り戻そうとした。相手は千二百年も生きてきた吸血鬼だろうが、商売、ましてや交渉術なら、クラインにいくらかは勝機があるような気がしたからだ。引き下がるわけにはいかない。
無論、そこを譲ることは、クラインの商人としての血が許さなかった。
「いえ、主人様。こんな化物と取引なんて、する価値もありません。私が始末します」
「ライサ、俺には考えがある。信じてくれ」
クラインは、まだもがいて抵抗しているライサをいさめた。ライサがクラインの言葉を了承すると、クラインはネウに向き直って、答えた。
「……決して、ネウ、お前が損をするような取引内容にはしないつもりだ。だから、いったんここはライサを解放してくれないか」
「……いいわよ」
ネウはクラインの言葉に興味を持ったのかはわからなかったが、ゆっくりと、噛みつこうとした首筋から牙の生えた口を遠ざけた。そしてネウは、腰に手をかけて「あと少しだったのに」と愚痴を言いながらも、さも不満ありげな顔でライサから離れ、クラインの交渉に応じる姿勢を見せた。
「……取引、でしたっけ? 別にかまわないけれど、これは先に言っておくわ。私はね、金貨や銀貨なんてあんな硬くて食べられないものは嫌いよ?」
「いや、金で取引するつもりは初めから無い」
「じゃあ、何だというのよ」
「それは……」
クラインは口ごもった。なぜなら金で交渉する気はなかった、と断言はしたものの、実のところは金銭で穏便にこの場をやり過ごそうと画策していたのだ。いかに予想外の出来事に直面しても表情一つ変えないのが商人の特技だとしても、頭の中の考え方までもがとっさに変更できるわけでは無い。
それに加え、口ごもったクラインに疑いと軽蔑の視線を矢の様に突き刺してくる、ネウの恐ろしさが重なった。いざとなればライサが時間を稼いでくれるのだろうが、そうなってしまえばライサの命はこの吸血鬼に喰われてしまう。
余計に、別の手を考えようと画策すればするほど新しい言葉が紡げない。ネウがもうこれ以上クラインの返事を待てない、と荒々しげに口を開いたときにクラインはやっとのことで次の手を打った。
「……仮にこのままライサと俺を喰ったとして、お前はそのあと、どこへ行くつもりなんだ?」
「は? 貴方達を喰った後?」
「そ、そうだ。取引の内容は、それを聞いた後に話すつもりだ。千二百年も生きていたのなら、これくらい待てるだろう?」
――せいぜい、生き延びるための時間稼ぎか。両者は、対面したまま瞬時にこう、思った。ネウにしてみれば、その通りに、寿命を後少しでも伸ばそうとしているせめてもの時間稼ぎか、と考えるにしか至らなかった。けれどもクラインは、ネウが思っているように、自分の寿命をただただ無駄に伸ばそうとはしていなかった。きちんとした計算の元、今の問答を行った。
尤も、その本意は少しでも解決策を見つけ、逃げ延びようとしている以外の何物でもないのは百も承知だ。計算も、大したものではない。
クラインの考えとは、何か。ネウが「金は要らない」と言ったのならば、クラインが持っている貴金属の類も、ガーボヴェルディに運ぼうとしているサルタナも、同じような口調と態度で、「要らない」と答えるだろう。となると暫定的に、ネウがただ一つ、「要る」と答えるのは目に見えている。それは、クラインの命か、または血液か、もしくは、その両方。全く以って、素敵な要求だ。
だが、今この吸血鬼に自分の命を渡すのは非常に惜しい――という以上の条件がそろえば、クラインにはある手札がまわってくる。ごく単純な事だ。――何が欲しいのかが分からないのなら、探ればいい。ただそれだけの事。
クラインは先程の会話を進展させ、ネウが自分の命以外に求めるものを探ろうと考えた。この一手は、クラインが苦し紛れの中で唯一見出したわずかな木漏れ日程の光明、例えるのなら麻糸の様に細くて千切れやすい、命綱だと言える。
「……ま、いいわ。例え貴方がそれを知ったところで、貴方達を喰うことに変わりはないしねぇ」
「だったら、聞いてもいいだろう?」
「クス。人間の青二才が、往生際の悪いこと」
「往生際の悪さが、商人の性格なんでね」
ネウはそういってクラインを面倒くさそうにあしらったが、その表情には何処か嬉しそうな、かすかではあるがそんな表情が垣間見えた。遂にクラインを狂人扱いし始めたのか、それとも会話のどの内容に面白さを見出したのかは解らなかったが、少なくとも、素直にクラインの問いに答えてくれる、そういった雰囲気が見て取れた。
ライサに至ってはただただ両者の本意が分からないまま、部屋の隅でクラインの身を案じるしかなかった。
そんなライサを片目にネウは、窓の木枠に腰を掛けて、人差し指をくるくるとまわしながら、村の老人が子供たちに昔話を聞かせるような口調で語り始めた。




