第二章⑨
「ふうん。私は吸血鬼として長いこと生きていたけれど、この名前はねぇ、私以外に使っていた人間を私は見たことは無いわよ」
「長いこと? 何年くらいだ」
「そうねぇ……千二百年くらいかしら。正確には覚えていないけれど、大体はそれぐらい」
「そうか……」
外面ではこの娘の他に似たような名前はなかったか、とクラインは冷静に悩むふりをしていたが心の内では、髭を剃り終えた顎を撫でる手に汗が滲み出ないのかが不思議なくらいで、焦りと恐怖がズルズルと気味の悪い音を立てて、今のところ冷静な表情を保っていられている顔面に浮かび上がってきそうな気すらした。
この娘はまさに、「吸血鬼」そのもの。クラインのその確信は教会発行の認定書よりも、確実だ。冷静にこのネウを名乗る少女に対して問答をしてきたが、それも、この調子でいけばいずれは商人の冷静さを保てなくなるのも時間の問題だ。
……だが、これだけは言える。いずれにせよ、自分から千二百歳の吸血鬼を名乗る奴なんて正気じゃない、と。
本物の、吸血鬼が自分の目の前に居る。それだけの事実がクラインに襲いかかり、足元が震え、膝が笑う。相手は吸血鬼。となれば、その、目的は。
「ん? どうしたの? さっきから。顔色が悪いわよ?」
「ああ、済まないな。ところで……」
「何かしら。手短に頼むわね」
クラインは凝り固まっていた顔を手の平でほぐし、訊きたくはなかったが、訊かなければ話が進展しない問いを口から絞り出すように吐いた。
「その……なんだ。お前が、ここに来た目的……はなんなんだ?」
「私が貴方のところに来た……目的、ってこと?」
その問いが裏目に出たのか、あるいは会話の進展につながったのか。ネウは磨かれぬいた刃物のように白く光る牙の生えている口をニヤリと三日月形に大きく開き、歪ませた。紅く鋭い瞳は瞬きもせずにまっすぐ、自分を捕らえている。間違いない。それは、狩人が仕掛けた罠にかかった獣に弓を射る、その瞬間の眼だ。その眼がクラインの顔を捉えるや否や、クラインの手のひらは湧き出る汗でびっしょりと濡れた。
「吸血鬼が来た、ってことはすぐにわかりそうなものだけれど」
ネウは殊勝な笑みを浮かべ、言葉の続きを言った。
「ふふん。すっかり忘れていたわねぇ。そうそう、貴方を、喰いに来たんだったわね」
「……!」
予想の範疇だったことだが、実際に言われてみるとなると、クラインは身動き一つできなかった。鉄の短剣の柄を握る右手に力が入るばかりで、ましてやそれを鞘から抜き、振り上げて、ネウに向けることなど、不可能だった。
「大丈夫。安心していいわよお。私をそれで刺しても、私は死なないもの。……まあ、それ以前に、抜くことさえもできないでしょうがね」
「クッ……!」
もはや、手も足も出ない状況だった。凶悪、という言葉が似合いすぎる程の表情を顔いっぱいにたたえたネウは、一刻一刻とベッドに腰掛けたままのクラインにカツン、カツン、と革製の靴を鳴らしながらその影の距離を狭めている。
このままでは、不味い。座して死を待つか、一か八かの行動に打って出るか。
前者を選ぶことは、まず、無い。なぜなら、死んでしまってはこれから銀貨一枚も儲けることができなくなるからだ。そういった考え方しかできないのが、今のクラインのせめてもの救いと言えた。
おそらく、今までに何百人と言う人々をその青白い手で……あるいは鋭く砥がれたその牙で殺してきたのだろう。あたかも当然のことをするかのように、瀟洒な顔つきで、クラインに迫った。
「……さあ。死は怖いかしら? 何のこともないわあ、一瞬よ。あっ、という間に……」
突如、ネウがその歩みを止めた。見れば、ネウの首に、月の明かりを反射してまばゆく光るナイフが刃を向けていた。
「主人様、大丈夫ですかっ!」
「ライサ!」
今にも自分の首元に噛みつかんとしていたネウの頭が、不意に遠のき、白く細い首には、ライサのしなやかな腕が絡みついていた。
ライサはとっさの行動でクラインからネウを離すと、自衛用のナイフの刃をネウの喉元に向けた。
「ライサ、いつから起きていたんだ?」
「「長いこと?」辺りからです」
ライサは、クラインのことなど見向きもせずに弓のように引き絞った目でネウを睨みつけた。碧眼の少女は、ネウの事をあたかも親の仇でもあるかのように、わずかな好意も見受けられない、冷静そのものを絵にしたような声でネウに話しかける。




