第二章⑧
夜中に首筋に妙な感覚を覚えた。ひんやりとした、なんとも言えない、尖った爪を立てられているかのような嫌な感覚だ。
「……っ!」
おそらくは自分の汗が首筋に流れたのだろうとクラインは思い、手でぴしゃりと首筋を叩いた。だが、クラインの手に付いたのは汗ではなく、柔らかい、自分ではない者の柔らかい肌のような感触だった。
「クッ……」
「……誰だ」
その瞬間、女性の白く、透き通るような声が痛そうで、堪えるような声をだし、何歩か後ずさりするのが分かると、同時にクラインの首に張り付いていた冷たい感触も消えた。そのおかげかどうかはわからないがクラインは霧が朝日に照らされてゆっくりと晴れていくように、はっきりとした思考で頭を動かすことができた。
一瞬、ライサではないかと考えたが、ライサにしては少しばかり背が低い。となれば、ライサと自分ではない「誰か」がこの部屋に入って来たことになる。
クラインは、ベッドの前に何者かがいるのを悟り、腰に差しているナイフを抜いてその影へと向けた。相手が誰かも確認していないのにいきなりナイフを向けると言う行動をとってしまったのは、人間としての防衛本能が働いた結果なのだろうか。
出来るだけ正体不明の相手に威圧感を与えられるように、低い声で言って聞かせた。
「誰だ。勝手に部屋に入ってきて。余計なもめ事を起こして街警使に通報されないうちに、さっさと出ていくことだな」
「クス。お馬鹿さぁん、出て行けと言われて出ていく奴なんて、いるわけないじゃなあい?」
クラインが短剣を向けた先には、歳は十代半ば程、ライサより三、四歳幼いくらいだろうか。白銀に光る髪を肩まで伸ばした「少女」が、半ば呆れたような顔でため息をついていた。
夜の暗闇で細部、服装や顔立ちまではしっかりと分らなかったが、音とわずかな陰影でそれを理解できた。
確実に姿形は幼いとわかる。だが、どこか老練な年寄りじみた雰囲気と、名門の貴族の令嬢のような高飛車な雰囲気を併せ持つ奇妙な雰囲気をクラインは感じ取っていた。
「全く。おとなしく寝ていれば、面倒くさいことにならずに済んだのにね」
「残念だが、簡単にいくことばかりが世の中じゃあない」
クラインが高圧的な態度で口を開いた少女に対し持論で反論すると、少女はまるで一本取られた、と思わせんばかりにからからと腹を抱えて笑った。
「くふっ……確かに、貴方の言うことは正しいわ」
「ああ、そうだ。それが世の中の心理だからな。そしてお前は誰だ」
「私? 私はネウ。よろしくね」
ネウと名乗る少女は、何を躊躇うことなく、堂々と吸血鬼の名を騙った。
大胆にも吸血鬼の名を使うとは神知らずな娘だ、とクラインは心の中で呟いた。けれどもそういうクラインも、第一に神なんてほとんど信じてはいないのだから、無神論者同士、お互い様だろう。
「そいつは驚いたな。お前は知らないかもしれないが、その名前は世にも恐ろしいあの吸血鬼の名だ。そう易々と使える名前じゃないぞ」
「何を言っているの? 私こそ吸血鬼のネウよ? 他にネウを名乗る者なんて、聞いたことが無いわ」
「ここいらじゃ、「ネウ」の名を使う奴はたった一人しかいない。「吸血鬼ネウ」それだけだ」
クラインはそう言い切り、余裕を構えた態度で腕を組んだ。大方、この辺の街娘がこの宿に泊まりに来た商人をからかいに来たのだろう。そう考えると、この娘がどこか遊女のような言葉遣いなのも理解できた。
……だが、そう決定づけ、無理にでも納得することでしか、外面だけの冷静な表情を保っていられなかったのもまた事実だ。なぜなら、この吸血鬼を名乗る少女。明らかに「まともな人間」ではない出で立ちをしていたのだ。
何故、それが今頃になって気づいたか。それは、クラインが暗闇に目が慣れてきたことに加え、満月が雲から顔を出しいたために、先程よりもしっかりとネウを名乗る少女の姿を目に捕らえることができるようになったからであった。
闇に浮かぶ青白く透き通るような肌と、月の光を受けて白銀に輝く、美しい銀の髪、肩幅より少し大きく、コウモリの持つ特有の漆黒の闇に溶け込んでしまいそうな翼を持つ、異形の少女。月の光を背に受けてたたずむその様は、今宵の満月を彷彿とさせた。
少女の持つ鮮血の如き深みをたたえた、射るような目つきだが、その一方で可愛げのある幼さが残る、真紅の宝石のように澄んだ瞳には、情けなさそうにこちらを向いたまま動かない商人の顔が移る。
吸血鬼、というのはまさしくこの少女のことを言うのだろう。だが、鋭い目つきや口の端からわずかに覗かせる鋭利そうな牙から、クラインにはどちらかと言えば、狡猾な狼を思わせた。
それにしても、まるでガラス細工の様に、触れただけで脆く崩れてしまいそうなほど幻想的で、年端もいかない可憐な少女のはずなのに、清楚さと妖艶な雰囲気の両方を醸し出す、全く持って不思議な少女。
それが、今クラインの目の前に立っている、吸血鬼「ネウ」を名乗る者の姿だ。
まるで神殿の宗教画に描かれる神話にでも出てきそうな神々の風格と、その風格を保つにふさわしい古代帝国風のゆったりとした作りの純白の衣服。 それこそまさしく、聖書からそっくりそのままに古代人が出てきたようだ。薄い、霧のような透明感を持った衣服の上から、控えめだが、それが逆に生唾を飲むほどに形の整った乳房の形が見て取れた。
異なるのは性別と、聖母の様に幼くて可憐な表情だけだ。尤も、その表情の裏側は獣の様に血生臭い吸血鬼のおぞましい顔があるのだろうが。
それだけでも、クラインがこの少女を吸血鬼と確信するのには事足りた。だから、それをただの「街娘」で終わらせてしまう自分を笑いたくもなった。こんな街娘がいる都市とは、いったいどんな街なんだ、と。
だが、ネウはクラインがそんなことを考えているとも知らず、先程のクラインの言葉の答えを詮索していた。
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