美しいものを、壊したくなくて
破られる約束だと、解っていた。
守る気はあっても、人には優先順位がある。シェンナとてそれは理解している。
当麻にとって一番大事なものは何。一番大切なものは、人は。それがシェンナではなく椿だというの事実は痛みとして、既に知っている。
だから破られる。卑怯な言葉で引き留められない以上、絶対に当麻と椿は殺し合う。だというのに、何も言えない。
どうなのだろう。シェンナの臆病さは、どれだけの人を傷つけて不幸にするのだろう?
「それでも、当麻程、一途な人は見た事、ないから」
真っ直ぐで不器用で、その癖、純粋な人。
だから、それを羨ましいと思ったのは、一体何時からだろう。
向けられる、穏やかな瞳に映して欲しいと思ったのは。それが叶わないと、諦めたのは。
何時も何時も、停滞と停止の積み重ね。何と言葉を掛ければ良いのか。何をすればいいのか解らなくて、シェンナは立ち止まっていたのだから。
どうすれば、振り向いてくれるのだろう?
どんな言葉を言えば、私を見てくれるだろう?
そんな迷いを、ずっと積み重ねて、今ここにいる。こんな場所に。
「一途過ぎて、脇見もしないもんね、当麻」
だから、今走る。瞳が椿に向いた儘でも、当麻を失いたくないのだ。
まだ交わしたい言葉はある。伝えたい想いがある。何より、日常を笑って過ごしたい。
これを恋とは言えない。これを愛しているとは言えない。
「一途過ぎて、私のは霞んでしまうよね」
何しろ、自分から身を引いたのだから。
ああ、叶わないと知って、一年前にはもう、友達でいようと決心したのだから。
憧れて、羨ましいと、そう思った。
壊れる前に、これ以上、痛まないようにと、曖昧な感情を消した。
「私は、臆病だから」
その程度だった。友達として笑っていられる日々が壊れるのが怖かった。
そちらの方が大事だなんて、当麻と椿の間に挟むにはなんて薄っぺらい想いだろう。
だから、走る。シェンナはあの時のように、自分で壊れて行くものを見たくないから。
何もしない臆病さを捨てる為にも。
「羨ましいと思ったのは、何時からだろう。当麻の一途さが」
それだけの力が欲しい。今、その一途さが崩れてしまわない為に。
全力で街を駆け抜けて行く。早く、早くと。嫌な予感がする。そして、それを払う為にも、核を壊して早く当麻の元へと。
だというのに――どうして、そんな一年も前の事を思い出すのだろう?
「未練、かしら?」
笑ったつもりで、けれどきっと上手く出来ていない。
鏡を見れば、引き攣った無様な表情が映っているだろう。
走り続けているせいで息は荒れて、泣いているように見えるかもしれない。
ただ、曖昧な輪郭が、少しずつはっきりとしていくように、その思い出は浮かび上がる。
共に沸きあがるのは感情の波。羨望と、苦しいナニカ。
記憶の中、その頬に触れたいと指を伸ばしかけて、戸惑った挙句に肩を叩くだけだった。
驚いた顔で当麻が振り返り、何でしょうかと当麻が笑う。
食堂のテーブルで横に並ぶ。それだけで十分だと思った。
午後の柔らかな光。そして、隣にいる当麻という少年。それが何時もの日常だった。
なのに、違っていた。決定的に。
見れば当麻は大事そうに、封筒から取り出した便箋を読んでいる。その瞳は今までシェンナが見たどの時よりも穏やかで、安心しきっていた。
無駄口を叩き、じゃれ合うように会話していた時も、そんなに幸せそうではなかった。
テストの勉強を教え、教えられ、共に乗り切った後も、こんな風に優しく口元をゆるめていなかった。
胸を引っ掻く痛み。じくりと、滲んでいく熱と毒。喉にまでせり上がる混濁した感情。
こんなに長く一緒にいるのに、シェンナの知らない当麻の表情。
今思うと、それは予感だったのだろう。
文通なんて時代遅れなと、皮肉げな口で誤魔化した。その舌まで、予感の苦みを感じているのに。
手紙からは、金木犀の香りがした。美しくて、何処か切ない花の匂い。
少女の付ける、匂い付きの手紙。
当麻の手な握られた便箋からそれが流れていると気付いた時、再び胸の中を何かが引っ掻いた。
ぶつりと何かが切れて、熱い血が心から零れた。
怒りではない。悲しみでもない。違和感という血。どんどん滲んでいく。そして、止まらない。
ああ、手紙の相手は少女なんだ。そう気づいてしまって、思考と感情が重たく、鈍くなっていく。
想う心の弦が悲鳴を上げる。ぷつりと切れて、胸に裂傷を作る。そしてそれは止まらない。
傷は癒えない。本音の言葉は出ない。
その変わり、誤魔化しを入れた。
「誰と文通しているの?」
それがシェンナの精一杯の勇気。自分に嘘をついて時間を稼ぐ為の手段。
それに対して、とても透き通った眼を向けた当麻。
ツバキという、花の名前をした少女の事を知ったのはその時。
その人を語る当麻の表情を羨ましいと思ったのは、その時。
今でも、ずくりと痛む。傷口は癒えていない。
熱い液体が、溢れて来る。唇を噛み締めて耐える事しか出来ない。それより痛い事を、知っているから。
身を引いたのはそう。去年の文化祭の時。
「そうだよね。あんなに安心した顔、見た事なかったから」
居なくなった当麻を付けて、その恋人共々驚かしてやろう――少なくとも、この時は恋敵として、まで諦めてなかったシェンナは動いた。
臆病だったから、止められなかった。
臆病だから、応援しているフリをして、隙を見つけようとした。
「そんもの、なかったのに」
透き通るように重な合う二人は一つだった。
秋の優しい日差しの元、手を繋いで寄り添う二人。
静かに微笑み、囁くように語りかける当麻。それを聞いて、くすりと笑う少女。
決して自分には向けられない、優しくて穏やかなもの。余りにも、それが一途だったから。
その少女の事を好きだと一目で解ってしまう。一途で、真っ直ぐで、飾ったり隠す事が出来ない不器用さ。
なのに、とても安心していた。
そんな顔、見た事がない。
皮肉と毒舌はあるけれど、本心から穏やかに。
それに合わせて橙色のワンピースが揺れて、鈴が鳴る。
金木犀色の服が当麻に触れて、鈴の音が響く。
それを羨ましいと思ったのだ。決して自分には向けられないものだから。
見せてくれさえしない、もの。
これは、嫉妬?
「今でも思うよ。悩むよ。鈴の音色と、金木犀の香りに」
そして当麻のその横に立つ自分を想像出来なくて――シェンナの恋は、破れた。自分で破り捨てた。
一途さも足りない。力も足りない。失恋を経験したくなくて、日常が続けば良いという臆病さで。
あの時、もしも変な言葉で割って入ったら、どうなっただろう?
――もしかしたら、嫉妬や危惧した椿さんが、この学園の関係者として来たかも?
或いは人口島の近くに住むようになったかも。
根拠もないものを、今さらそうやって悩むのだ。
「あんな一途さを、想いを、悲しい終わりにしたくないよね」
シェンナは走りながら、誰にも届かない筈の声を呟いた。
それは駆け抜ける勢いと、記憶の激流に呑まれ、気付けば叫びとなっていた。
止められる筈なんてない。あんな、綺麗なものを。羨ましい、重なりと繋がりを。
「あれ程、綺麗な想いと恋を、壊したくない……!」
それが身を引いたシェンナだからの叫びで、願いだった。
どちらかがどちらかを殺すだなんて最後、例え形をなぞるだけでも、あって欲しくないから。
美しても悲しくて、やりきれない終わり方なんて、嫌なのだ。




