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赤色散華 ―金木犀、過去の匂い―  作者: 燕乃
第六章
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消せない祈りと約束

 影に包まれる前のそれを、椿は覚えている。

 手を伸ばしていた、当麻。君は、変わらないね。

 そう、思ったのだ、何処まで一途で不器用なんだろう。

 君を殺そうとする私の言う事なんて、何も信じず聞かなくて良いのに。それでも、聞こうとするなんて。


「変わらない、ね」


 くしゃりと歪む表情。

 胸が痛い。何かが刺さっている。

 これは、ナニ。ううん、解っている。

 脈打つ鼓動は早鐘のように鳴り響き、血液に見えない針が混ざっているかのように激痛を全身に送り出す。

 よろめく身体。吐き気を覚える。呼吸が出来ない。

 左腕で胸を抑えた。同時に、鳴り響く鈴の音。鳴っては駄目。今はまだ。


 当麻、君が来るには今はまだ早すぎる。鳴らして、聞かれてしまったら絶対に駆け付けられる。

 約束には、どうしても律儀な君だから。


――ああ、君を好きなのは変わらないね。


 力なくずるりと動けば、そこは路地裏で、壁へと手を付いていた。

 隣にいた筈のソドムはいない。此処に置き去りにされたのだ。

 捨て置かれた。一人になれば、椿はもっと面白い事をするのだろうと。

 ただ思考だけは、頭の中に響いてくる。脳に直接語りかけて来る声は、嘲笑ちょうしょう塗れのものだ。


 約束は守ろう。君が万の赤い薔薇を捧げてくれれば、それでいい。

 紫の光、粒子。それがソドム。この街全体に広がっているのだから、この街全てを知っている。見ている。触れている。


 何を、言うのだろう。それを守ってくれないのなら、私はどうすれば良い?

 胸を抑える。心臓の痛みも嘔吐感も、全て心の表れ。感情の悲鳴だった。

 赤い、赤いもの。赤黒く、変色したものが肌に付着している。


「……ぁ……」

 

 微笑みなど、最早ない。

 此処は誰もいない。だから、悪魔との契約の外。

 嗚咽おえつに似た声と共に、肌に付着した血痕をむしる、嫌だ、これは嫌だと。

 爪を立てて、肌と肉ごと削げ落すように。そうして掻き毟って、削って、落として。自分の血が滲んでも、自分の血肉ごと死の色を落とす。


「……嫌、だ……」


 血は見たくない。

 怖い。苦しい。どうしてこんな事をしているのだろう?

 どうして殺しているのだろう。

 殺したくはない。君を、傷つけたくはない。

 でも、ならどうして?


「………っ……」


 崩れそうな自我。椿という存在は、つまる所、そこに矛盾を抱えていた。

 いや、それが彼女を支えていた。

 求めている。ただ愛を。好きだという気持ちを。

 彼の不器用さを覚えている。

 しずしずと泣いた夜、一晩中傍にいてくれた事を。

 椿は死んだ。守られなかった。けれど、そこに呪う気持ちはない。

 ただ報われたい。幸せになりたい。死んだと云われても認めて諦められない。その為には。


「殺さないと……いけない……」


 それが悪魔との契約、だから。

 万の赤薔薇を紫の空に捧げ、一本の蒼い薔薇を貰う為に。

 その内容を伏せる事。そして、人が見ている限り、殺意を抑えられなくする事。

 悪魔は、契約として呪いの焼印を椿に押していた。その上で叶う愛を、椿は求めていた。


「……だって、私は…………もう、人じゃない」


 掻き毟った肌。肉を削った指先。爪は折れている筈なのに、まるで鉄であるかのように壊れない。削れた肉も、瞬く間に再生して治癒していく。流れた鮮血の赤さだけが、残っている。

 もう人ではない。天魔だ。骸の儘動く化け物を抱き締めて愛してくれる人なんている筈がない。その事実と現実が痛い。

 痛い。

 痛い、痛い。

 胸が張り裂けそうだった。心が、掻き乱される。


 感情という名の弦が、気を緩めた瞬間にぷつんと千切れてしまいそうだった。

 掻き鳴らされる、無様な心の音色。血管を伝わり、体中に響く不協和音。

 壊れて砕ける。砕けて散る。散って溶けて消える。いや、それは出来ない。


 理性ではなく、壊れかけた心が、何度も己の形を取り戻そうと脈打つ。もう、元には戻れる筈はないのに。

 愛情。絶望。自己への嫌悪と憎悪。死ねばいいのにと自分に言い、いや死ねないと叫び続ける。

 狂っているのだろうか。この愛は。それでも良い。ただ、愛している。そして。


「でも君が、いるから……死ねない……」



挿絵(By みてみん)



 それが、椿に残った唯一の想い。

 決して亡くしたくない、無二の宝物。

 人ではなくなったヴァニタスの愛は、己をも壊そうとしていた。

 けれど、もう一歩と。あの時の契約を思い出して動き続ける。


 脈打たない心臓。何も見えない瞳。聞こえない鼓膜。それらを全て、一瞬で蘇らせて変質させたもの。

 そして、未だに動かそうとする、その力。





――それが、椿のユメで願望だったから。

――死んでも、闇の中で抱き続けて、悪魔に魂を売る程に叶えたいものだったから。





 死んでも、想いだけで身体が動くのだ。

 からっぽの筈の魂が泣いて、鳴いて、哭いて、まだこれだけは残っていると響いている。

 だから思い出してしまう。椿が生き返ってしまったあの時を。約束を。悪魔との契約を。それだけが椿を動かす力になった。あの夢と約束がなければ、死と終焉しゅうえんを選んでいる。


 他の道はあったかもしれない。

 けれど、それらを選択出来ない程一途に、何処までも純粋に刻み込まれた、願いの残滓ざんし

 怨念かもしれない。呪詛かもしれない。死人の後悔は、きっとそう呼ばれるのだろう。


 ただ、消えたくないのだ。

 だからって、譲れないのだ。何度も何度も思い出し、叶うかもしれない願いを追想し、身体を動かす。


 故に、思い出すのは、悪魔の言葉。悪魔との契約の瞬間だった。 

 瞼を閉じれば、自分を包み込んでいた闇と、痛みと苦みと、そしてどうしようもなかったという思いが過ぎる。

 忘れて、いない。

 今も思い出す。ソドムの嘲笑に、揺さぶられて、ずるずると壁に手をつきながら椿は歩く。そして、記憶を振り返る。



――このユメだけは、枯れ果てさせたくないよ。



 どうしても、だ。叶うと解ってしまったら、もう手放せない。

 ヴァニタスと化した、あの時。それは駄目で最低だな選択だとしても、否定して欲しくない。

 お前のせいで俺達は死んだと、先ほど切り殺した人々にだって。

 あの約束は、守りたくて守りたくて仕方がないのだ。叶うと、信じて願って、汚れて。


「……手に、したい」


 これだけの我儘。せめてもの、身勝手。許してはとは、言わないから。

 死んだ身体、一度尽きた命。それでも、愛を願う。

 大切な鈴の音と共に。


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※この作品は出版デビューをかけたコンテスト
『エリュシオンライトノベルコンテスト』の最終選考作品です。
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