願う果て、空白に
ちりん、と。
夢の中で、鈴の音だけが聞こえていた。
姿はない。声もない。ただ闇がゆらゆらと、有り得ない事だが、まるで波のように揺れている。
誰も見えない。けれど、鈴の音だけが何度も響いていた。
それこそ助けを求めるように、強く、強く。続けて打ち鳴らされる、壊れそうな音。
或いは、硝子同士が衝突して、欠けていく音。
冷たい、余韻。
釣られて歩き出そうとする。が、身体は動いてくれない。
いや、五感はあっても、身体の自由がないのだ。夢といえば、確かにこれは夢だろう。
視覚、聴覚、触覚……つまり、周囲への感覚だけが鋭い。
遠くで鈴の音が続けている。そこに行かなければと思うのだけれども。
どうして身体は動かないのだろう。助けを求めるような、その音に。影が動くように、闇の中で気配がする。
それはきっと実体を持たない。けれど、確かに此処に居る。
そして、何かが崩れる音がして――当麻は、その夢という暗闇から追い出された。
くつくつと笑う闇の気配は、消えて行く。忘れていく。
それでも鈴の音だけは覚えていた。闇の奥から、金木犀の匂いがしていた。
夢から醒める、その刹那までは当麻も覚えていた筈なのに。なら、どうして忘れたのだろう?
ただ、悲しさだけが胸に残った。
そうして、夢から醒めて、当麻は一つの事を思い出す。
誰かと誰かの約束があった。
言葉にする事で、力を得る事はある。
十回、口にする事で叶うとなるように。重ねられた言葉は、力を帯びる。
――そう言ったのは、椿という名の少女。
何時の間にか眠っていた、自室のベツドの上。肌寒い、秋の朝の空気。
当麻が身体を伸ばせば、かさりと紙に触れた。見れば、封筒と便箋が枕の横に広げられている。
「いけない」
大事なものなのだ。
記憶にはないが、多分、それを読みながら寝てしまったのだろう。
椿からの手紙。その一部。久しぶりに落ち着いて読む事が出来た気がする。後悔と痛みに襲われずに。
文字で綴られているのは、何気ない日常の出来事だ。けれど、その日常が嬉しいのだ。
二人の日々が今は決して今は交わらなくても、それでもという思いは言葉の中に。
だから、落ち着いた今のような心地の中では、いずれ見つけられる、また逢えると、そんな気がしていた。
確かなものは何もない。それでも思うし、感じる。
安堵の中にあった。だからネガティブな想像も出ない。
この文通を交わしていた頃の、何の理由もなく信じていた時のように。
だから、気付かないうちに寝てしまったのだろう。
先日のシェンナとの、あの屋上の約束も、また心を落ち着かせていた。
当麻は、約束というものが好きなのかもしれない。そういうもので人と人が結ばれていると感じて、安心するのだろう。
何より、まず約束を当麻は胸に抱く。
黄昏にて橙の、鈴の約束。恋のそれ。
月夜にして金色、日々の約束。友とのそれ。
どちらも、心を落ち着かせるには十分だった。不安を溶かして流していく、暖かいもの。
「けど、流石に一晩は放置しすぎましたね」
夜気に長く触れた便箋は、香り付けとして織り込まれていた金木犀の匂いを失っている。
せめて寝相でくしゃくしゃにならなかったのが救いだろう。
仕方ないと、苦笑する。大事なものだから、失いたくないものの一つなのに。
これは自分の軽率さのせいだと戒める。
十回、口にすれば叶うと言ったけれど、それは叶うまでその十回をずっと続けてという話でもある。
それほどの思いが大切なのだ。約束とて、それは同じ事。
少しだけ気持ちが軽くなったのは確か。だからこそ、初心を忘れずにと丁寧に便箋を折り畳み、封筒へと入れる。
――でも、あの夢は何だったのだろう?
当麻はよく覚えていない。
何かが呼んでいた気がする。
一体、何だったのだろうか。
妙な予感と、胸騒ぎが、静かな水面に、ふっ、と一瞬だけ映って過ぎる雲のように流れた。
約束は、何度も。
あの屋上で、この学園で、どれだけの言葉を交わしただろう。
この封筒で、どれだけの約束をなぞっただろう。だからこそ、物語は動き出す。
梅に結い懸ける紅の願いにて。
決して枯れぬ、真紅の冬の花。永遠の花。
冥界の花。
そんな事を知らない儘に、当麻は封筒を机の引き出しへと戻した。
好きな少女の顏と声を思い出しながら。大事に、大事そうに、そっと。
そうして、千の願い、万の言葉、億の感情に、物語は揺れるのだ。
空さえ染まっていく。あの色に。失った、あの色に。




