涙の行方、約束の啜り泣き
運ばれた病院。手術が終わってすぐ、残念ながらと医師に告げられた。
椿の左腕はもうまともに動かないだろうと。
肉と共に神経を食い千切られたという。剣を握る所か、日常生活にも支障を来たすだろうと。
それは伝えられた事実。覆しようのない、既に起きて取り返しの付かなくなった現実。
或いは、失った可能性。椿は、当麻を庇って左腕の自由というものを永遠に失った。
共に手術が終わるのを待っていた片瀬家の家族は、誰も当麻を責めなかった。あの子は、人の為に身を投げ出すような子だったと。
だから責めない。守ってくれたと礼は言えないがと椿の父親が、絞り出すように言った。
誰も当麻を責めなかった。
それは当たり前の事、かもしれない。身を挺して庇ったのは椿。そして、それを逆に救った当麻。
ただ、代わりに今晩は椿の傍にいてくれと。呪うような縋るような、曖昧にぼかされた声で告げられた。
言った椿の父親も、内心は入り乱れて自分でもその心を理解出来ないのだろう。
父にとって椿は一人娘だったのだから、当麻へと追及はあって当然なのに。それでもその一人娘が今、一番いて欲しいのは、当麻だろうと。
やるせなさが滲んでいた気がする。それでも、当麻に椿を任せてくれた。当たり前と感情は違い、そして感情も個人の中で複雑に渦巻いている。
それでも、あまりよく当麻はその前後を覚えていない。ただ、締め付けられる不安で、胸がボロボロと崩れそうだった。
ベッドで眠る椿の傍にいても、それはしばらく続いた。どうすれば良いのだろう。どうしたら良かったのだろう。自問自答が、繰り返された。
でも、今、静まり返った夜の病室で、当麻を責める音が、響いていた。
罅割れるような、断絶的な声。
手術が終わり、個室に寝かせられている椿。その右手を握り、横に座る当麻。
その耳を打つ、声。
押し殺した、嗚咽。
椿が、起きたのだ。
言い合いは、どちらともなく終わった。どちらも続けるだけの気力を失い、終るしかなかったから。
ただ、連ねた言葉と想いは伝わっていた。
今もまた、互いの胸に染みこんでいた。握り返してくる椿の指先の強さと冷たさが、当麻の身体を縛る。
しずしずと、音もなく、流れる涙の気配。
きっと泣いているのだろう。灯りが消え、逆の方向を向いた椿の顔は見えなくても、それだけは解る。
震えていた。まだ、二人とも恐怖が抜け切れていない。
失ったらどうなるのだろう。この人が居なくなったら?
二人とも、同じように考え、同じように想い、夜の静寂に投げかける。
痛みで泣く少女ではなかった。
止まって終わる少年ではなかった。
想いは見つけた。歩く先も。当麻にとって、それはただ、単純な事だったから。
擦れ違うかもしれない。馬鹿だと、また罵られるかもしれない。けれど、これだけは譲れない。
痛いのだ。苦しいのだ。切なくて、胸が張り裂けそうだった。
当麻もまた泣き続けていた。音もなく、気づかれないように。お互い、相手の泣いている姿を見たらきっと心が崩れてしまう――そういう思いを胸に秘め、顔を合わせず。泣いていないフリを続ける、夜。
でも、お互いに同じ事を思って考え、どうして顏を合わせないのかは解り切っていた。互いに見透かされた配慮だけを、ただするしかなかった。
バレバレの嘘を交わす。誠実さと、大切さから。相手が、大切だから付く、嘘。感じて思う事は同じでも、決して交わってくれない。譲れないから。
自分が泣くのは良い。でも、相手が泣くのは嫌だ。自分が泣いているせいで相手が泣くなんて、絶対にもう嫌だっ。
当麻は言葉を、紡いだ。
「……綺麗なものを、見ましょう」
だからと、決めた事を、この夜に囁いた。
「椿さんの涙は悲しすぎます。もう、見たくない。泣かせないと、誓います」
それは、一方的な約束。だったら、また危険があれば、そこに飛び込むのかと。
「だから、強くなります。二度と、貴女を泣かせない為に。貴女の笑顔が、綺麗だから」
椿の優しさに触れられれば、きっと、それだけでいい。
不器用で一途な当麻の想いは、此処に形を成す。
泣かないで、笑っていて。綺麗なものを、共に見よう。
見落としたりしない。見逃さない。椿という少女の心を。
「――それで、君は痛くない? 怖くない?」
「痛いでしょうね。怖いでしょうね。でも、それでいい」
「…………」
「約束させて下さい。貴女を守る、という事を。この約束に魂を懸けると。代わりに……」
「…………」
だから求めよう。ただ一つだけ。
「代わりに、椿さんの泣き顔は、僕だけに見せて下さい。これが最後で、僕だけが知っているものにしたい。二度と泣かせない代わり、貴女の涙を僕に下さい」
今泣いている涙をくれれば、それだけで大丈夫。
痛くても苦しくても、怖くても。この涙より切なくて、零してはいけないものはないと思うから。
「…………君は、どうしてかな」
「――好きだからです」
好きな人の涙。それを零さない為なら、何だってしよう。
「椿さんは、綺麗で優しく、笑っていて欲しい」
「――好きだよ、君の事。だから」
「奪わせて下さいよ、守る特権」
「…………」
「今度は、僕が守ります。先を歩かせて下さい」
「――どうして、かな」
「どうして、でしょうね」
すれ違っているのを感じる。でも、少しだけ、椿が笑う気配がして。
静かに、静かに。時はゆるゆると流れて行く。
この夜の裡に、万の言葉でも交わせるだろう。
でも、もうこの瞬間に約束は結ばれたと思った。言葉はその役目を終えていたから。
ただ、契るように、絡められた指先。
「判った。当麻……君に、私の涙を上げる。代わりに、守って」
しずしずと、月灯りが落ちる。
涙が零れて行く夜。月さえも、苦しそうに細い光を落していた。
なんて頼りない、明日への願いだろう。
椿という少女一人だけでも、笑う世界であって欲しい。
なんで、それさえ確信出来ないのだろう。願わないといけないのだろう。
当たり前として、幸せでありたいだけなのに。
きっと、それは当麻が弱いから。
だったら、そうだ。強くなりたいと、この時に願ったのだ。
屋上でそんな出来事を、想いを、当麻はシェンナに語った。
けれど、それは微塵も揺れていない。回想し、それを言葉にした事で再び熱を帯び始めていた。
長く続いた沈黙の後、屋上を後にして自分の寮の部屋に戻った。
静かなシェンナの視線だけが、背を追っていったのは覚えている。言葉はなく、また、もう要らないだろうと、シェンナは何も言わななかった。
いや、最後の去り際に、小さく呟きが聞こえた。
――本当に一途で純粋、だね。当麻も、椿さんも。
それはどういう意味かは解らない。
けれど、羨ましがるような、何処か寂しそうな、それでいて優しいシェンナの顏は覚えている。最後に振り返って確認した時、やはりその表情を浮かべていた。
何処か忘れられない、薄くて綺麗なものだった。
水面の鏡のように、当麻の願いを受け止めて、反射していた。
その一途さを、貫いて欲しいのだと。
ずっと、それが頭から離れなかった。一歩進むごとに、むしろ強烈になっていく想い。
寮に帰りつく頃には、胸を焼くのではなく、暖める炎となって、当麻の胸にあった。
決して人の肌を焼かず、ただ撫でるだけの月光のように。しずしずと。
だから、寮の部屋に入った時にはもう、当麻の覚悟は決まったのかもしれない。
ああ、でもそうだ。決めたのだ。
けれど、どうしてこうなったのだろう。それだけがどうしても気になって、遣り切れない。
擦れ違いは最初からで、思えば椿はずっと傍にいて欲しいだけだったかもしれない。
けれど、それでは守れないとあの晩、思ったから。二度と泣かせない為には、どうすれば良いのかと。
道は自分で選んだ。それを後悔は、きっと出来ない。
擦れ違った。逢えない。何処にいるか解らない。どうしたらよかったのだろうと、聞きたいからこそ、絶対に見つけ出すのだ。
二度と泣かせない為に、涙を零させない為に。後悔をしている暇なんて、ない。
帰って来たばかり自分の部屋。真っ先に向かったのは鍵を掛けていた机。その引き出しに手を伸ばす。
鍵は脆い作りだった。ポケットに仕舞っていた鍵で開錠すると、かちゃりと折れて壊れそうな脆い音を立てて開く。
引っ張ればごとりと音を立て、中身を晒した。
それは封筒だった。落ち着いた色彩の、何十という封筒。
その一つ一つを、覚えている。色で、消印で。少しの形の違いで。
その中から香るのは、金木犀の匂い。
彼女との約束の花の匂いが、便箋に付けてられていた。
忘れない。忘れていない。そんな信頼が、一つ、一つの便箋に込められていた。
まだ、消えていない、香り。
過去の、名残り香。
「絶対、探して、見つけますから」
その言葉をささやく。封筒から、一枚の便箋を抜き出して。
「一人では、無理かもしれませんけど」
独りでは、ないから。
――ちりん、
と、何処か遠くで、鈴が鳴り響いた。
そんな気がする。錯覚を感じた。そして、くすりと笑う気配。
約束の音色は、鳴り響いている。




