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赤色散華 ―金木犀、過去の匂い―  作者: 燕乃
第三章
11/33

だから、流れた涙と擦れ違い。



 そう。椿はそんな人。優しくて、穏やかで、当麻を見守ってくれる姉のような。

 暖かい人。優しい人。だからこそ、これは起きた。擦れ違いの始まりとして。血が冬を彩る。




 梅の木が林と成る場所にて、凶が起きてしまう。

 来る事を選択した。だからこそ、起きてしまった。

 そしてそんな人だから、当麻を庇う。それが椿という少女。


 ばしゃりと血飛沫が上がった。

 みしりと音を立て、圧し折れた梅の木が、倒れて行く。

 目の前に立つのは、椿だった。

 梅の咲く、庭園。白い花が、小さく咲いていた。


 静かに開いた、その花びら。薄らと赤みがかかったそれに、血が付着して真紅に染める。

 真っ赤に塗れた梅花(ばいか)。小さな、不吉な色を湛えた一輪。

 椿の、苦しげな息。悲鳴を押し堪えた、声にならないものが漏れた。

 からんと、木刀が落ちる。それに対抗しようとして、けれど何の意味も持たなかったものが。


「……ぁ……」


 当麻の呟きは、何だったのだろう。

 梅の木が並ぶ、林のような場所。そこにいるのは、獣の姿。

 狼に似ている。けれど、その尾は三つで、毛並の色は青。こんな色をしている生物は、人の世にいない。

 だから、一目で解ってしまう。これが何か。


 天魔――その眷属(けんぞく)


 人の世に紛れ込んだ、異界の猛獣。

 唸り声が漏れる。天使か悪魔か、どちらに作られたかは解らない。ただ、人間の世界を蝕む魔が、そこにいた。

 何故茫然としているのだろう。

 どうして何もしないのたろう。

 震える腕。震える膝。動かない身体。


 呼吸だけは、荒く続いている。当麻はその天魔を前に、転ばないのが不思議な位で、立っているのがやっとだった。

 この世に非ずの暴威の気配。漂う血の匂いが、視界をくらくらとさせる。

 でも、その血は、ダレが流した?


「……っ…逃げて……」


 取り落とした木刀を拾おうと右腕を伸ばす、椿。

 その左腕は、肩口を大きく食い千切られ、骨まで見えていた。

 当麻を庇い、出来た生々しい傷口。


 椿は咄嗟に当麻の身代わりになっていた。思考などない反射だ。躊躇いなく身を(てい)していた。

 繊細で優しく、物静か。だけれど、その胸の裡にある意志は余りにも強い。危うい程に。

 どくどくと、傷口から溢れて流れて行く血液。痛みのせいか、屈んだ拍子に、膝を付く。

 そして起き上がれない。木刀も拾えず、動かなくなった左腕をだらりと下げた儘に。


「――逃げなさい、当麻君!」


 椿は叫んだ。凛と響き渡る、意志を込めた声。

 肩を食い千切られた。血がとめどなく溢れている。天魔の眷属が目の前に。

 吼える天魔。

 だから何だと(まなじり)を決して、椿は怯まなかった。獣如きに退けない、渡せない人が背中の後ろにはいるのだと。

 何故だろう。

 何故、その背を、当麻は見続けるのだろう。


 庇われるように。守られるように。

 ああ、そうだ。ずっと、こうだった。外に出ない、連れまわされる。そして、色々なものを見せてくれた。

 それを嬉しくて、追いかけた日々。

 なんて、馬鹿なのだろう。

 それは椿の歩いた道を、なぞっていただけ。後を歩いていただけ。危険な事は全て、先を歩く椿が見ていた。危険な事があれば自分だけ傷つくように。当麻が怪我しないように、危ない事は引き受けて。




――君は、遅いね




 それは安堵だったのだろう。

 椿にとって、当麻は守るべき幼馴染だった。弟のように守って、危険に触れないように。

 何時かは、何処か遠くへ行くだろう。

 でも、それまでは色々教える。強くなる為に、全てを。


 けれど、今の当麻はなんて無様なんだろう。憧れていた自分を恥じたりはしない。椿という少女は、それだけ強くて眩しい人だから。

 でも、何時までそれに甘えていたのだろう。先を歩こうとしなかったのだろう。

 背を追いかける。横に居たい。馬鹿だ。

 それでは間に合わない。当麻は、足が遅いから。椿は早いから。


 何かあった時、咄嗟に守れない。今のように、一歩が遅れる。

 追い抜かないといけないのだ。教えて貰って、見せて貰ったものを胸に。それが出来ていなかった。

 だから、失うのだろうか。

 まだ見ぬ風景。未来を、自分から選択しないから。

 さっき言われただろうに。自分で感じて、自分で歩いていかないといけない。選択は、常に自分でしなければいけないのだから。

 なら今この瞬間、当麻が感じるのは何だ。何をするべきだと、胸は叫んでいる。


 それは熱だった。胸の奥、鼓動に合わせて、湧き上がるナニカ。

 今もなお、泣きもしない椿。目の前の天魔を睨み付け、当麻に注意が向かないようにと。

 遅れた。男なのに、此処で踏みださないで、どうするのだ?


 自分が一歩、椿の手を引いて逃げていれば、もしかしたらこうはならなくて。

 梅を見ると云われた時、無理にでも上着を取りにいけばこうはならなくて。

 全て、椿に甘えていた事が、この現実になった。


「――っ――!」


 だから沸きあがっていた感情は自己への怒り。爆発する嫌悪と憎悪。 

 理性を焼き切る程の濁流だった。けれど、当麻に僅かにでも美点があるとしたら、それは自己嫌悪の向きだった。馬鹿ではある。不器用だ。でも、一途だった。

 今の己を嫌うから、変わる事を強く望む。飛翔の願い。その為に自分が削れる事を厭わない。今の自分と状態から、変われるなら。

 椿を守れるなら、それで良い。それだけを願っていた。他は全て、思考の中から捨てていた。


 憧れの人を見捨てられない。その為に、どうすれば良いのか。

 迷う事さえなかった。ぞくりと、身体の芯から震える身体。何かが切れた。何かが溢れた。


「……ぇ……?」


 踏み込みは俊速。人の限界を超えた域にあった。

 思考などない。理屈もない。ただ、願いのみに焦がされて、当麻は木刀を拾う。遅かった自分が、何故その速さで動けているかなど知らないし、理解しようともしない。

 力だけを感じていた。守りたいと、この時思ったのだ。

 馬鹿な自分。守られるだけの子供。そんな自己嫌悪から、その儘で終りたくないと、魂が叫んでいたから。

 何になりたいか、解らない。

 何を感じたいか、把握(はあく)できない。


 ただ、此処で椿を死なせたくない。失いたくないと、それだけが身体を動かした。

 故にこそ、木刀に、身体に、当麻は銀の光を纏っていた。気づいていない。本当に無自覚で、思考など置き去りだった。

 だから、どうやったのか憶えていない。ただ、溢れ出た気を練り上げて、木刀に集束させ注ぎ込む。

 それがアウルと云われるものだと、理解している筈もない。ただ、これは目の前の天魔を倒すだけの力はあると、何故かそれだけは感じていた。


 いや、椿を守る力だと。傍にいる為の力が、これだと。

 そして放たれる、銀光に輝く一閃。

 それはもうただの木刀に非ず。アウルに目覚めた事で、上昇した身体能力と、それを燃焼させて加速させた一撃。人の目に留まらぬ唐竹割りは、狼の姿をした天魔の頭部を叩き割っていた。

 散る鮮血。そして、威力に耐え切れず、根本から折れた木刀。


 からんと、落ちた音。

 手から、指から滑り落ちた。一撃を放って、何かが消えたように。

 それより大切なものがあると、ようやく気付いたのだから。


「……椿、さん……っ……」


 振り返る。自分の肩口を抱きしめるようにして、流れる血を止めようとする少女の姿があった。

 両膝をついていた。

 頭は垂れていた。血は止まらなかった。


「今、救急車を……!」


 怖かった。この人が居なくなるのは。

 優しい声を聞きたい。静かに語りかけて欲しい。

 やっと判ったから。憧れは、何時か、その人を超えて傍にいる為にあるのだと。

 だから、消えないで。死なないで欲しい。言いたい事が、沢山あるから。

 まだ当麻は椿の横に、立てていない。





「……こ……い…よ……」





 それは呟き。震えた、少女の声。

 流れ続ける血よりも、当麻を震えさせる、泣き声だった。


「怖いよ、当麻。なんで、なんで……君は……」


 出血し過ぎて、白い肌。

 そして黒い前髪を揺らし、視線を上げる。

 涙が、ぼろぼろと零れていた。

 どうしもなく、壊れた涙腺は、次々と雫を作って落としていく。

 落ちて散る涙。飛沫は跡を残さない。ただ、ただ、恐怖に震える少女の声が、冬の静寂(しじま)に響いていく。


「どうして、君は逃げなかったの……!?」


 茶色の瞳に浮かんでいるのは痛み。失ったらどうしようという、恐怖の色。

 それは鏡合わせのように、見つめる当麻の瞳にも浮かんでいた。余りにも似て、お互いを貫く、悲しさと恐怖の色だった。


「君が死んだら、私はどうしたらいいの。どうやって、君のいない日々を過ごせば良いの!?」


 傷など気にしない。身悶えするように身体を震わせて声を張り上げ、それと共に勢いを増す流血。

 それと一緒で構わない。この想いが届いてくれるならと。

 ねぇ、当麻。君のその瞳にも映っているから、解るよね。

 自分より、大切な誰か。

 大切な人。その人は、とても重くて、掛け替えがない。

 自分よりも大切で、そこに常識なんてないのだ。


「大切な人が消えたら、怖いんだよ。もう声も聴けないんだよ、放せないんだよ、触れないんだよ」


 解って。伝わってと。

 どうして、逃げなかったのと。


「君の馬鹿……君は馬鹿……!!」


 叫ぶ声。射抜かれたように、見つめられる視線。乗せられた感情。


「だって」


 絞り出す、想い。

 正否などなかった。

 ただ感情だけが交差して、擦れ違うように言葉が流れる。

 何処で終るか解らない。ただ、言いたかった。言わざるを得なかった。


「椿さんがいなかったら、次、僕はどうしたらいいんですか。僕は、誰と一緒に生きればいいんですか。言いたい事も、聞きたい事も沢山あるのに」


 結果だけ見れば、二人は助かったのだ。

 当麻の行動が正しいと、そう見えたかもしれない。でも、これはきっと奇跡。

 天魔に襲われた少女と少年のうち、片方が唐突にアウルに目覚めるだなんて、どんな偶然だろう。

 理屈としての今より、感情が、あの瞬間を思い返して震えていた。


「ただ、怖かったから。椿さんを、何時か追い抜きたかったから……」


 それは、ついさっき覚えたものだ。けれど、偽らざる本音だった。


「追い抜いて、今度は傍にいますから。すぐ傍にいて、今度は僕が先を歩きますから。遅いなら、早くなりますから……消えないで下さい。死なないで」


 ぼろぼろと零れる涙に、釣られるように膝から崩れる当麻。

 重かった。重力が何倍にも増したように。

 腕を伸ばした。

 震える椿の腕に。傷口を抑え、共に血で染まりながら。

 胸に、椿の額が押し付けられた。泣き声が響き、身体の震えが直に伝わる。


「守りたいんです……椿さんと、一緒に、見られる日々を」


 次は何を見よう。桜の前に、雪を見たい。共に雪の積もった野原で転がり、座り、雪玉をぶつけて。


「ああ……」


 その呟きは、どちらが出したのだろう。

 どちらも、ぼろぼろと崩れるように震えて、涙を流していく。

 血の赤さ。

 透き通る涙。

 二人しか、いない場所。

 抱き締めた椿の身体はこんなにも細くて、脆いものなのだと、初めて当麻は知った。

 こんな身体で、何時も前を向いていたなんて。前を歩いていたなんて。







――僕はなんて臆病なのだろう。






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