だから、流れた涙と擦れ違い。
そう。椿はそんな人。優しくて、穏やかで、当麻を見守ってくれる姉のような。
暖かい人。優しい人。だからこそ、これは起きた。擦れ違いの始まりとして。血が冬を彩る。
梅の木が林と成る場所にて、凶が起きてしまう。
来る事を選択した。だからこそ、起きてしまった。
そしてそんな人だから、当麻を庇う。それが椿という少女。
ばしゃりと血飛沫が上がった。
みしりと音を立て、圧し折れた梅の木が、倒れて行く。
目の前に立つのは、椿だった。
梅の咲く、庭園。白い花が、小さく咲いていた。
静かに開いた、その花びら。薄らと赤みがかかったそれに、血が付着して真紅に染める。
真っ赤に塗れた梅花。小さな、不吉な色を湛えた一輪。
椿の、苦しげな息。悲鳴を押し堪えた、声にならないものが漏れた。
からんと、木刀が落ちる。それに対抗しようとして、けれど何の意味も持たなかったものが。
「……ぁ……」
当麻の呟きは、何だったのだろう。
梅の木が並ぶ、林のような場所。そこにいるのは、獣の姿。
狼に似ている。けれど、その尾は三つで、毛並の色は青。こんな色をしている生物は、人の世にいない。
だから、一目で解ってしまう。これが何か。
天魔――その眷属。
人の世に紛れ込んだ、異界の猛獣。
唸り声が漏れる。天使か悪魔か、どちらに作られたかは解らない。ただ、人間の世界を蝕む魔が、そこにいた。
何故茫然としているのだろう。
どうして何もしないのたろう。
震える腕。震える膝。動かない身体。
呼吸だけは、荒く続いている。当麻はその天魔を前に、転ばないのが不思議な位で、立っているのがやっとだった。
この世に非ずの暴威の気配。漂う血の匂いが、視界をくらくらとさせる。
でも、その血は、ダレが流した?
「……っ…逃げて……」
取り落とした木刀を拾おうと右腕を伸ばす、椿。
その左腕は、肩口を大きく食い千切られ、骨まで見えていた。
当麻を庇い、出来た生々しい傷口。
椿は咄嗟に当麻の身代わりになっていた。思考などない反射だ。躊躇いなく身を挺していた。
繊細で優しく、物静か。だけれど、その胸の裡にある意志は余りにも強い。危うい程に。
どくどくと、傷口から溢れて流れて行く血液。痛みのせいか、屈んだ拍子に、膝を付く。
そして起き上がれない。木刀も拾えず、動かなくなった左腕をだらりと下げた儘に。
「――逃げなさい、当麻君!」
椿は叫んだ。凛と響き渡る、意志を込めた声。
肩を食い千切られた。血がとめどなく溢れている。天魔の眷属が目の前に。
吼える天魔。
だから何だと眦を決して、椿は怯まなかった。獣如きに退けない、渡せない人が背中の後ろにはいるのだと。
何故だろう。
何故、その背を、当麻は見続けるのだろう。
庇われるように。守られるように。
ああ、そうだ。ずっと、こうだった。外に出ない、連れまわされる。そして、色々なものを見せてくれた。
それを嬉しくて、追いかけた日々。
なんて、馬鹿なのだろう。
それは椿の歩いた道を、なぞっていただけ。後を歩いていただけ。危険な事は全て、先を歩く椿が見ていた。危険な事があれば自分だけ傷つくように。当麻が怪我しないように、危ない事は引き受けて。
――君は、遅いね
それは安堵だったのだろう。
椿にとって、当麻は守るべき幼馴染だった。弟のように守って、危険に触れないように。
何時かは、何処か遠くへ行くだろう。
でも、それまでは色々教える。強くなる為に、全てを。
けれど、今の当麻はなんて無様なんだろう。憧れていた自分を恥じたりはしない。椿という少女は、それだけ強くて眩しい人だから。
でも、何時までそれに甘えていたのだろう。先を歩こうとしなかったのだろう。
背を追いかける。横に居たい。馬鹿だ。
それでは間に合わない。当麻は、足が遅いから。椿は早いから。
何かあった時、咄嗟に守れない。今のように、一歩が遅れる。
追い抜かないといけないのだ。教えて貰って、見せて貰ったものを胸に。それが出来ていなかった。
だから、失うのだろうか。
まだ見ぬ風景。未来を、自分から選択しないから。
さっき言われただろうに。自分で感じて、自分で歩いていかないといけない。選択は、常に自分でしなければいけないのだから。
なら今この瞬間、当麻が感じるのは何だ。何をするべきだと、胸は叫んでいる。
それは熱だった。胸の奥、鼓動に合わせて、湧き上がるナニカ。
今もなお、泣きもしない椿。目の前の天魔を睨み付け、当麻に注意が向かないようにと。
遅れた。男なのに、此処で踏みださないで、どうするのだ?
自分が一歩、椿の手を引いて逃げていれば、もしかしたらこうはならなくて。
梅を見ると云われた時、無理にでも上着を取りにいけばこうはならなくて。
全て、椿に甘えていた事が、この現実になった。
「――っ――!」
だから沸きあがっていた感情は自己への怒り。爆発する嫌悪と憎悪。
理性を焼き切る程の濁流だった。けれど、当麻に僅かにでも美点があるとしたら、それは自己嫌悪の向きだった。馬鹿ではある。不器用だ。でも、一途だった。
今の己を嫌うから、変わる事を強く望む。飛翔の願い。その為に自分が削れる事を厭わない。今の自分と状態から、変われるなら。
椿を守れるなら、それで良い。それだけを願っていた。他は全て、思考の中から捨てていた。
憧れの人を見捨てられない。その為に、どうすれば良いのか。
迷う事さえなかった。ぞくりと、身体の芯から震える身体。何かが切れた。何かが溢れた。
「……ぇ……?」
踏み込みは俊速。人の限界を超えた域にあった。
思考などない。理屈もない。ただ、願いのみに焦がされて、当麻は木刀を拾う。遅かった自分が、何故その速さで動けているかなど知らないし、理解しようともしない。
力だけを感じていた。守りたいと、この時思ったのだ。
馬鹿な自分。守られるだけの子供。そんな自己嫌悪から、その儘で終りたくないと、魂が叫んでいたから。
何になりたいか、解らない。
何を感じたいか、把握できない。
ただ、此処で椿を死なせたくない。失いたくないと、それだけが身体を動かした。
故にこそ、木刀に、身体に、当麻は銀の光を纏っていた。気づいていない。本当に無自覚で、思考など置き去りだった。
だから、どうやったのか憶えていない。ただ、溢れ出た気を練り上げて、木刀に集束させ注ぎ込む。
それがアウルと云われるものだと、理解している筈もない。ただ、これは目の前の天魔を倒すだけの力はあると、何故かそれだけは感じていた。
いや、椿を守る力だと。傍にいる為の力が、これだと。
そして放たれる、銀光に輝く一閃。
それはもうただの木刀に非ず。アウルに目覚めた事で、上昇した身体能力と、それを燃焼させて加速させた一撃。人の目に留まらぬ唐竹割りは、狼の姿をした天魔の頭部を叩き割っていた。
散る鮮血。そして、威力に耐え切れず、根本から折れた木刀。
からんと、落ちた音。
手から、指から滑り落ちた。一撃を放って、何かが消えたように。
それより大切なものがあると、ようやく気付いたのだから。
「……椿、さん……っ……」
振り返る。自分の肩口を抱きしめるようにして、流れる血を止めようとする少女の姿があった。
両膝をついていた。
頭は垂れていた。血は止まらなかった。
「今、救急車を……!」
怖かった。この人が居なくなるのは。
優しい声を聞きたい。静かに語りかけて欲しい。
やっと判ったから。憧れは、何時か、その人を超えて傍にいる為にあるのだと。
だから、消えないで。死なないで欲しい。言いたい事が、沢山あるから。
まだ当麻は椿の横に、立てていない。
「……こ……い…よ……」
それは呟き。震えた、少女の声。
流れ続ける血よりも、当麻を震えさせる、泣き声だった。
「怖いよ、当麻。なんで、なんで……君は……」
出血し過ぎて、白い肌。
そして黒い前髪を揺らし、視線を上げる。
涙が、ぼろぼろと零れていた。
どうしもなく、壊れた涙腺は、次々と雫を作って落としていく。
落ちて散る涙。飛沫は跡を残さない。ただ、ただ、恐怖に震える少女の声が、冬の静寂に響いていく。
「どうして、君は逃げなかったの……!?」
茶色の瞳に浮かんでいるのは痛み。失ったらどうしようという、恐怖の色。
それは鏡合わせのように、見つめる当麻の瞳にも浮かんでいた。余りにも似て、お互いを貫く、悲しさと恐怖の色だった。
「君が死んだら、私はどうしたらいいの。どうやって、君のいない日々を過ごせば良いの!?」
傷など気にしない。身悶えするように身体を震わせて声を張り上げ、それと共に勢いを増す流血。
それと一緒で構わない。この想いが届いてくれるならと。
ねぇ、当麻。君のその瞳にも映っているから、解るよね。
自分より、大切な誰か。
大切な人。その人は、とても重くて、掛け替えがない。
自分よりも大切で、そこに常識なんてないのだ。
「大切な人が消えたら、怖いんだよ。もう声も聴けないんだよ、放せないんだよ、触れないんだよ」
解って。伝わってと。
どうして、逃げなかったのと。
「君の馬鹿……君は馬鹿……!!」
叫ぶ声。射抜かれたように、見つめられる視線。乗せられた感情。
「だって」
絞り出す、想い。
正否などなかった。
ただ感情だけが交差して、擦れ違うように言葉が流れる。
何処で終るか解らない。ただ、言いたかった。言わざるを得なかった。
「椿さんがいなかったら、次、僕はどうしたらいいんですか。僕は、誰と一緒に生きればいいんですか。言いたい事も、聞きたい事も沢山あるのに」
結果だけ見れば、二人は助かったのだ。
当麻の行動が正しいと、そう見えたかもしれない。でも、これはきっと奇跡。
天魔に襲われた少女と少年のうち、片方が唐突にアウルに目覚めるだなんて、どんな偶然だろう。
理屈としての今より、感情が、あの瞬間を思い返して震えていた。
「ただ、怖かったから。椿さんを、何時か追い抜きたかったから……」
それは、ついさっき覚えたものだ。けれど、偽らざる本音だった。
「追い抜いて、今度は傍にいますから。すぐ傍にいて、今度は僕が先を歩きますから。遅いなら、早くなりますから……消えないで下さい。死なないで」
ぼろぼろと零れる涙に、釣られるように膝から崩れる当麻。
重かった。重力が何倍にも増したように。
腕を伸ばした。
震える椿の腕に。傷口を抑え、共に血で染まりながら。
胸に、椿の額が押し付けられた。泣き声が響き、身体の震えが直に伝わる。
「守りたいんです……椿さんと、一緒に、見られる日々を」
次は何を見よう。桜の前に、雪を見たい。共に雪の積もった野原で転がり、座り、雪玉をぶつけて。
「ああ……」
その呟きは、どちらが出したのだろう。
どちらも、ぼろぼろと崩れるように震えて、涙を流していく。
血の赤さ。
透き通る涙。
二人しか、いない場所。
抱き締めた椿の身体はこんなにも細くて、脆いものなのだと、初めて当麻は知った。
こんな身体で、何時も前を向いていたなんて。前を歩いていたなんて。
――僕はなんて臆病なのだろう。




