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現の鈴、あの日の音と約束


 彼女は何時も鈴を結んでいた。鳴り響くその音色を憶えている。

 忘れる筈がない。忘れる事などあり得ない。聞き違えも絶対にない。


 それは少年が渡した、約束の鈴だったのだから。

 音は全てを呼び覚ます。意識も、過去も、記憶も。

 そして、手渡した鈴に込めた想いさえも。



――ちりん、



 と、僅かに香る金木犀の香りと共に、静かに流れた鈴の音。

 忘れる筈のない、少女のコエと共に。

 場所が違う。景色と色が違う。此処に金木犀はない。そんな事、些細な違いだ。

 約束を覚えている。鈴を持つその人の優しさを覚えている。それが全て。

 強さも笑顔も、全て。何一つ忘れていないし、それが崩れそうな少年を支えるモノだった。


 それが、揺れる。

 瞼を開きたくない。閉じた一瞬に、覆せない事実の全てがあった。

 目を開ければ、きっと泣いてしまう。涙で光景と現実を滲ませてしまうだろう。


 受け止めないといけないのは解っている。だから、せめてほんの一瞬だけ、猶予が欲しかった。

 全てを受け止める為に、息を吸う。整える。視線を逸らさないように。もう逃げない為に。

 眼の前に広がっていた理不尽さは幻想に似て、逃げるように過去を追想させた。

 だから、こそ。



――ちりん、



 何処からか流れ込む匂いと記憶。それらが呼び覚ますのは甘い感傷。

 染み渡るようにして蘇る。色はぼんやりとして、けれど、その輪郭ははっきりと。今でも鮮明に。


 好きだと言ったあの日。金木犀の前で交わした言葉。

 笑顔と声。全ては泡のように浮かび上がり、また淡く消えていく。

 一瞬たりとも残ってくれない。ほんの僅かも、現実からの逃避を許してくれない。


 現実では、砕けていく氷のよう、鳴り響き続ける鈴の音がある。

 甘くて苦い、昔。冷たく張り詰めた、今。


「ね」





 声は静かに。過去へと誘う。

 見たくない光景が、目の前の現在では広がっていたから。

 ただ始まりの瞬間をと、記憶を呼び覚ます。

 忘れていない。忘れられないよと。

 消せず、消えない記憶として、脳裏を過ったのは赤と橙。斜光の鮮烈さと、約束の祈り。




 その日、空は赤かった。

 金木犀は咲き誇りながら静かに香る、秋の庭園。誰もいない二人だけの場所。

 黄昏に燃えるとはあの事だろうか。雲が橙を帯びて、斜陽が強烈に周囲を染め上げる。


 鮮明で鮮烈な色彩だった。記憶に確かに刻まれた、過ぎて終わり行く瞬間の赤光だ。

 燃え上がるような気配。けれど、静けさが場を支配していた。


 揺れる幾つもの金木犀の橙の花びらが、空白を埋めるよう、辺りにその香りを揺らしている。そして散っていっていた。別れを告げるように。

 あれはそういう時間帯。きっと、色は違えど今と同じような時刻。

 夕焼けに染まる中、彼女へと手渡した鈴。


 あれは二年ほど前の出来事だった。

 捧げて誓ったモノは胸の奥、魂に刻んで今もある。

 言葉は稚拙だった。今思い出しても、恥ずかしさで胸を掻き毟りたくなる。


 ……いや、それは後悔なのだろう。

 守れる筈のない約束を、してしまったのだ。


「その鈴を鳴らしてくれたら、何処にでも駆けつけますから」


 そんなの無理だ。距離という概念と法則は無視出来ない。

 それでも真摯に、何処までも純粋にその時、少年は口にしていた。


「その鈴が鳴れば、駆けつけて貴女を守りますから。今度は、絶対……間に合いますから。守ります」


 漏れるような少女の微笑み。どうしようもないね、と声が聞こえた気がした。

 男の子だからきっと仕方ない。そんな夢を見続けるんだろうね。

 けれど、とても愛おしそうに。


「椿さん」


 笑ってくれる彼女が好きだった。もう泣かせないと決めたのだ。

 しずしずと流れる涙は、悲しかった。堪える嗚咽は、胸を砕く。

 声のない寂の夜は、余りにも悲しすぎた。

 そして、美しい一夜だった。身を切られるような。自分の在り方と全てを決めるのに十分な程に。

 だから、その晩が開けた数日後。この日、この時、旅立ちと共に、片瀬・椿という少女に、少年――水代・当麻は魂を捧げた。


「貴女に僕の剣を捧げます。僕の剣は貴女を護る為にあると……その鈴に懸けて」


 もう泣かないで。

 しばらく傍にいれないけれど。その鈴の中に全てを込めた。きっとその想いが護ってくれると。

 そして、言葉に嘘はない。何時でも駆けつけるから。


「じゃあ、君の想い、受け取らせて貰うね」


 そう言って黒い長髪に鈴を結ぶ椿。胸の前へと流した一房に、心臓の位置にその鈴がくるように。

 右手だけで器用に。左手は、もう、まともに動かないから。守れなかった、から。

 けれど、それを気にせずに微笑み続ける椿。

 黄昏の空。詠うように、少女は言葉を紡ぐ。


「君の想いは、此処にある。――忘れないよ」


 椿が鈴を鳴らす。



ちりんっ、


挿絵(By みてみん)


 そうして鈴の音が響いて、現実へと引き戻される。

 時が止まる事なんて、ないのだから。

 此処は庭園ではない。生物の気配のしない場所。 


「忘れてないよ、君の事」


 声に応じて、この紫の空の下で、瞼を開らく。ずっと閉じてはいられないから。

 けれど、茫然と見つめる事しか出来ない。

 見たくないものが多すぎて。閉じた瞼はそのままに、夢の甘さに浸っていたかった。

 逢いたかったと叫ぶ当麻がいた。涙が零れて砂で作って形を保っていた理性と感情が、ぼろぼろと崩れていく音。それが鼓動に合わせて全身に流れていく。


 だが、反面、恐怖と危険が本能を揺らしていた。

 すり鉢状に階段となって降りていく小さな公園の野外ホール。

 その一角で、当麻は椿だったものを見下ろしていた。

 時は逢魔ヶ国。人でないモノと、出逢う時。探していた少女は、果てた美を晒す。


 有り得ない程、深い紫色の空。降り注ぐ夕日さえも、深紫のそれだった。

 そして流れる風に靡き、流れる髪は――赤。

 血のように鮮やかな長髪と、結われた鈴を靡かせて、少女は手にしたそれを振う。

 形は刀だった。けれど、赤黒く濁ったそれは、血にて形を成したもの。その原料となった血の海と、死体が、公園の階段の上でごろごろと転がる。


 ちりんと鈴が鳴り、とろとろと血の流れが零れゆく。

 辺りは燃えるような赤に染まっている。飛び散った血が、燃える炎の姿を描いていた。

 まるでこの世ではないかのような、匂いと、光景。

 そして、椿の声。姿。


 優しげで物静かな風貌は、あの髪の色以外は何一つ変わっていない。

 細身の身体。長い髪と睫毛。白い、肌。雰囲気さえも、そっくりに。瓜二つ。

 でも、認めたくない。返り血に塗れた少女が、彼女だと。


「約束してくれた事、嬉しかった。この鈴はずっと持っていたよ。揺れて音が鳴る度に、君の事を思い出していたから」

「…………」


 何と応えればいいのだろう。

 髪以外は全て知っている。変わっていない。声も、姿も、暖かな茶色の瞳も。そこに宿る優しげな感情も。

 でも、決定的に違う、二つ。


 髪の色と――吹き付ける、とある意志。


「守ってくれると信じていたよ。だから、うん、怖くなかった」

「守るって、誓い、ました……から……」


 擦り切れるような当麻の声に、椿はくすりと笑って応じる。

 そしてぱしゃりと、鮮血の血溜まりへと一歩踏み出し、ブーツで飛沫を上げる。

 殺した。この少女が殺した。返り血に濡れたワンピースもブーツも、全てそれが嘘ではないという事を知らせている。


 変わらない現実。起きた過去は、変わらない。

 この少女が――あの時、死んだという事も。今目の前にいる存在が何なのかは、肌を通して理解してしまう。


 魂を失った、悪魔の下僕。ヴァニタス。

 今あるのは、屍に仮初の命を吹き込まれた人形。

 止まった鼓動を、悪魔の力と色彩で、無理矢理動かしている。


 もう人では、ない。肉体も精神も、悪魔に変質させられている動く屍。

 認めたくない。信じたくない。けれど、言葉は続く。間違える筈もない、彼女の声で。


「でも、また守れなかったね。また、間に合わなかったね?」


 静かに、責め立てるのではなく、むしろ許すような声色で投げかけられる。


「鈴は、何の意味もなかったよ。信じて、いたのにね?」


 椿から吹き付けられる感情の波は優しさと殺意を織り交ぜた奇怪なものだった。

 それが指向性を持った圧力となって風を巻き起こす程に、少女から当麻へと向けられている。膨大な感情のうねりだった。人の技では断じてない。人が起こせるようなものでも、抱けるものでもない。


「愛して、いるよ?」


 これは愛。これは殺意。反するそれが同居して混在し、一つへと化した鬼姫の囁き。

 か弱く繊細そうな身体も、今はただ一つの為にあるのだと実感している。

 殺す為。斬る為。この愛と魂は殺戮の異界に堕ちている。


「愛していますよ、僕も」

「だったら、ね。――殺されてくれるよね?」


「どうしてです?」

「それが――私と君の救いになるから」


 ばしゃばしゃと音を立て、血の池と化したホールの底からゆっくり歩み寄る椿。

 逃げる事や拒絶を考えていないのだろう。

 見ていられなかった。だから、空を見上げる。紫に変じたこの空の上、月だけが白かった。白々しい程に。


 ああ、一緒にはいられない。死んだモノは蘇らないし、彼女はもう、椿という少女ではなくて。


「大丈夫、私を信じて?」

「信じていますよ、椿さんを」


 静かに笑って、滲む涙を堪えて、刀を緩く構えた。

 捧げ持つ。捧げた刃。信じているし愛している。だから応えよう。

 熱を帯び、崩れていくような身体の感覚。肉を焼いていくような、血潮の流れ。


「――椿さんを護る剣は、未だ此処に」


 返り血で染まり、朽ち果てて枯れる華などにはさせない。

 その命は救えなかったけれど。心だけは、魂だけは。


「君と一緒に居たいと願う鈴は、未だ此処に」


 それを受け止め、けれど変わらず椿だったものは語りかける。

 揺らがない、二人の意志。

 何処までも透き通るような声。


 それだけが唯一、自分が相手に出来る事だと二人は確信していた。

 背後から聞こえる、静止の声。そんなものは邪魔だった。二人の繋がりの間に入るものは、もうないのだ。

 想いと共に、刃が奔る。誰にも止められはしない。

 止めさせは、しない。


「愛しているよ」

「愛していますよ」


 決定的に擦れ違った相思相愛。

 取り返しも引き戻りもできない程。

 だからこそ、動き出した。止められない。


「――貴女の魂だけでも、守りましょう。血で赤く染まり、枯れ果て、散る前に」


 何処までも透き通る祈りが、当麻の唇から洩れた。

 頬に、一筋の涙が零れて、それを追うように、真紅の一閃が当麻の首へと放たれた。

 迎え討つ白銀の刃も、等しくその首を散らす為に。



――どうしてこんな所に来てしまったのだろう。



――どうして、こんな事になってしまったのだろう。



 迷いは、鈴の音と共に。

 応えは知らず。風切る刃だけが静かに鳴いている。



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