ホリック
お題企画、「毒」を脳内変換して「中毒」で書いたのですがかなり本題からずれてしまいました…。誤字報告や感想などがありましたらお願いいたします。
今日私は風邪をひいたので、解熱剤を買ってから出社しました。
熱は下がらず、仕事も捗らなかったので中々帰宅できませんでした。
風邪は悪化したようですが仕方ないことです。
社会人である以上、風邪くらいで休むことはできません。
多少は体調を崩しても、風邪くらい悪化しても私が出社しなければ周りが困ります。
――私は、必要とされるから生きている、そのはずです
――――――
「理性破壊薬?」
「ああ、裏ではそう呼ばれてる。それを取り上げようと思うんだ」
声のトーンを普段よりも下げ、いつになく真剣な表情を造り、
彼女の上司にあたる田所はこの話を持ちかけてきた。
「それはどんなモノですか?」田所はその質問を待っていたかのように続ける。
「高い鎮痛作用の割に後遺症のリスクがないとされて麻酔に使われる一方、量によって
脳の中枢に作用して『人を殺める』という禁断症状が現れるそうだ。
この殺人の特徴といえば行為自体が本人の意思には起因しないことだろうな」
「本人の、意志ではない?」彼女は理解できずに聞き返す。
「言ってみれば衝動殺人だ。だから被害者の表情や出血量で
本能的に『危険だ』と理解すれば殺害行為そのものを中断するらしい。 しかしそう言った例は報告されていないともみ消されるしあれを大量摂取する機会は極端に稀だからな…。 まあ、正直なところ薬剤の開発って結構掛かるから製薬会社も、元を取りたいってのが本意だろうな」
「それを…私に、取材して来いと?」彼女は少し委縮したようだ。
「この辺に住んでいるらしい。理性破壊薬で人体実験された奴が。
その人間を原告として薬害云々で裁判を起こすことができれば我々は巨悪を相手にすることで注目を浴びる。すごい記事になるぞ」
「え、あ…」戸惑う彼女に田所は苦言を呈す。満面の笑みを浮かべて。
「勘違いするなよ。無償の人助けってのは組織でやるものじゃない。
団体で生きていく以上は利益が唯一の行動理由だ」
―――
彼はエレベーターのボタンを押して数週間放置した郵便物の回収のために
一階まで降りてやることにした。
寒さが身にしみたのかポケットに突っ込んだ手。それが硬質な金属にあたる。
「なんで入って…」
途中までエレベーターを降りてきた彼は戻る気にもならず、「それ」から意識を外した。
彼の容姿は部屋のゴミと同化している。何カ月も着こんだスウェットは変色し、無機物同然の眼から生気を汲み取ることは不可能だろう。加えて二十代前半とはとても思えない疲弊の色が傍から見ても感じ取れる。
無造作に伸びた髪をグシャグシャと掻き荒らす。その行為に刺激されたか、脳内であの台詞が再生された。
――まだ生きてる、これは完成しそうだ
まただ。残響が反映される。声の主がそこにいる、錯覚
「やめろ、壊れる……」
重圧を軽減する様に彼はその場に座り込んだ
「…あ」
一階に着く、と同時に開いたドア越しに女性は控えめな反応を見せた。
「大丈夫ですか…」
彼とは違う理由で疲弊しきっている彼女は二〇代後半の会社員だろう。
「すみません…」
彼はそう言って壁に体重を預けながら慎重に立ちあがった。
乗り込んだ二人が、エレベーターの停止に気がつくのは極めて早かった。上下する際、気圧の変化がないというのは不自然だ。
「あれ…?停まっちゃった?」女性がさも、迷惑。という表情をつくった
「停…まっちゃいました、ね…」彼は同調した。
「ちょっと私、管理会社、呼び出しますね」
非常用のボタンから状況を説明する彼女を彼は悠長に眺めていた。しかし彼女は途中で酷く憤っていた。その様子からしばらくここを出られないのは確定だろう。そして通信が途絶えたらしく、彼女は落胆している。「どうしたんですか?」という彼の質問に応じる彼女は少し煮詰まっている。
「漏電の際、復旧に使う予備電源があるらしいんですが、
自動運休だから九時にならないと作動しない…って言われました」
そう言って女性は頭痛を緩和させる様に、こめかみに指をあてる。
「あと二十分で開きますから。
すみません、僕なんかとあと二十分もここにいるの、苦痛だとは思いますが…」
「いえ…決してそういう意味では…
ええと…私は間宮冴と申します。出版社に勤務しています。帰宅は大体この時間で…
まあ、俗に言う 仕事 中毒ですね」
中毒。そう言って苦笑する表情は充足を思わせる。
「仕事、時々虚しくもなるんですが…」彼女は後半の方を強調しているように彼には見えた
「僕は、高瀬壮です。すみません。
仕事を、その、していなくて……僕、就職したその日に解雇されそうで…」
自虐を前面に出して苦笑する高瀬。その発言が割と現実味を帯びたものかもしれない
と間宮は感じてしまう。
眼の前にいる相手を明らかな劣勢に立たせてしまった場合、大概の人間は慰めにと同じ意味を持つ励まし方をする。間宮も例外ではなかった。
「必要とされない人間はいませんよ。自分が要らなくなれば人は生きていけないでしょう?」
それは表層に届くことすら無いような薄い社交辞令。そのはずだ。
しかし高瀬は少し生気が戻ったように緩んだ表情を見せる。
単純に嬉しそうだ。
砂漠で飲む水は美味い、とでも言うのだろうか。他人と会話をする機会の無い高瀬には世辞さえありがたいものだったのだろう。
「いま間宮さんがいなければ僕はここから出られませんでしたよ、非常ボタンの場所、
いま知りました。」
間宮は再び苦笑を交えて話す高瀬対して好感さえ覚え始めていた。
「僕は羨ましいですけどね…
中毒になるまで仕事ができる、会社にとって間宮さんはそこまで必要な人材。
すみません。無責任なこと言ってるかもしれないんですが、
僕は一生かかってもそんな風にはなれない…。だから、尊敬します」
その視線が現わしていたのは尊敬より羨望、羨望より自己嫌悪だ。
このとき高瀬は必死に抑えていた。まだ一度も、起こしたことはない衝動を。
ここで起こすわけにはいかない。
――動物での治験には限界があるからな。協力してくれ。病人の為なんだから
それに抗う術は無かった。否、抵抗する気力も意思も彼は奪われていた。
正確には恐怖という感情そのものを。
当初は静脈針入だったがそのうち錠剤を服用するようになった。
針入に比べて一回の効力と依存性は低いがコストダウンされ、
自発的に摂取できる機会が増えた。
失敗作は激痛に襲われ嘔吐したが成功品は体内に吸収させた。「協力」の結果は、
彼の生死を賭けた反応で合否を分ける。
合格すれば医薬品、不合格であれば毒物。それは実に滑稽な話だった…。
しかし人体は同じ類の薬品を投与され続ければ耐性ができる。異種であれば投与量が増え逃げ場を失った被験者の脳と体力が持たない。
だが、己を保つために彼の脳はさらに強いものを欲した。なにを失ってもこの感覚を諦めることはできないのだ。
蝕まれていく生気、体力。浸蝕される、思考回路。代償を払いすぎていることは分かっていた。理解、ではなく感覚で。だが彼の理性は既に臨界だ。
急速に死期を早めていることは火を見るより明らかなのだろう。それを承知で「協力」を止めなかったのは絶望したからではない。それ以上の快楽依存。
呼吸が浅い。脈も速まっている。だめだ。
それを認識した直後、高瀬は行動を起こしていた。右手に握られた凶器、
彼女に向けられたそれは、彼の意志と無関係だ。
間宮は腕時計に視線を落とし、話題を持ちかけようとした。
「高瀬さんあと十分くらいで――う…ぁ」
鈍い反応、閉所の空気が硬直した。
間宮はされたことを理解する前にその場に崩れる。
腹部に走る激痛を確認するように触れる。ゆるゆると視線を落としたそこは紅く濡れていた。出血量と同時に広がっていく恐怖。脈が速い。危機意識ではなく、動揺で。
彼女はやっと事態を察した。
その反応と光景は彼の理性を引き戻した。
あろうことか引き抜いてしまったそれを、咄嗟に放す。
カラン、という金属が床と接触する高音。それと同時に高瀬の呼吸は数刻完全に停止する。
状況を理解しようと必死に脳に情報を送り込んだ。
床に滑り落ちた刃、付着した液体に、『お前はなにをしたんだ』
そう問いただされている気がした。全身が戦慄するほどの衝撃を与える鮮明な色
「な、何して…」被害者である彼女の言葉は彼の畏怖を呷る。間宮に意識はあった。
その様子からして動揺しているのは刺した高瀬の方だろう。
執拗な動揺と後悔を帯びて立ち尽くす彼を見上げた姿勢で彼女は必死に意識を保つ。
衰弱を振り払うことはできなかった。
「し、止血…」
彼の、震え、掠れ、消え入りそうなその一言に間宮は反応を示した。
衰弱し、焦点の合わない視線を彼に向ける
感情として分類するならば驚いたような…声にならないわずかな反応だ。
彼は突き動かされるように間宮の応急処置を始めた。
彼女の姿勢を支えながら仰向けにする。断りもなく彼女の所持品をひっくり返す。
比較的衛生面で問題のなさそうなハンドタオルを腹部に当て、入っていた防寒用のセーターで固定する。
彼女だけはあと少しでここから出してやれる
高瀬は非常ボタンを押した。
「はい。こちら管理棟です何か「救急車を呼んでください、輸血が必要です。
早く…怪我人がいるんだ!」
振り絞るような、縋るような声
「どうし…いえ、わかりました」
彼の必死さに制圧されたように管理棟の向こうにいた人間は事態を飲み込めず要求だけに返事をした
その様子を薄れる意識の中で認識する間宮は高瀬の本意を痛感した。
彼は自分を生かしたいのだ、と。
だとすればどうして。
彼女の脳裏に一瞬、先刻の田所との会話が反響した。
自分の意志ではない?
言ってみれば衝動殺人だ
――理解した。これが『副作用』
救急車は呼んでもらえる。
高瀬は安心したように座り込む。
「…申し訳ありません。あと少しで救急車、きますので」
彼は理性決壊した直後の人間とは到底思えない穏やかな表情だ。
彼女はそれに応えるように微かに頷く。間宮の意識があることを確認した。
苦痛の滲んだ視線を向ける、それが恐らく彼に決断させたのだ。
――ここから出るのは一人でいい。
血に濡れた間宮の腕時計。針は九時二分前を指していた。時間が無い。
高瀬は立ちあがって床に放置された凶器を拾い上げる。緊張で発汗した掌、加えて付着した血液で滑る。動揺も合わさって弛緩する。うまく、掴めない。
苦労して拾い上げたそれを両手で頸動脈にあてた。濡れた掌、震える神経…
この場においては劣悪な状況だ。その状態に自らを冷笑した。
正直、怖い。
彼女はもう視線を動かすことができないようだ。制す余力はない。
焦り、恐怖、動揺、後悔それらに支配されながらそれでもなぜか安堵して
彼は自分に言い聞かせた。これで開放してやれる。自分も解放される―――――
「すみません…立つ鳥、跡を濁します」それは恐らく間宮には届かない声量。
痙攣に近い震え方、意に反する両手。酷使してそれを強く握った。
脈拍が、神経が、意識が、汗腺が、呼吸が、己のすべてが現状に抵抗した。
迷い、という形で
それでも人間の行動を決めるのは脳だ。両手で突き刺し、反射的に、押し斬った
――ッ
噴射された血液。無数の斑点が壁に付着して本来の色を覆っていく、崩れ落ちる影。感情を選ぶ時間は与えられない。
それは間宮の視界を覆い尽くした。対角線上の壁が紅く塗られた直後、
彼女の意識は、出血量に落とされた。
間宮の血濡れた腕時計の針が直角を象る。九時。予備電源作動
エレベーターが開くとともにむせ返るような血液の匂いが立ちこめる。
到着した救急隊員は咳込みそうになりながら直視した光景の惨状に言葉を失った。
紅く塗られた一番奥の壁板
その下で血海に溺れて倒れ込む影。
その手前で倒れる女性を隊員は発見した。
彼女を見るなり、そこにいた全員が理解した。生きているのは彼女だけだ、と。
血飛沫は彼女の周囲を避けているようにも見えた。
彼女を汚さない為の配慮、と言っては誇張になるのだろうか…。
案の定、間宮冴の蘇生だけが可能だった。
「こいつが止血したんですかね?状況からして刺したのもこいつだと思うんですが…」
同時に駆け付けた警官の一人が生死を確認したうえで、高瀬に手を合わせる。
彼はエレベーターの隅で無造作に横倒しになり、着衣の殆どを赤く変色させて
右手には「死因」が握り締められていた。
「危なかったな。このまま放置していたら彼女も間に合ったかどうか
だが、こいつは臨界点を丁度超えたって感じだな…死後、間もない」
「刺して押す、か…。 咄嗟にこういうことをする場合、
もう少し短絡的に、こう…横に切る場合が殆どだから、蘇生率もあるんだが」
「こいつは正しく逝ける方法を判断してやったとしか思えないな」
遺体の致命傷を確認して顔をしかめた後、場にいた人間の表情はどこか空虚だった。
蘇生され、彼女の意識が戻ったのは五日後。
彼女の両親が連れてきたのは田所だった。
「調子はどうだ」と軽快な挨拶を終えてから両親に席を外させた彼は
あの時同様真剣な表情で間宮にこう告げた。
「あの場で起こったことは公表するな。気付いているだろうが理性破壊薬絡みでこの事件を公表することはできない。今回の被害者は刺された君であって、薬物投与された高瀬ではない。
彼は自らの意志で薬物中毒に陥り、殺人未遂をおこし、錯乱して自殺を図った。分かるな?」
間宮の表情は簡潔に言うならば、悔恨、だ。
「違う…「最初に言ったはずだ」
田所は間宮の否定を制し、続けた。
「組織は個人に無償で行動してはいけない。
無償で与えることも際限無い自己犠牲も身を滅ぼすだけだ。公平さとは得てしてそんなものだ。弱者は権威に利用される、それ以上でも以下でもない。長いものに巻かれていればどんな状況でも自分を守れる」
そう言った田所の表情には満面の笑みが浮かんでいた。否定はさせない。
「大体、あのエレベーターの修理費用が
市の予算で賄われること自体が迷惑だろう。 あんなに汚しやがって」
間宮は病院特有の簡素な毛布を握りしめる。手が震えた。
簡潔に言い放った田所に反論できない。何に対してでもなく嫌気がさす。
強いて言えば抗う権利すら与えられない、権威に対する――。
その時、彼女は自分が高瀬に言った社交辞令を思い出した。
――必要とされない人はいませんよ
社交辞令をも単純に喜ぶ青年。その存在は死して尚、排斥され続けるのだ。
社会不適合者だと呆れられ、薬物中毒者だと避けられ、殺人未遂を犯したと軽蔑され、
自殺したと失笑を買い、現場を血で汚したと迷惑がられ、
そしていずれ…忘れ去られるのだろう。
――自分が要らなくなれば人は生きていけないでしょう?