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密集の中の空気

作者: 浅賀ソルト
掲載日:2026/08/26

 東京の朝の通勤電車の中、駅で人が乗り降りして入れ替わるときスペースに移動しようと奥に移動するおっさんが、その移動のタイミングで明確な動作で俺の鞄に肘打ちをしてきた。腕を曲げて肘を肩の高さに上げて、俺が体の前に回していたバックパックに肘をぶつけてきたのだ。

 さりげなくはあったし、なんかその一撃で自分のストレスを解消しようって軽い感じだった。おっさんにとって不幸なことは、俺は自分への攻撃は考える前に体が動くタイプだったことだ。

 無言で「邪魔だ」と伝えるようなその動作に合わせて俺はコンパクトに腕を上げ掌底でそのおっさんの目と眼鏡を打つという反撃に出た。

 おっさんはよろめき、びっくりしてこっちを見た。

 車両に緊張が走った。

 都会の通勤でそれなりに経験がある人なら、このおっさんのような攻撃的な人間を見たことは何度かあるはずだ。喧嘩を買うには曖昧な、しかし確実に周囲の人間のその日の気分を下げてくる存在。まるで満員電車で自分だけ特別に我慢していると思っているやからである。

 車内の人間は俺達から距離を取った。満員電車の中でほんの少し。まだドアは閉まらず人の入れ替えも終わっていない。そこに出来た隙間を詰められずにいた。

 俺はバックパックを体の前に位置させたままもう一発、おっさんの眼鏡を正面から叩いた。レンズがおっさんの目に直接触れ、フレームが歪んだ。頑丈な眼鏡のようだったがフレームはちょっと曲がり耳から外れて斜めになった。

 乗客の誰かが小さく、「うわ」と言うのが聞こえた。

 おっさんは舌打ちをした。「ちっ」そのまま車両の奥、吊革の間の方に逃げようとした。

 俺は何も言わなかった。ただその首の後ろのえりを掴んで引っぱった。

 おっさんは変な格好をしていた。パソコンを入れるような黒い四角いバッグを背負っているのはまあ普通としても、髪の色を一度抜いた上に染めたような白髪ではない艶のある白い髪だった。髪型も明らかに何かで固めている。眼鏡は黒縁の太いフレームだった。お洒落な上になんか怒ったような顔をしている。

 といっても満員電車で笑顔の奴はいない。

 俺は首の襟から手をズラしておっさんのバッグのベルトも握った。ぐっと電車の出口に向けて引っ張る。

 乗ろうとする乗客とぶつかった。

 電車の外に放り投げるには人がいすぎる。俺も一緒になって引っ張って降りないといけない。

 それは面倒だ。

 そして首根っこを掴んだものの、ここから座席の横の棒におっさんの顔面を打ち付けるにはやはり人がいすぎる。今の位置は出入口の真ん中、入れ替わった人が立ち止まるときの位置なのだ。

 しょうがねえ。

 俺はおっさんを突き飛ばしながら手を離した。おっさんは逃げようとした車内の奥の隙間へと移動する。俺とおっさんの間に人が入った。おそらくそんなところに位置取りしたくなかっただろうが、サラリーマンも押されて仕方なくだ。

「これでおあいこだぜ。恨みっこなしだ」

 そのときおっさんがイヤホンをしているのに気づいた。イヤホンしながら何も言わずに肘打ちしてきたのか。おっさんはこちらの方を見ないようにして俺との距離を取った。

 出入口付近の、ちょっと離れたところに立っている男が俺の顔をちらっと見てすぐに目を逸らした。

 ドアが閉まるとアナウンスが流れる。

 がたがたと音がした。

 車内の乗客は何も言わなかった。もちろんスマホをいじっている人間もいる。他には、ここから何か始まる予感を感じながら何もできないでいる人間が大半だ。

 俺は髪を白髪に染めた変なおっさんを目で追った。こっちを見てはいなかった。

 今日、気分が下がったのはおっさんの方だった。それで納得しているなら俺は構わない。


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