揺れる想いと足跡 1
その日、任務地は草木の生い茂る峡谷だった。
蔓草に覆われた足場は滑りやすく、視界も悪い。
地形の把握が甘ければ、すぐに怪我をする──そんな、慎重さを問われる仕事だった。
「セラ、左⋯⋯!」
その声と同時に、棘のある蔓が足元に絡みつく。
「っ⋯⋯!」
咄嗟に避けたつもりだったが、左腕に痛みが走る。
蔓の棘が服を裂き、肌を浅く切ったのだ。
「大丈夫だよ、すぐ手当てするから」
シラノスが、いつものように優しい声で近づいてくる。
すでに薬草と布を取り出しながら、彼は自然な手つきでセラの袖をそっとめくった。
「⋯⋯っ」
その瞬間、彼の手が一瞬だけ止まった。
現れたのは、引っかき傷の下に、古い爪痕──
あの日の証だった。幼い少女が、猛禽の魔物に襲われた痕。
だが彼は、まるで“今、初めて見た”かのように、何も言わなかった。
驚いた様子も、知っている素振りも見せず、
ただ淡々と、しかし丁寧に傷口を拭い、包帯を巻いていく。
「⋯⋯すみません、ドジ踏んじゃって」
気まずそうにセラが呟く。だがシラノスは微笑を崩さず、小さく首を振った。
「これくらいなら、すぐ治る。無茶しなかったの、偉いよ」
「⋯⋯なんですか、それ⋯⋯」
気恥ずかしさを紛らわせるように返すセラの頬に、薄紅が差す。
けれど──彼の瞳の奥には、別の想いがあった。
“あの日”からずっと忘れられなかった爪痕。
血に濡れた腕を抱きしめながら、助けを呼んだあのときの記憶。
目の前の彼女が、その少女であることは、最初から分かっていた。
でも、今ここで言葉にすれば、
彼女の中に封じられた恐怖を無理やりこじ開けることになる。
だから──彼は、黙っていた。
「⋯⋯シラノスさんって、慣れてますね。こういうの」
「昔、そういう仕事だったからね。怪我人を抱えて動くことも多かった」
「傭兵、でしたっけ⋯⋯」
「うん。あんまりいい時代じゃなかったけどね」
そのとき、不意にセラがぽつりと呟いた。
「⋯⋯夢を見るんです、時々」
「夢?」
「子供の頃の⋯⋯かも。広場、檻、黄色い目⋯⋯それから、羽音。
それが怖くて、でも⋯⋯最後に、誰かが声をかけてくれるんです」
シラノスは黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「血、止まってる⋯⋯って。震えてて、でも、優しい声。
顔は⋯⋯思い出せないのに、その声だけはずっと覚えてて」
彼の胸が少しだけ痛んだ。
それでも、あくまで静かに微笑むだけだった。
「君が、今こうして笑えてるなら⋯⋯きっと、その人も報われてる」
「⋯⋯あなたじゃないんですか?」
唐突な問いに、シラノスはわずかに目を見開いたが──すぐ、冗談めかした笑顔を見せた。
「さてね。どうだろう。オレの声って、優しげに聞こえる?」
「⋯⋯ずるいな、そういう言い方」
照れくさそうに俯くセラに、シラノスはそっと視線を落とした。
――君が幸せなら、それでいい。
過去を名乗ることよりも、今隣にいることを選びたい。
そう思うのは、ただの甘さかもしれないけれど。
でも、今の彼にとって、それがいちばん大切な答えだった。