空を見上げる理由 13
ギルドの屋根に登るのは、すっかり習慣になっていた。
かつては逃げ出したくなるほど怖かった高さも、今では少しだけ心地いい。
「⋯⋯空、綺麗だね」
セラはつぶやくように言った。
となりには、いつものようにシラノスがいる。翼をたたみ、脚を組んで空を見上げる姿は、まるで風の化身のようだ。
「うん、今日は雲がちょうどいい場所にいるな。
飛ぶには向かないけど、眺めるには最高だ」
そう言って笑う彼の声に、セラも自然と微笑んだ。
「昔ね、空って“見上げるもの”だと思ってたの。
自分には縁がない、遠い、手の届かないものって」
シラノスは黙って耳を傾ける。
風がそっと彼女の髪を撫で、淡い陽射しが頬に落ちる。
「でも今は⋯⋯違うんだ。
怖くないの。苦しくないの。
この空が、今は一番好き」
彼の瞳が細められる。銀のまなざしは、まるで空の色を映したようだった。
「⋯⋯そうか。君がそう言ってくれて、俺は⋯⋯嬉しい」
かつて、恐怖に震え、羽音に怯え、何も見えなかったあの空。
それが今、彼女の心にとって“好き”という感情で満たされている。
それは、何よりの奇跡だった。
「⋯⋯シラノス」
「ん?」
「わたしね、あなたと一緒に空を見上げるために⋯⋯
きっと、ずっと怖くても歩いてこれたんだと思うの」
その声に、シラノスは驚いたように瞬きをする。
「最初は逃げたくて、任務も嫌で⋯⋯あなたの羽根も怖くて、目も合わせられなくて。
でも、それでも少しずつ近づいて、やっとここまで来れたのは、あなたが、待っててくれたから」
セラは、手を伸ばした。
彼の羽根にそっと触れ、その柔らかさを確かめるように撫でた。
「⋯⋯ありがとう。シラノス」
「⋯⋯こっちこそ、ありがとう」
二人は静かに空を見つめた。
どこまでも続く青、雲の道、風のざわめき――それは、これから歩む未来の景色だった。
「空ってさ、上にもあるけど、横にも、後ろにもあるんだよ」
「⋯⋯どういうこと?」
セラが首を傾げると、シラノスは少し笑って、
「空はどこまでも続いてるからさ。どこを向いても、いつだって広がってる。
君が前を向いても、後ろを振り返っても、ちゃんとある。
だからきっと、過去も未来も全部、空の下にあるんだよ」
セラはその言葉に、しばらく何も言わなかった。
そしてゆっくりと、彼の肩にもたれかかる。
「そっか⋯⋯だから、怖くなくなったのかな。
どこにいても、空があるって思えたから」
「うん。君の中にも、もうちゃんと“空”がある」
互いの鼓動が、風の音にまぎれて響いていた。
何かを乗り越えた先で見上げる空は、ただ“高い”だけじゃない。
それは、誰かと分かち合うためのもの。
セラにとって、ようやく“怖くない”場所になったのだ。
「ねぇ、また一緒に飛んでくれる?」
その問いに、シラノスはそっと目を閉じた。
「何度でも」
その一言に、セラは微笑む。
風が、またそっと吹いた。
黒い羽が一枚、空に舞い上がっていく。
――この空が好き。
そう言える日が来るなんて、きっと、昔の自分は想像もしていなかった。
でも今は、誓える。
「私は、空を見上げるために、生きてる」
その言葉が、どこかでまた誰かを救う未来を願って。
二人は今日も、空を見上げていた。




