空を見上げる理由 12
風の音が、遠くから聞こえていた。
それはまるで、誰かが記憶の扉をノックしているような――そんな、優しい音だった。
セラは夢を見ていた。
何年も、何度も、繰り返してきたはずのあの夢。
けれど、今夜のそれは、どこか違っていた。
「やめて⋯⋯来ないで⋯⋯!」
幼い自分が叫ぶ。
あの広場、檻が開き、飛び出してきたコカトリスの幼鳥。
爪が、羽音が、目が――全てが恐怖の象徴だった。
あのとき。
誰も助けてくれなかった。
そう、ずっと、そう思っていた。
だけど今は――違う。
「⋯⋯大丈夫、もう終わったよ」
その声は、夢の中のどこかから聞こえてきた。
やわらかく、どこか懐かしい、低くてあたたかい声。
小さな自分の目の前に、誰かが立っている。
逆光で顔は見えない。でも、その人は確かに――
「君を守るって、決めたんだ」
幼いセラは、はっとして顔を上げた。
そこにいたのは、黒と銀の羽を背にした少年――いや、ハーピーの青年。
「⋯⋯だれ⋯⋯?」
記憶の中の自分がつぶやく。
それに応えるように、彼はにこりと笑った。
「忘れてもいいよ。怖いなら、無理に思い出さなくていい。
でもね、いつか君が、自分の足で空を見上げられる日が来たら――その時、思い出してくれたら嬉しいな」
カチャン、と音がした。
それは鍵の音だった。心の中の扉が、ほんの少しだけ開くような。
「ありがとう、って⋯⋯言ってくれてたんだね……」
大人のセラの心が、夢の中でささやく。
忘れたまま閉ざしていた記憶が、ようやく静かに戻ってくる。
「誰かが、私を助けてくれた。
あのとき、ひとりじゃなかったんだ。
怖くても、生きてこれたのは――あの声が、あの背中が、あったから⋯⋯」
目が覚めた。
セラは静かに瞬きをし、天井を見上げた。
窓の外では、夜明け前の柔らかな光が世界を包みはじめていた。
隣で眠るシラノスの肩が、かすかに動いていた。
傷はまだ完全には癒えていない。それでも彼は、生きている。
あの日、自分を救ってくれたあの背中が、今もそばにある。
「⋯⋯ありがとう」
小さく、ささやくように言ったその言葉に、彼は目を開けた。
眠たげに、けれど安心したように、彼女の声を受け止める。
「⋯⋯ん。夢でも見た?」
「うん。⋯⋯ようやく、ちゃんと思い出したの。あのときのこと」
セラはそっとシラノスの羽根に触れる。
黒と銀。あの夢と同じ色の、それは彼の証だった。
「助けてくれたの、あなたでしょう? 私、ずっと⋯⋯忘れてたの」
「うん、そうだよ。あのとき、偶然通りかかって――ただ、どうしても君のことが気になって」
彼の言葉は、照れくささと愛しさを含んでいて、セラは思わず笑ってしまった。
「⋯⋯変な人。でも、ありがとう。
私は、ようやく自分の物語を最初から読めた気がする。
あの時の『ありがとう』を、ちゃんと伝えられるようになった」
「じゃあ、これからは“未来”を見に行こうか。
君が空を見上げる理由は、もう“過去”だけじゃないんだから」
その言葉に、セラは深く頷いた。
鍵の音は、もうしない。
扉は開かれ、記憶は温かく、今の自分と手を取り合っている。
過去の声も、未来の鼓動も、今この胸にある。
――ありがとう。
やっと、伝えられた。
今日もまた、空はきっと美しい。




