空を見上げる理由 5
ギルド本部、廃教会を改装したその建物に、ようやく静けさが戻っていた。
窓を開け放てば、夏の風と共にほんのり薔薇の香りが流れ込んでくる。
それは、いつしか誰かが庭に植えた薔薇の花が咲き誇っているせいだった。
「めんどくせぇ⋯私戻ってくるやつのために、椅子の数まで数えなきゃなんねぇとはな」
バルド・フォングリム、鋼薔薇の猟犬ギルドマスターは、資料を広げた机の前で盛大にため息をついた。
その口ぶりとは裏腹に、目尻はどこか緩んでいる。
「戻ってくるって、信じてたんですね?」
リファが湯気の立つお茶を運びながら、ツリ目を細めて問いかけた。
黒い耳と赤い鈴付きリボンが着いた尻尾が、嬉しげに揺れている。
「んだよ、お前まで⋯⋯」
「だってぇ、親父がずっと、セラさんの部屋を掃除しといてやれって言ってたニャ」
「⋯⋯⋯⋯」
返す言葉もなく、バルドは咳払いを一つ。
だがその瞬間、重たい扉が開く音が響いた。
「ただいま戻りました」
涼しげな声とともに、セラが姿を現す。
そのすぐ後ろには、白銀の羽根を携えた男――シラノスもいた。
ふたりが並んで歩いてくるその姿に、リファはぱっと瞳を輝かせた。
「ほんとに帰ってきたニャ!」
「帰るさ。俺たちの居場所だろ?」
シラノスの穏やかな微笑みに、バルドは肩を竦めた。
「⋯⋯ま、無事で何よりだ。死んで帰ってきたら、成仏もめんどくせぇからな」
そんな毒舌にも、セラは微笑みながら深く頭を下げた。
「ギルマス、ありがとうございました。⋯⋯あの任務で、私はようやく自分を赦せました」
「ふん。赦す赦さねぇはてめぇで決めりゃいい。こちとら勝手に抱きつかれた記録書の山を片付ける方がよっぽど修羅場だ」
ぼやきながらも、バルドは懐から一枚の紙を取り出す。
「で、だ。お前ら。これ、受け取るか?」
差し出されたのは――“鋼薔薇”の紋章。
狼が一輪の薔薇を咥えた、ギルド幹部の証だった。
「⋯⋯! これって⋯⋯!」
リファが目を丸くする。
「まさか、ふたり同時に昇格?」
「そうだ。まぁ、“めんどくせぇ”の義務は増えるがな。口に出すだけじゃねぇ、一日十回だ。壁に書け」
冗談めかした口調に、シラノスは苦笑した。
「ありがたいお話ですが⋯⋯辞退させていただきます」
「⋯⋯へぇ?」
「俺にはまだ、その資格がありません。――今の俺に必要なのは、階級じゃない。隣にいてくれる人を守る力です」
隣に立つセラが、少し恥ずかしそうに、でもしっかりと彼の袖を掴んだ。
「私も⋯⋯もう一度、地に足をつけて歩きたいです。ちゃんと、今の私を“冒険者”として確かめたい」
リファがにっこり笑って頷いた。
「⋯⋯いいニャ。ふたりとも、今が一番かっこいいニャ」
バルドはしばらく無言のままふたりを見つめ――そして鼻で笑った。
「まぁ、いい。お前らの答えが“今”なら、それでいい」
窓の外では、薔薇が風に揺れていた。
その香りはどこか懐かしく、けれど新しい始まりの匂いでもあった。
ギルドにはまた日常が戻る。
けれど、その日常は――確かに変わっていた。
もう逃げないと決めた者がいて、
過去を越えて、未来を信じる者がいて。
その空の下に、確かに“希望”という名の薔薇が、咲いていた。




